おきつねさまと四皇子
「おきつねさま?」
朱夏の珊瑚色の瞳で正視され、磁石が反発するように目をそらしてしまった。
「あなた、おきつねさまっていうのね……!」
前世で朱夏へそうしたように、今度は私が両脇を支えて高くもち上げられた。溜め息を吐きたいところだが、朱夏の愛愛しいお顔にかけるのは忍びない。
私は降参とばかりに力なく笑うと、朱夏の腕をとびだし、几帳の前に立った。
「弥勒の言うとおり、私はおきつねさまと呼ばれるもの」
「弥勒? 今、おにいさまを名で呼んだ? 私は、朱夏よ。知ってる?」
「もちろんよ、私の愛しい朝顔」
ポカン、と表情をかためた朱夏から顔をそらすと、私は几帳の奥に語りかけた。
「なぜあなたが朱夏殿に居るの。ふたりには、どこまで話しているの」
「おやおや、おきつねさまともあろうお方が、四皇子様ではなく、私へ訊ねられるとは」
呆れた声が返ってきた。不躾だと言いたいのだろうか。考えが足りないとでも。
「ふたりは知る権利がある。結果、私やあなたに不都合が起きても構わない」
「では女御様を巻きこんでもいいと。そう仰るのですね」
「朱夏は隠しごとや、実はね、なんていう後出し話しが大嫌いなの。そうでしょう?」
朱夏は腰に手を当てて言い放った。
「嫌い。すべて見透かしたように話すくせに、いっつも几帳の奥で名も明かさないヤツは、もっと嫌い!」
弥勒は私が浮かべたような、困った笑みを外へ向けた。
「
「私は構いませんが」
「残念ながら私は耐えられそうもない。出ておいで」
近時と呼ばれた男は、首を深く垂れ下げたまま几帳を上げると、
「畏れ入りながら、この藤森近時、見苦しい顔のため拝謁叶わぬことをお許しください」
「藤森近時……、おねえさまの専従であった、陰陽師ね」
そう言うと、朱夏も腰を落とし、私と目線を合わせた。
「おきつねさまは私を見て、泣いた。私のことを、愛しい朝顔と……おねえさま、なのね」
深く、うなずく。
私のそばにいたせいか、よく機転の利くコだ。
朝はうるさいくらい元気なのに、夕膳のあとには気を失ったように眠るから、私は朝顔の君と、よくからかっていた。
そして私は前世で朱夏におねえさまと呼ばれていた。帝は帝と呼び、弥勒をおにいさまと呼ぶ。それではまるで私と弥勒が夫婦のようではないかと、帝はよく拗ねていた。
その弥勒は表情を変えずに生温かい目でこちらを見ている。どうやら弥勒へは、筒抜けのようだ。
朱夏は遠慮がちに私を引き寄せると、優しく抱きしめてくれた。床にぽたぽたとまあるい涙が落ちる。
「あなたはまた顔も隠さずに泣いて。近時のほうがよほど女御らしいじゃない」
近時はやおらに腰を上げ、
それでいて、片手で膝を叩く。
え? まさか、私が近時の膝を選ぶとでも?
「いらっしゃらないのですか」
「いらっしゃらないわ!」
「そうですね。あなた様は腕のなかにおさまると、すぐにお眠りになられますからね」
「やだ、おねえさまったら、抱っこで眠ってしまうの?」
かわいい!
と、力を強める朱夏の腕をとんででる。
「そうよ、大好きな姫君に抱っこされたら全力でまぶた閉じてしまうわ」
「まあ……!」
その前に朱夏の怪力でつぶれちゃうところだったけどね! その証拠に、帯に挟んだ菊の花がクッシャクシャのペッタンコになっている。こわい!
「さあ近時、もったいぶらずに話して。眠くならないていどにね」
近時がなにゆえ、長年仕えた従者のように朱夏殿に腰を下ろしているのか。
「御意に」
話しを紐解けば、桜疱瘡が宴にまかれたその日から、近時は朱夏殿に身を寄せていた。四皇子と女御の住まいである朱夏殿。その殿舎は陰陽生の師であり、御都で一番の結界を敷くといわれる陰陽博士が護っており、近時を救ったのは、壮年の彼だった。宴のあった正殿は、朱夏殿まで目と鼻の先。灯台もと暗しとはこのことだ。おそらく、麒麟は陰陽博士に近時を預け、自分だけ内裏の外へと逃げたのだろう。麒麟のことを言及すると、ひと月ものあいだ意識がなかったため、わからないと濁された。
朱夏が目を瞠る。
「近時、あなた桜疱瘡におかされ、生きているの」
そうだ。近時はただひとり、不治の病であるはずの桜疱瘡を克服している。
「陰陽博士があなたを桜疱瘡から救った……、でもそれで、治療法がわかったわけではないの?」
治療法を明確にして、あのお方が二百万もの人々を見殺しにするはずがない。それとも、治療法を近時に明かさぬまま亡くなったのか。
つかわしめの小亀がコンと共にいるということは、なんらかの経緯で玉藻姫に殺されている。
近時が言う。
「桜疱瘡を克服できる人間は限られております」
「どういうことよ」
「まず桜疱瘡は、病でも怨霊の呪いでもありません。厄神の祟りです」
「祟り……?」
「波紋のように広がる恐ろしい祟りです。守護神の加護のある私は、病に祟られても命までは奪われませんでした。それも陰陽博士の祈祷があってこそ、祓えたのです」
「近時は陰陽師だから、助かったってこと」
「──そう、なりますね」
近時は今、扇子の奥でどんな顔をしているのだろう。いや、扇子をはずしたところで、表情を読み取れない。だが近時から感じるやるせなさや、不甲斐なさは匂いでわかった。
それでも近時は淡々と話しを続ける。
「たくさんの民を救うには、源を正す必要があります。必要なのは薬ではなく、厄神の怒りを鎮めることなのです。ですが、陰陽博士は厄神を探り当てる前に──」
首もとから声がする。
「
小亀だ。いつの間に!
