おきつねさまと帝

 グシャァ。

 中将の生首はあろうことか石壁に激突し、頭蓋骨が砕け散った。はじけ飛んだ脳髄は乾いた土へと吸い込まれていく。

 極度の緊張から解放され、もうろうとした私は中将の前歯に化けたまま、石壁のすきまに埋まっていた。

 石壁──?

 大内裏のなかで、石壁がある殿舎はひとつしかない。内裏の後宮のなか、雷鳴殿だ。雷鳴殿の中庭には雷光岩という、稲妻が走る赤黒い石を重ねて建てられた東屋がある。よく側室たちから挨拶がわりに「悪趣味だこと」と、罵られていた。それを私は「この東屋は、私の白い肌を痛めないようにと、帝が自身で石を選び建ててくださいましたの。あれみなさんは? ん?」と、返しにしていたのだけれど。

 視界がかすむ。

 まずい、眠気が土砂崩れのように押し寄せてくる。ただでさえ眠くなる刻に、歯などとちいさなものに無理して化けたのだ、からだが思考をも休ませようとしているのだろう。冷静なる判断の結果、私はこの睡魔に抗えそうにない。

 ごめんね、コン。

 またあなたの手をわずらわせてしまう。

 でも聡明なあなたならば、玉藻姫がのった馬につけた歯形から、中将の首のなかに私が潜んでいたことがわかるはずだ。そして飛ばされた方角を辿ってくれる。

 眠ればきっと、もとの姿に戻ってしまうが、後宮の端っこの、荒れ果てた庭で眠る野良のキツネに違和感はないだろう。せめて化けたまま眠ってよいか、コンに訊いておけばよかったが、悔やむのも夢うつつで、私はないまぶたを閉じた。



雷花らいかの、君」


 空を走る雷鳴と男の声が重なる。

 私は静かに意識を取り戻したが、雨の香りと夜の気配に焦燥とした。案の定、ぐっすりと眠りこんでしまっていたようだ。キツネに戻っていると思ったのに、からだは相変わらず壁にうまっている。どうやら身じろぎひとつせずに熟睡していたみたいだ。


 困ったことになった。ちいさな歯のままでは、コンが探しに来てくれたところで、みつけられない。今も探しまわっているか、馬寮で待ちぼうけているか。不安を抱かせていることには違いない。

 待って? その前に誰か、この私を雷花と呼んだ?

 

 帝だけが呼ぶ、私の愛称を──。


「雷花の君……、ああ、どうか、怨霊でもいい。あなたに逢いたい。今ならあなたを許せるから」


 耳馴染んだ声に、ゾクリと総毛立つ。

 降り出した雨のなか、東屋の内側から、帝の声がたしかに聞こえた。

 ところで誰を許すって?

 私が帝に対して大それた罪を犯したとでもいうのか。

 それになぜ東屋で私の名を呼ぶのだろう。まさか墓にでもされているのだろうか。冗談じゃない、雷鳴殿に埋められるくらいなら、鳥の餌になったほうがマシだ。

 

 ああ、だめ。よくないよ、ユキ。


 暴れようとする心を必死に宥める。今少しでも動けば、もとの姿へ戻ってしまうのだから。帝がいなくなるまでは、たえなくては。


 だが降り出したばかりの雨足は強くなるばかりで。


 心を鎮めようと、感情を押さえこもうとするたびに、焦れたつ。


 コンに会いたい。

 胸のなかで私をなだめてほしい。華やかに笑って、大丈夫だよって、頭をなでて。思い出して気づいたの。コンはいつも、どんなときも笑っていた。


 ──その笑みに、どれだけ救われてきたことか。


 でも私に、その笑い顔を向けられる権利はない。

 感情が怒りから哀しみに移ろう。

 コンは、私のお目付け役という使命を背負わされたあげく、私のせいで両親を失った。

 私ひとりに人生を狂わされているのだ。

 今までも、これからも。


 まるで恐ろしい呪いのよう。


 鼻先に触れたコンの感触を思い出し、心の臓がはねあがる。


 まずい、変化がとけてしまいそうだ。

 追いつめていた心を平淡にすると、今度はからだが悲鳴をあげた。おなかがすいたのだ。それだけは耐えられない。

 いっそうのこと、潔くキツネになって逃げようか。帝は耳が悪いのだから、キツネの足音など気づけない。気づいたところで追いつけまい。

 そう思うと、動かずにはいられなかった。


「────っ、はぁ」


 土に沈むように倒れこむ。

 できたばかりの水溜まりに落ちた私は、想定よりずっと大きな音をさせ、水しぶきをあげた。耳の弱い帝にも、さすがに聞こえたかもしれない。泥になった土に両手をつくと、甲が中将の赤黒い血の色で染まった。夜目にも白い肌によく映える。

 

 手の、甲……?

