騎馬打毬

おきつねさまと朱夏殿

 騎馬打毬の朝。

 堂々とキツネの姿のまま馬寮へ転移した私はさっそく鼻を曲げた。匂いもそうだが、麒麟が馬具をつけずに、お尻をこちらへ向けていたのだ。


「ちょっと! 汚いなぁ!」

「いやがらせくらい、黙ってさせなさいよ!」


 いやがらせって、はっきり言った!

 毛を逆立てていると、コンと同じ藍色の褐衣を身にまとう少年が、焦燥とした様子でコンの肩をつかんだ。


「ああ、よかった……! その白馬が馬房を出るなり暴れ出したんだ。君が来てくれて助かった」

「私が来るまでは出さなくていいのに」

「そうもいかないよ。朝になって急に、皇后様が打毬で乗る馬だけでなく、すべての馬を庭園まで運ぶよう命じられたんだ。今すぐに外へ出せる?」

「任せて」


 コンは麒麟の手綱をもつと、私へ申し訳なさそうに目配せをした。

 大丈夫だよ、いってらっしゃい。

 私はお見送りに尻尾をふった。素直にうなずいたのには理由がある。


 日中に始まる騎馬打毬まで、二刻よじかん。時間はたっぷりある。


 ──心のままに。


 私は、南の朱夏殿へ向かう。

 おかあさまの出した手がかりから、私が行き着いた結論は、朱夏に会うことだった。コンも、球場へ立ち入らないことを条件に承諾してくれた。今日の私のお役目は、雷鳴殿へ行くこと。雷鳴殿は朱夏殿と渡殿でつながっているから、容易いものだ。


「朱夏。今、会いに行くからね」

 

 さすがに日の明るいうちから内裏の砂利を踏めないので、私は屋根を伝っていくことにした。ひとえに屋根と言っても、渡殿でつながる後宮は高さの異なる屋根や庇が折り重なり、まるで飛び石を渡っているようだ。訓練になるし、場合によっては隙間に身を隠せる。頭のなかの地図に屋根を重ね合わせ、覚えなおした。 

 私を今見ているのは空にいるツクモだけ。易々と朱夏殿の屋根へたどり着いた。

 さっそく朱夏の居そうな母屋の庇の下をのぞくと、籠のなかから見えなかった内の様子に胸が踊った。華々しい朱夏に似合うようにと、朱色に染められた、帷や几帳。そのはざまで笑い合う女房たち。

 今すぐとびこみたいのはやまやまだが。

 駒牽で見た強い結界を思い出し、私は中庭の茂みへととびこんだ。


「どうしよう。これは困った」


 ほんとうに困った。

 しばらく茂みに隠れ、様子をみながら殿内へ上がろうと思っていたのだが、私の尻尾がふり止まない。先ほどから心は無我の境地に徹しているのだが、尻尾は隔離状態の自由行動である。

 むしろ隠れているほうが目立ちやしないか考えあぐねていると、縁の方角から言い争う姫君たちの声がした。


「いけませんっ、女御様……!」

「少しお庭に出るだけよ」


 愛らしい姫君が鮮やかな衣裳を回廊いっぱいにひろげ、私の視界に現れた。その裾を慌ててひろったのは、二十半ばの年増だ。

 朱夏にはとても仲良くしていた同年の姫君がいて、てっきり彼女がおつきの女房になったと思っていたのだが。


「お願い。いいでしょう?」

「少しも許しません! 中庭に、万が一毒グモでも放たれていたら!」

「もうっ、そんなこと言っているから、菊も霜枯れてから咲いていたことを知るのよ。──そんなの、虚しいだけだわ」


 ああ、たしかに殿舎がわの菊は枯れ落ち、白い砂利の上を重たくしている。私は日陰であざやかに咲く黄色い菊をみつけると、口に食んで砂利を踏んだ。


「まあ……っ! みて、キツネが菊の花を」

「女御様っ、ちょっ、ま」


 女房の腕が慌てふためき宙をかく。

 女御と呼ばれた姫君は裸足のまま、蝶々のように二単ふたえの袿の裾をひるがえし、私のもとへ駆け寄った。


「私の言葉がわかるの? それに、なんて可愛らしいキツネさんだこと!」


 朱夏は私の口からソッと菊の花をつまむと、興奮した様子で自身の帯へと挟んだ。

 あー、やってしまった。

 私ったらキツネの分際で、菊のお花をどうぞ、だなんて気障なことをしてしまった。不自然にたてまつりそうろうだわ。

 そしてこんなに動揺しているのに、尻尾はいまだ全自動で振り続けている。朱夏にどれだけ会いたかったのかしら、私ったら。


「私、動物が泣いているところ、はじめて見たわ。あなたに、なにがあったの……?」


 言われてはじめて、足もとに焦点を合わせる。ほんとうだ。ぼたぼたと、鉄砲雨のように乱暴な涙が砂利石を濡らしていく。

 私は考えることを諦め、肩の力を抜いて、目の前の彼女を見上げた。

 

 ──朱夏殿の女御。

 来年十五になる彼女は春の強い陽射しのなか、女御たる佇まいで膝をおとした。


 飴色に輝くゆるやかな御髪の奥で、心を許したように眉をさげる美少女。きらめくまぶたにおさまる淡い珊瑚色の瞳は、五年前とかわらず澄み渡っている。衣裳に咲く夏の花に包まれたその華奢なからだは、まるで壊れもののよう。

 

「か、可愛いくなってぇ……っ、ぇえん」


 この世のものとは思えない!

 もしかしてお月さまからやってきました?

 これ以上見上げていたら、眩しさに目がつぶれてしまうかもしれない。それなのに、私の黒点の鼻は「血がのぼってますけど、流します?」と、熱く語りかけてくる。

 このままでは目がつぶれるか、庭を血で汚すかどちらかである。心苦しいが、今日のところは顔合わせだけで終わろうと、私は踵を返し、後ろ足を曲げた。えいっ。


「あれ?」


 渡殿の屋根までとんだつもりだったのに、空中でとまっている。


「つーか、まーえた!」


 無邪気な声が庭をつきぬける。

 すれ違うように汚い鳴き声が上空からおりてきて、見上げるとツクモがこちらにクチバシを向けて旋回していた。

 うん私、つかまっちゃったみたい!


 朱夏の美貌が、ツクモに被さる。


「あなた、しゃべれるのね?」

「コ、コン」 わざとらしく鳴く。ほんもののキツネなのに、擬声語みたいになってしまった。

「うふふっ、今さらごまかしても遅いんだからっ! さっそくおにいさまに、みーせよーっ、と!」


 朱夏ったら、女御らしく成長してー、なんて感動したのはつかの間、うわべだけだったのね! 口調と中身は五年前から変わってないじゃないの。

 それどころか、筋力はとことん鍛えているらしい。壊れもののようだなんて言ったの誰?

 朱夏は花を摘む感覚で私を小脇に抱えると、ものすごい速さの歩行で奥の間へと突き進んでいった。



 朱夏がおにいさまと呼ぶ御仁はもちろん、ほんとうの兄弟ではない。

 先帝と先代の朱夏殿とのあいだに恵まれた四皇子、弥禄みろくだ。直系ではないが、朱夏の実父である南国の長と弥禄の母は兄と妹の関係ゆえ、ふたりは従兄弟にあたる。

 

 弥禄のように、天子になれなかった皇子は実母の殿舎で短い余生を過ごすことが、この内裏の習わしだ。特に足の悪い弥勒は宴にも姿を現さず、その顔を知るものは限られている。


「女御様……! 得体の知れぬキツネなど、四皇子様に近づけてはなりませぬ……!」


 背後から女房が責め立てるが、朱夏はおかまいなしにシターンッと戸を開け、またシターンッと閉めた。私の耳は、戸の向こうで女房が唇を噛むちいさな音をひろった。


「おにいさまー! みてみてみてみてみて!」


 その部屋のなかには、御簾みすから射し込む光のなかで、背をむけて椅子に座る弥勒と侍従がひとり。それからもうひとりぶん、憶えのある匂いが几帳で隔てられた奥から香った。

 侍従が朱夏の方角へ椅子を傾ける。


「まったく、あなたは嵐のようだね」


 光に溶け消えそうな声で、弥勒は笑った。

 二十三になる彼は、朱夏より白い肌の上に、相変わらず線の細い顔をのせている。五年の歳月が流れたのだ、生きてはいても御床にふせていると思ったのだが、想像以上に血色が良い。むしろ若返ったみたいに背筋がのび、若菜色の袍も着崩さずにきちんと座っていた。

 ただ、肩までのびる御髪が金銀まだら色に染まっている。


 一代にひとり生まれる、天子。

 その証として、天子の御髪は金色に生まれつく。

 それ以外の御子の御髪は銀色と決まっているし、五年前までは弥勒もたしかに銀髪であったのに、なぜ──。


 距離を詰めようとする朱夏を、侍従が止めようとするが、


「憂いのないこと。愛しい私の妹よ、さあみせて」


 弥勒は招き入れるように、両手を広げた。

 遠慮のない朱夏は、弥勒の右肩に衣裳がこすれるほど近づくと、私の黒点の鼻を頬におしつけた。あの、私、健康なの。鼻濡れてるの、やめてあげて?


「しゅ、朱夏、少し近すぎるかな」

「でもすごく可愛いでしょう?」

「ああ、とても」


 間を取ると、弥勒は私の顎に手を添えて、引き寄せた。ちょっと、顎クイッはコン以外に許してないのよ……、あー、そこ、自分の足じゃ届かないとこ、気持ちいいー。

 朱夏が嬉しそうに言う。


「それにこのコ、私たちの言葉がわかるし、なんとおしゃべりもできるのよ」

「飼い主は、よくそう言うよね」


 クスクスと笑う。よし、信じてないな。


「ほんとうなんだからっ、聞いていらして? ごきげんようー!」

「コン!」

「あれ? ごきげんよう! あなたのお名前はー?」

「コン! コンコン!」


 ふふっ、どうだ。私のキツネの声真似は。いやキツネだから本来の鳴き声だ。自分でもよくわからなくなってきた。

 朱夏が蛙のように頬をふくらませた。可愛いなあ。


「おにいさま、ほんとうなのよ! 先ほどだって、菊を見たかったと言ったら、届けてくれたのよ。ほら!」


 腰をくねらせ、帯に挟んだ菊を見せる。弥勒の背後で侍従が「はしたない」と、両手で顔を覆った。

 弥勒も袖で口を隠して笑っている。


「ひどい! 信じてないのね!」

「信じているよ」

「うそ! 笑っているではないですかー!」

「朱夏にね。だってそのかた、おきつねさまでしょう」


 ん?

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