おきつねさまと騎馬打毬
浄土庭園まで四半刻。
突き破った御簾は朱夏殿の裏庭に通じており、離れてはいるが内裏の
「ああ……っ、やっぱり、はじまってる」
玉藻姫が開始時刻を前倒しにしたのだろう。騎馬打毬の球場への方角は、人々の阿鼻叫喚の声で察しがついた。慎重に、密に植えられた桃の木の上を
暴れ馬の麒麟の世話は、コンの担当であると周知のことだろう。その麒麟が玉藻姫に恥をかかせたとなればもちろん、責任をとらされる。玉藻姫の爪で引き裂かれ、血塗れのコンが頭に浮かび、泣きたくなった。
鼻をすすれば、血のにおいがする。
すぐそこだ。
木からおり、いちばん近くの茂みに身を隠し、球場を見渡す。
「うっ──、く」
覚悟はしていた。それでも歯を食いしばらねば、悲鳴をあげていた。
空高く、あげられた生首──、雨のようにふり注ぐ血飛沫。
球場は四つ。それぞれ十名の競技者が逃げることなく、血を全身に浴びながら、生首を追いかけている。人も馬も、恐れでひどく震えているが、白線の外へ出る様子はない。むしろ場外を恐れ、我先にと空を見上げる。その目は狂気に乱れていた。
本来、杖で
幾多も重なる槍の金属音のなかから大将の声を探す。観覧席にもっとも近い球場で、その野太い声をひろった。
「決して、落とすな──────っ!」
生首へ槍の切先が束になって襲いかかる。突き抜けたその穂が生首をとらえると、目玉がひとつ、押し出されて落ちた。
「キャ── ハハハハハハハハハハハハハハハッ」
気を失いそうになるほど耳ざわりな笑い声が、観覧席で響きわたる。当然のように、その席に帝は居ない。その後ろ手には麒麟がうんざりとした様子で立っていた。
観覧席の右手には舞台があり、
笛の音が一音、はずれる。
「は? なんだ貴様」
なんの知らせも猶予もなく、ひとりの楽師の首と胴が離れた。
玉藻姫は楽師の首だけを取り上げると、無邪気に笑いながら場内へと放り投げた。
「まったく、音を外したら殺すと何度も言っているのに。ほら新しい
競技者たちが、一斉に楽師の首をとりにいく。
「ほら。さっき、毬をとったあなた、あなたよ」
玉藻姫に呼ばれた仕官は、槍に生首をさしたまま、真っ青な顔で肩をそちらへ向けた。
「ああ……っ、そんな」
思わず嗚咽をこぼす。
近衛中将だ。
どうして。国を出て逃げたのではなかったの。
いや昨夜に気づくべきだった。実直な彼が、大将を残して逃げるわけがないのに。そんな簡単なことを、どうして私は──。
「目玉を落としたから、失格」
毬になりにおいでと、手招きをする。
中将が震えた手で手綱をひく。馬が線の外へと歩を進めると、場内から声があがった。近衛大将だ。
「畏くも皇后様……!」
中将が正気を取り戻したように、ハッとする。次には首を横に振り、大将の発言をとめさせた。
「もう、もういいのです。中宮様が静養されていた御用邸に、火の矢を放ったのはこの私。今日もっとも報いを受けるべきは、私なのですから」
「お前は、帝の命に従っただけだろうがぁ……っ!」
尻尾が戦慄く。
五年前──。私の死の床に矢を放つよう、わざわざ近衛中将に命じたというの。
長年溜めこんだ重い悔悟に引きずられ、彼はここまでやってきてしまったのか。
また、まただ。
私の、せい。
玉藻姫のこめかみに青筋が立つ。
「帝ではない。妾の、命だ。そして命に従ったからには、死をもって報いるべきだ」
無茶苦茶なことを言う。矢を放たれた当の本人は、私だ。私は中将、あなたを恨んでなんかないのに。真面目なあなたの手を汚させ、ごめんなさいと思うよ。
中将に私の声は届かない。
球場に響き渡る声で尚も言明するのは、近衛大将だった。
「しかしながら騎馬打毬は、最低五騎ずつの人間が必要です。なかへ入れる人間はもう、おりません」
楽師の首をさした槍の
「ふむ。そうねぇ、ひとり足りないと、不公平だわね」
中将が、大将へ頭を下げる。
「では、私が入るわぁ!」
下げた頭は二度とあがることはなかった。
中将は首以外、馬もろとも形をなくし、場内の砂に崩れおちた。
四方どこからも声もあがらない。
その静寂は、私の耳に鼓動の音をひろわせた。自分のものではなく、広場にいる人間たちの鼓動だ。ドクドクと、速く深く。みんな、心で慟哭しているようだった。
耳がおかしくなりそうだ。
血を吐くように涙が滴りおちる。
ごめんなさい。私、助けられなかった。
ほんとうに、ごめんなさい。
玉藻姫が高らかに言う。
「さぁ、出番よぉ?」
背後で麒麟がギクリと、後ろ足をにじった。
泣いてなどいられない。これ以上犠牲者を出してなるものか。逃げようものなら尻にかじりついてやろうと後ろ足を構える。
だが玉藻姫は麒麟へ距離を縮めるも、なかなか
「うーん。あなたにのったら、白くて美しい足が、汚れちゃうわねぇ」
代わりにそばにいた舎人を呼んだ。
コンだ。
「お前、適当に馬を選んで連れて来なさい」
今こそ駆け出そうと私は前足を浮かせたが、コンの右手にからまる紅い毛玉に気づき、やめた。
「えぇ〜、玉藻さまぁ〜、このコ、私のお気に入りなんですからぁ〜、ほかのコにしてくださいよう〜」
朱色のキツネだ。腰まわりからべったりと離れない。コンの美しさに惚れこんでしまったようだ。心苦しいが、今は救われた。ギリギリと歯噛みをしながらもたえる。
「ふん、そんな下人のどこがいいのか」
玉藻姫はコンへの興味がまったくない。さも煩わしそうに、馬を並べてつないだところまで足を運んだ。ていねいに毛を梳かれていた、馬の手綱を選んでまたがる。世話をしていた舎人は、朝に行き合った少年だ。
ひとまず、胸を撫でおろすが。
このまま見守っていては、小亀の占い通りの数が亡くなってしまう。そして競技中の近衛兵も間もなくそのなかに入るだろう。どうにかならないかと、私はあたりをよく見渡した。
首だけの中将と、目があった。
あなたの魂はもう、ここにないだろうか。そもそも、生首のどの部分に化けられるか不安はあるが。
「……よし」
「ええ!? やめなよ!」
たてがみから小亀の声がする。まさか毛につかまって、ついてきていたの!
「全然気づかなかった! スッポンなの?」
「スッポンじゃあないけど、これでも一応、つかわしめやからね! そうじゃなくて、今日の神託を忘れたの? ユキはここを離れて、今すぐ雷鳴殿へ戻るべきだ」
雷鳴殿だと? すっかり忘れていたわ。
「でも、みんな死んじゃうんだよ? しかもそのなかには近衛大将がいる」
何度だって言う。御都が低い大垣のなかで平穏に暮らせるのは、天子を護る強い武人の名が、世に知らしめられているからだ。そのうち三本の指に入る中将に続き、近衛大将まで亡くなられては、御都の防衛力は壊滅的となってしまう。
「占いのとおりなら、あとは競技者と舎人一名の命で済む。舎人の犠牲はおそらく、あの様子ではコンではないやろう。それやのに、もしもユキが出て行って、未来が変わったら?」
小亀の言いたいことはわかる。もし私がなにかやらかして玉藻姫の逆鱗に触れれば、コンをふくむ、この場にいるすべての人間が殺されてしまうかもしれない。
「……それでも、私は行く」
前世ならば、黙って見ているだけだったことだろう。目の前の人間を数字にして並べて、すぐに諦めて、目をそらした。
でも、今はちがう。
近衛大将の武力が惜しいだけじゃない。自分も崖の上に立たされているのに、それでも部下を思いやった彼を、ただ単純に、失いたくない。
「小亀は、コンのそばにいて」
「ユキ……!」
競技場の砂をかぶった私は、騎乗し場内へ入っていく玉藻姫のあとに、ソッと続いた。
玉藻姫は軽やかに手綱をひくと、騎馬を楽しむようにゆっくりと進んだ。みんな彼女に釘付けで、足もとでモゾモゾと動く毛玉にまったく気づかない。玉藻姫もまた、地とは真逆の空を仰いだ。今日は雲ひとつない快晴だ。
「雷鳴の中宮、来ないわねぇ。ちょっと急かしすぎたかしら。それともお得意の隠れんぼぉ? 小胆なこと」