 それに、指が細長くのびている。

 いつものように腰を上げ、四つ足で立つ。するとひどく滑稽な気がした。今度は頭を下げて尻尾を探す。

 ない。

 代わりに、後ろ足がすらりと伸びていた。


「うそ、えっ、私、人間になってる?」


 辺りを見渡し、おおきな水溜まりをみつけると、私は四つん這いのまま進み、覗きこんだ。


 暗闇のなか、かわらず怪しく光る紅玉の瞳。だがその瞳を取り囲む眼窩は白い毛ではなく人の肌に覆われ、瞼からは烏羽色のまつ毛が豊かに枝垂れていた。筋のとおったちいさな鼻に、花が開いたようなふくよかな唇。


「わ、たし……」


 肩から落ちた髪をすくう。雨を吸い、湿り気をおびた黒髪。指ですけば、腕をのばしきって届く長さ。

 

 前世の私。

 今際の際より、少し若い歳のころの私が、水溜まりに映っている。

 そしてその背後に、驚嘆した帝の顔が映りこんだ。


「雷花、の君」

「いやぁ……っ!」


 四つん這いのままその場を離れ、間を取って立ち上がる。人間に変化した自身に夢中で気がつかなかった。覗きこんでいた水溜まりは、東屋の出入り口で、帝からまる見えだったのだ。

 今からでも遅くない。逃げなくては。

 だが私の膝は震え、力が入らない。まるでからだごと前世に戻ってしまったようだ。雷と雨風が吹き荒れるなか、ひとり動かなかった、雷鳴の中宮に。


「雷花、雷花……っ、ああっ、夢みたいだ。ようやく逢いに来てくれたんだね」


 帝が一歩、また一歩と近づく。

 金色の髪の下は相変わらず幸の薄い美女顔をしている。そんな彼を愛しいと、護ってあげなくてはと思った日もあった。

 だがいざ目の当たりにすると、腹の底からはっきりと、憎たらしいと思った。溶岩が噴き出すように勢いよく、どろどろとして、べったりと貼り付くような嫌悪感。なによりも何百万という罪のない人々を死に追いやりながら、今こうしてのうのうと、立っていることが許せない。


 帝の豪奢な衣裳があっという間に濡れていく。


「ずっと、願い、待っていた。呪い殺されても構わないと、あなただけを、ずっと」


 東屋へ視線を泳がす。やはりあのなかには私の墓があるようだ。淡い秋桜の花が手向けられていた。


 ああ、いやだ。待っていたなんて知らないし、願いなど聞き入れたくもない。なんなら玉藻姫よりずっと、帝のほうが逢いたくなかった。


 姿を変えたことで力尽きたのか、叫ぶ声も音にならない。一刻もはやく遠ざかりたいのに、からだは鉛のように動かない。


「綺麗だ……、怨霊だなんて、嘘みたいだ」


 ゆっくりとのびた手は、私の細い顎先へと向かっていった。

 いやだ、触らせたくない。

 触れることが許されるのは帝だけと、散々言われてきたけれど。

 

 帝だけには、触られたくないと思う。


 ──ぜったいに。



「うごくな……!」



 声が出た。

 濡れ縁ではねる水滴のようだと言われた声が。

 そして声と重なるようにして、響き渡った雷鳴は光とともに地へ降り注いだ。


 一瞬、昼間のように明るくなった雷鳴殿で私は、帝の白みがかったふたつの瞳を、しっかりと見据えていた。目玉を下へおろす。

 帝の指先は、私の顎先へあとわずかというところで、止まっていた。


 まるで、彫刻のように。


「え……? うそ、やだっ」


 頭のなかで真っ先に浮かんだのは、喉から手が出るほど欲しかった異能。いずれわかる私だけの、おきつねさまの異能──、やはり落雷だったのだ。だが石化したのはなぜ?