御饌飴とともに首に結んでいた包み布から、若葉色の頭を覗かせた。
「ずっと隠れていたの?」
「ああ。朱夏殿の女御に会いに行くと言ってたから。コソコソとすまんかった」
小亀は私の首から床へおりると、近時の方角へのっしのっしと向かっていった。
「主人の結界と遜色ない仕上がりに感服いたしました。主人の亡きあと、四皇子と女御をお護りくださり、感謝を申し上げまする」
「恐れ多いことを。私は博士の遺言に従うまで」
ここで、弥勒が話しを割って入った。
「私も共に遺言書に目を通したから間違いないよ。博士は近時に朱夏殿を任せたんだ。信じてほしい。朱夏へは成人して、初夜を迎える前に話すつもりだった。御帳台の結界は、近時が張ることになるだろうからね」
初夜と聞いてゾッとする。
朱夏の成人の儀は来年の立春。年が明けてすぐのことだ。相手が帝だと思うだけで、目まいがする。話した弥勒本人も嫌気がさしたのか、自身の手で額を支え、まぶたを閉じた。
「……すまないが、少し疲れた」
「おにいさま、だいじょうぶ?」
侍従が弥勒の肩を抱くと、朱夏もまた反対側から支えた。
「おねえさま、ごめんなさい。おにいさまを御床まで運んでいくわ」
「うん。私もそろそろ行こうかな」
朱夏殿は近時が護ってくれているし、小亀のお墨付きだ。命の恩人である陰陽博士の遺言を、裏切りはしないだろう。
弥勒が言う。
「おきつねさま、また近いうちに」
「うん、また来るよ。それと、おきつねさまはやめてね。私の名前は、ユキよ」
「ユキ、か。……雷鳴より、ずっと素敵だ」
「そうでしょう?」
弥勒と朱夏に別れを告げ、さて庭園へ急ぐかと踵を返すと、戸の前で近時が腰に手をあて立っていた。
「なあに、とおせんぼ?」
顔は扇で隠さず、おっぴろげだが、やはり表情が読み取れない。
私はとりあえず、喉につっかえていた言葉を伝えた。
「その、このあいだは、ひどいことを言ってごめんなさい」
「ひどいこと、とは」 はて、なんのことかと首を傾げる。
「私、近時に裏切られたのだと思い込んでいたの。麒麟だって、あんな態度だし。だから、ごめんなさい」
首を垂れる。
視界に入る近時の足の爪先が、少し苛立ったようにうねった。
「間違いではありませんよ。私はあなた様を裏切った」
命をかけて護るべきものを護れなかった、という意味だろう。
これ以上謝っても押しつけがましくなるだけだ、私は戸へ歩を進めた。
「じゃあ、また来るねー」
「お待ちを」
「えー」 そんな気がしてたけど。
「あなた様に謝っていただきたくて、引き止めたわけではありません」
「話しがあるなら早くして。急いでるの」
近時は、小亀を手のひらにひろい、袖に隠した。
「小亀が欲しいの?」
「中宮様。あなた様も、どうかこの朱夏殿に身をお寄せください」
「朱夏殿に?」
「女御様のおそばに。五年、玉藻姫の目を欺いた実績もあります」
「そうだね。朱夏の飼いキツネになろうかな。そうすれば、大手を振って後宮を走り回れる。でもずっとは、無理。どうせ、コンが信用ならないとでも言うんでしょう?」
「ならばあなた様は、あの少年の過去をご存知なのですか?」
「知らない。聞いてないもの」
「ならば教えてさしあげましょう。少年の実父である陰陽頭は奥方共々、中宮様を庇い立てした罪で亡くなられているのですよ……!」
息継ぎに吸った息が、氷のように冷ややかに喉をとおっていった。
コンの父上と母上が、亡くなられたのは、私のせい──。
「……ほんとうに、急いでるの」
力なく言う。近時はその場に両膝をつくと、私の目と自分の目玉をしっかりと合わせた。
「どうかお願いですから、今日だけでもここにお泊まりください。外は危険すぎます」
「外が、どうして」
袖をまくり、小亀に訊ねる。
「恐れ入りますが、庭園の様子を占っていただけますか」
「池の水はある?」
「こちらに」
事前に汲んでいたのだろう、懐からちいさな
「あれ? 小亀の占いって、詠唱がいるの?」
「刻と方位を唱えることで、よりこと細かく占えるのですよ」
「へぇ」
なるほど。だからマサルさんが占ったときはかたことだったのか。あの時とはちがい、小亀の甲羅は紋様を描くように細い線が光り始めた。
「南、南、内裏の浄土庭園、正午に大虐殺あり。正午に大虐殺あり。近衛兵三十名、楽師十名、舎人一名の犠牲──」
「舎人、一名……?」
コンの笑い顔がはっきりと、頭に浮かぶ。
「中宮様……っ、なりません!」
近時の腕がのびてくる。
寸でのところですり抜けると、私は戸に足をかけ、近時の背中を足つぎにのり移った。
「わっ、ま」
「せーのっ」
近時を思いきり蹴り飛ばし、反対側の御簾を突き破る。弥勒の部屋の御簾に、キツネのとおった穴がぽっかりと空いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます