おきつねさまと駒牽
早朝、闇へ紛れ夜明けを待とうと、私たちはひと気のないうちに厩舎へ転移した。話すならば今しかないと判断し、麒麟の馬房へ向かった私は、腹をかかえて笑った。
麒麟は見栄えだけは極上の馬だ。会わなかった一日で玉藻姫に気に入られたのだろう、白馬の麒麟に映え映えとした、赤紅色の馬具が装備されている。皇后の愛馬につけられるものだ。更には尻尾やたてがみに組紐や装飾品が派手に編み込まれていてちょっとたじろいだ。
「空に輝く明け星より煌びやかですこと!」
「なんですってぇ、このブタギツネが!」
え? ブタギツネって、まさか私のこと?
真下より奥を覗きこむ。
朝食べたお粥で、おなかがタプタプと揺れた。
「言い返せなくてくやしい、そのかわいい三つ編みほどいてやるー!」
「気に入ってるんだからやめなさいよねー!」
話し合いは決裂以前に始まりもしなかったが、麒麟は馬房のなかで盛大に暴れ回ってくれた。あとは頃合いをみて、コンに宥めてもらうだけだ。
間の良いことに、麒麟は見張りに立っていた
「うわぁ……っ! 蹴り殺される!」
すかさずコンが、馬部の前に出る。
言葉も、縄もいらない。
コンは麒麟と目を合わせるだけで気を鎮めさせるという、見事な立ちまわりをみせた。
助けた馬部は重役のようで、行進中の麒麟に付き添うことをその場でコンへ命じた。すべては計画どおり。私たちは玉藻の大殿に行き着くために、あえて麒麟のそばを選んだのだ。
ちなみに、面食いの麒麟はコンの紅顔に見惚れただけのことである。
駒牽の刻。点呼役のウサギを残し、みんなそれぞれの配置につき始めた。
馬が順々に飾られ馬房から出されていくなか、その足もとでネズミたちが、道中に罠がないかたしかめるため、散り散りになって先へ行く。ちいさなマサルさんと小亀はコンの着物の袂へ。化け術の得意なイタチと私はコンの牽く馬の荷籠へおさまった。
ツクモが空で紅い螺旋を描く。時間だ。
上下に揺れはじめた荷籠の編み目から、外をのぞいた。
思わず目を閉じてしまうほどの、眩しい白──。
「麒麟のお尻じゃん!」
「わー、ユキ!」
「この空気のなかしゃべりおったで」
「みんな、シッ」
さっそくわめいてしまい、そのせいで反対側のカゴのなかでイタチたちまでもが騒いだ。
前方から耳馴染んだ声がする。
「……ん? 今喋ったのは、君か」
駒牽の先陣をきる
「恐れ入ります。近衛大将様がお牽きになる馬、大変気性が荒く、私がそばに居ないと落ち着かないのです。今も歩様が乱れていたので宥めておりました」
「おいおい、そんなじゃじゃ馬を俺が牽いて歩くのかよ」
愚痴をこぼす大将へ、反対側に立つ近衛中将が溜め息を吐く。
「背筋をのばして歩くだけのことですよ」
「八日も? 無理」
また一段と深い溜め息を吐いた。そうだ、いつもしまりのない大将のそばで、中将は眉間にしわを寄せて立っていた。それでも、甘い菓子をチラつかせるとシワがのびる、可愛らしい人だ。思い出して、少し胸があたたかくなった。
雑談を交わしながらゆっくりと歩を進めるこの屈強なふたりは、当代随一と言われる武術家である。百年戦のない御都には宝の持ち腐れだと、他国からは批難されることもあった。だが彼らが近衛隊を率いるからこそ、御都の民は低い
近衛大将が袖口を嗅ぎながら言う。
「まさか馬寮から行進とはなぁ、馬糞の匂いついてないか?」
「馬部の方々や後ろの舎人に失礼ですよ。仕方ないでしょう、いつもならば国境で馬を出迎えますが、関所からは炮烙がまる見え。あの物騒な処刑場を他国の人間に見られたら、どんな噂を広められるか」
「俺は、大いに広めて欲しいがねぇ」
「責任を取らされるのは我々です」
「俺たちの命なんて、もはやあってないようなもんだろ」
「私はまだ死にたくないですね」
「中将、嫁さん娶ったばかりだもんなぁ」
穏やかに笑い合っていたが、内裏に近づくにつれ、口数が減った。まるで自ら死の淵へ向かうような面持ちだ。実際、隣り合わせということか。
五年前は踊りながらくぐっていた内裏の正門、朱雀門を前に、大将はごくりと生唾をのんだ。
「近衛だってのに、内裏の敷居にためらうとはね」
「この先で粗相はなしですよ」
「下手こくかよ、俺だって無駄死にはごめんだ。──中宮様に着せられた汚名を雪ぐまでは」
私は眉をひそめた。
中宮──? なにゆえ五年経った今、私の位を呼んだの。
「未曾有の怨霊、雷鳴の中宮、ですか」
中将の言葉に、今度はちいさく嘆息した。
また怨霊か。
神山の民も言っていたが、今度は未曾有ときた。
しかし怨霊とは、大将が命を賭けるほどの汚名なのだろうか。編み目の隙間からコンを見上げるが、表情まで読み取れない。
中将はおもむろに袍のなかからちいさな巾着を取り出すと、干しなつめをひとつぶ、口に入れた。眉間のシワがのびる。まさか最後の贅沢?
「さあ、行きますよ。張りぼての内裏を」
妻の名だろう、中将は痛ましい顔で女の名をぼそりと口ずさんでから、朱雀門をくぐった。
カゴから覗き見る内裏は不気味な様相を呈していた。
明るい陽射しに照らされた内裏の砂利は、そこらじゅうに護符がばら撒かれ、呪文が地に染みついているようだ。開け放たれているはずの殿舎はどこも
真正面に建つ正殿までの道端には太政官が並び、渡殿ではそんな彼らを眺めに女官たちが詰め寄り、いろめきたつ。
そんな景観を頭に思い描いていた私は、閑散とした広間に言葉を失った。帝の座すはずの正殿の
大将があくびをこぼす。生あくびだ。肩に力を入れ、鞘に手をかけた。
「帝様は居られんが、殺気をひしひしと感じるな。東の国の怨霊か?」
「彼らは、皇后様が封じたことになっているでしょう」
東の──? 私の故郷の民まで怨霊化しているのか。大将はにやにやと口もとだけをゆるめた。
「お前今、ことになってるって言った?」
「どこで誰が見ているか聞いているかわかりません。予定どおり左回りに女御殿から、まわりますよ!」
「はい、はい」
枯れ落ちたままの橘の花を踏みしめ、正殿へ礼を尽くすと、大将たちは西の方角へとつま先を向けた。
女御殿とは、正殿の奥に建つ後宮、四殿七舎のうち四殿を指す。四殿には代々、東西南北の四大国から召し上げられた姫君が入る。
東の雷鳴殿。
西の白秋殿。
南の朱夏殿。
北の玄冬殿。
順序どおり、西の白秋殿と北の玄冬殿、それぞれの前庭へまわったが、どこも蔀がおろされ、なかが見えなかった。そのふたつの殿舎には青キツネと黄ギツネが女御に化けて、馬鹿騒ぎをしていると踏んでいたから、拍子抜けだ。
大将が言う。
「白秋殿の女御様と玄冬殿の女御様には、今年も会えずじまいか。中将は今年に入ってお会いしたか」
「春の花宴で、几帳越しにご挨拶だけ。怨霊が怖くて殿内にこもっていると言われておりますが、息災であらせられましたよ」
「ふぅん、几帳越しねぇ。俺も声だけなら聞くんだがなぁ。御姿はもう三年は見てないね」
私はひと知れずうなずいた。なるほど、女御たちに化けたキツネは表立って姿を現していないようだ。賢明な判断といえる。二日前に行きあった、あのぶざまな佇まいでは正殿の大階段の上からでも、怪しまれてしまうだろう。
それにしても見事に人が居ない。
雷鳴殿はもちろんのこと、淑景殿のように女御殿の奥に構えるほかの殿舎へも目をこらしたが、どこも薄暗く護符で閉鎖されている。
残すは、南の朱夏殿──。
最後まで頭を空っぽにして眺めているつもりだったが、難しくなりそうだ。朱夏までも同じ有り様であったら、私は。私の心はかき乱されてしまう。
無邪気に笑う幼い姫君が、頭に浮かんだ。
女御殿への入内は、帝の即位と同時に華々しく行われる。西と北は私と同年であったが、南の朱夏殿の女御は最年少で、その歳わずか四つ。雄々しいと言い伝えられるとおり、男ばかり産まれる南の国で姫君として育てられたのは、彼女しか居なかったのだ。
渡殿を走って向かってくる彼女を思い描く。
さびしがりやで甘えん坊な朱夏を、私は娘のように愛で、妹のように可愛がった。互いの殿舎を自由に行き来をして帝と三人、ほんとうの家族のように仲良くしていた。十年経ったら恋敵かと、笑い合っていたのに。
大将が、鞘から左手をおろす。
「激しい殺気は朱夏殿からであったか」
「いやぁ、見事な結界ですね」
中将が惚れ惚れと見上げる殿舎の蔀は開け放たれ、濃紺の
前庭に立つ番兵がうやうやしく跪き、言う。
「朱夏殿では昨年、駒迎えをしたばかりですので、どうか顧みずにお進みくださいませ」
「これはこれはご丁寧に」
中将もまた頭を垂れたが、大将はむくれた。
「えー! 朱夏殿の女御様はそろそろ、ご成熟されるのだろ? 立春にある初夜の儀に備えて新しい馬をご調達されては」
「わーっ、近衛大将どの! なにを口出しなさるのですか!」
「なにをって。命がけで内裏に入ったんだぜ? 綺麗なお姫さんひとりくらい見たいだろ」
「フフッ」
私の耳が、少女のこぼした笑い声を拾った。
御簾一枚を隔て、朱夏が居る。生きているのだ、この女御殿にただひとつ灯りを点して。
私はとびだそうとする前足を踏んばった。再会は今このときではない。まぶたをきつく閉じて、こみあがってきた涙にふたをする。
朱夏なら大丈夫、雄々しき南の姫君よ。私が死んで五年、がらんどうとなった内裏で生き延びられる強さが、彼女にはある。なにより気休めの護符ではない、強い結界が張られているのだから。
番兵が腰をあげ、刀に手をかけた。
「どうか、ご理解いただければと」
一歩前に出れば刀を振りおろしてきそうな殺気をさらしている。大将はへらへら笑い、ようやく前を向いた。
「あははー。はぁ、わかりましたよ、行きますよー。次はいよいよ玉藻の大殿かぁ」
玉藻の大殿は、帝が日常を過ごされる清涼殿の西庭に建てられている。建物に遮られているため、外から周り西門から入り直さねばならない。その景観はまるで正殿のようで、大殿と呼ばれる由縁でもある。
中将は西門に辿り着くと、また干しなつめをひとくち頬張り、眉間のしわをのばした。
「昨年どおりに行きましょう」
「昨年どおりだと? 献上馬が気に入らないと、皇后様が背を向けた瞬間、馬の頭といっしょに舎人の首がふっとんだの憶えてないのかよ」
麒麟のお尻がピクンと震えた。
中将がより一層深く肩を落とし、天を見上げる。開け放たれた西門から、大殿の庭がよく見えた。
「忘れるわけがないでしょう。その首を拾いに行ったの私ですよ」
私は朱玉の瞳を落としそうなほど目を見開いた。
中将の目線の先に、ほかの庭に決してない、不可解なものがあるのだ。
今ここにある、なによりも白く美しい。
純白の人物像が庭園の中心に建っている。
恐らく等身大の高さで、誰も見紛うことなどない。
傾国の美女、玉藻姫を象った、
その白磁の色を目に入れた瞬間、素材となったものの原形が思い浮かび、私はカゴのなかで卒倒した。
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