 わからない。

 あとは、どれだけ整理してもまとまらなかった。雷に打たれて、死。石になって、死。

 答えが、死にしか行きつかない。

 動揺からか、石のように固まってしまった帝に反し、私のからだは動き始め、舌も饒舌になった。


「えーっと、えーっと、石になったけど、死んでないから! しばらくしたら、もとに戻るから!」


 我ながら稚拙なことを吐き出しているとは思う。

 それでも言わずにはいられなかった。

 さらに付け焼き刃のように「近衛大将を玉藻姫に殺させないで! あと中将の首、の残骸、奥さんに返しといて!」と、耳もとでまくしたて、屋根の下を目指した。毛のない私のからだは冷たい春雨にうたれ、悲鳴をあげている。


「近時に感謝しなくちゃ」


 帝を置きざりにして雷鳴殿のなかへ上がると、真っすぐ結界の張られた御寝所へと向かった。御帳台の敷妙を引っ張り出し頭からかぶる。このときにはもう、雨で洗い流したように、帝のことを忘れていた。

 おなかがすいたのだ。

 首に食い込む組紐を引きちぎり、御饌飴の小瓶をあける。これでは腹の足しにならないと思いながら口にふくんだが、舐め終わるころにはすっかり満たされた。


「大地の恵み、恐るべし。……さて」


 身にまとえるものを探さなくては。

 さすがに素っ裸で外へは出られないと、頭がまわりはじめた私は暗い御寝所のなかをぐるぐると探った。

 たしか女房のトキは、御帳台から見て左奥から衣裳を選んでいたはずだ。そちらを覗けば、衣裳箱の手前に衣桁いこうがふたつ立っていた。

 お気に入りの桜模様の衣裳と、寝間着だ。

 まさかこうなることを先読みして、近時が調えていたのだろうか。そう考えると手を出しにくいが、着ないわけにはいかないし、なにより寒い。どうせならと欲張って、寝間着の上に衣裳を重ねた。


「どんなもんだいっ」


 重い。

 礼服の十二単と同等の動きにくさだ。

 帯も適当に結んだらお団子になってしまった。つくづく、ひとりでは生きて行けない女である。

 御帳台の浜床はまどこに腰をかけ、情けなさに打ちひしがれていると、結界の外の回廊から、忙しない足音をひろった。腰をあげ、恐る恐るそちらへ近づくが、警戒心でからだがこわばらない。

 コンの浅沓の音だ。

 一気に緊張感が解けた私は、ぶつかるほどの距離で思い切って、結界の外へ顔を出した。


「ばあっ!」


 あぶない、あぶない。同じ上背のコンに頭突きしてしまうところだった。でもあとほんのちょっと遅かったら、唇が重なっていたので惜しいことをしたとも思う。そこまで考えると急に恥ずかしくなってきた。私ったら、暗闇とはいえ素顔をさらしてしまっている。どうせならお化粧をほどこしておくんだった。自分でしたことないけど。


「あの、コン……? わたし、わかる?」


 焦燥とした表情のコンが、かたまったまま動かない。


「あ、あっ、まさか」


 私は結界のなかへと後ずさり、床に膝を崩した。嗚咽を吐きそうになり両手でふさぐ。

 そんな。いやだ、コンまで、どうして。

 まさか私の異能は、目が合うだけで石化してしまう、不便極まりない能力なのだろうか。

 目尻に涙がたまっていく。

 でも、すぐに引っこんだ。


「あれ? コン、あれ?」


 表情は固まったままだが、手は匆々そうそうと動いている。指先で印を結んでいるようだ。

 スッと結界内へ足を踏み入れてきた。


「え!?」


 今まで対して気にとめていなかったが、近時の結界をいとも簡単に解くとは、さては天資に恵まれし陰陽師なのでは?

 だがしかしコンよ、とくと見よ。

 近時は床に何重もの結界を敷いている。ほら青白かった結界が赤い警告色に滲んで、外から内へと蝕んでいく。


「へ!?」


 コンは、もはや手を動かすこともなく、御寝所の真ん中に魔法陣を描いた。かかとに忍びよる赤い光に怖気もせず、私へ手を差し伸べる。

 あれ、でも顔が笑ってない。

 コンは私の手をしっかりと握ると、もう片方の手で魔法陣を引き寄せるという、荒技をみせた。

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