「いいこと? 毬を落としたら、失格。線から出ても、毬門をはずしても、失格よ?」
「人数の足りない紅組へ、皇后様が入られますと私と組むことになりますが。……よろしいですか」
「もちろん、いやよ。そうねぇ、そろそろおなかがすいてきたしぃ、一点でも入ったほうが勝ちで、どう? あんたたち全員が紅で、私が白。悪くない話しでしょう?」
大将は、ニタリと薄気味の悪い笑みを浮かべ、言い放った。
「我々が勝てば、ここにいるすべての人間を解放してくださるのですね?」
「もちろんよぉ。負けたらほかの球場の近衛兵も全員、そこの
炮烙を指差して言う。
「後片付けのことまで考えるなんて、私ったら、なんて優しいのかしらぁ」
「皇后様、……競技場での約束は、かならず守っていただきますよ」
「わかってるわよ。──さっさと、投げな」
命令どおり、大将は槍を力いっぱい振りあげた。楽師の首が宙を舞う。白組側の毬門まで距離をのばすと、たまたまそばにいた近衛の槍にささった。
「あっ、……あっ、ぅあ」
「俺は絶対に、落とさない……! こっちへ投げろ────!」
大将の声にハッとして、近衛が夢中で振り上げる。
その
「ふふっ、うまいもんじゃろ?」
地につきかけていた毬は、玉藻姫の槍に音もなく、すくい取られるようにささった。だが、大将の槍もまた、届くところにいた。玉藻姫が
「なに……!?」
「どちらが速いか、勝負ですよ!」
押し出された毬は弧を描き、また反対側の毬門へと飛び上がった。
大将と玉藻姫の馬が全速力で並走する。
まるで一騎討ちだ。
あと少しというところで、大将の馬の首がのびた。
「チィッ」
舌打ちを一度、玉藻姫は槍の持ち方を変え、地と水平に突いた。
「ぐ……っ!」
その槍は大将の脇腹をかすめてから、
「ふん、うまく避けたな」
毬に深くささった。
「腑をかきだしてやるつもりだったのに。まあ、いい。みていろ、私の勝ちだ」
すぐそばにある毬門を見定め、槍を振り上げる。目をつむっても入れられる距離だったが──。
「ギャアッ」
突如として、玉藻姫の尻が鞍から滑った。馬が前足をあげ、暴れ出したのだ。落馬を防ごうと必死に手綱をひくが、馬が足踏みをするたびにぬかるみをつくり、足をとられる。
そこにはバラバラにされた中将と、馬の遺体があったのだ。そして私も──。
中将の前歯に化けた私は、玉藻姫がのる馬がすれ違う瞬間、そのスネにかじりついたのだった。
「もらった……!」
馬を落ち着かせ、玉藻姫が顔を上げたときにはもう、槍の穂に毬はなく。正反対の紅組の毬門で、大将は咆哮とともに、槍ごと毬を入れていた。
「うぉおおおおおお……っ!」
あたり一帯を地響きのような男たちの喚き声が轟く。歓喜に咽び泣くもの、馬をおりて大将のもとへ駆けつけるものがいるなかで、
「おのれ、おのれぇ……っ! 貴様だ! 貴様のせいだ!」
玉藻姫は馬の首をはね、滑るようにおりると、その馬の世話をしていた舎人のもとへと、猛進した。爪の切っ先が舎人の首にかかる寸前──。
「皇后様。あなた様は、ここにいるすべての人間の解放を、約束されました」
大将の猛々しい声が、広場によくとおった。
「キィイイ……ッ! おのれぇ、おのれおのれおのれ!」
怒り狂ったか、玉藻姫はまるで殺せるものがないか見渡すように、頭を振ってみせた。その紅色の瞳の焦点があったのは、球場にできた血溜まりだ。爪先の方角を変え、中将の散らばるぬかるみへと戻ると、玉藻姫は鋭いままの爪を中将の頭に突き刺し、拾い上げた。
「おのれぇ! 貴様か! 貴様の呪いだとでもほざくか……!」
童のような八つ当たりだ。
生首を捻り潰されるかと思ったが、玉藻姫は肩ごと腕を振り上げた。爪から抜けた中将の生首と──、その口のなかで歯に化けていた私は、紅い放物線を描いて、天高く飛んでいった。
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