おきつねさまと麒麟
いつもトキが出入りしていた蔀戸を近時が上げると、いつからそこに居たのか、真下に麒麟の背がみえる。
そこへ私を優しくおろし、近時は言った。
「いいですか。この内裏に以前の美しさは一欠片もございません。どうかその情景に心を乱されぬよう、お気をつけください」
なんとも不穏な言葉を置き土産にしていった近時はもう、見えない。
麒麟は内裏の砂利をはね上げ、まわりの景色が線にみえるほどの速さで駆けた。
「はやすぎるわ」
「うるさいわね、黙ってのっていられないの? だから女って嫌いよ」
六文字しか発していないのにそれはない。
「黙っていていいの? そのまま直進すると、あと三〇歩ほどで
「はあ? あんな細い水堀、私が越えられないとでも? 心配はご無用よ、東馬寮へはここをまっすぐ突っ切ったら着くのだから」
「でも、あと一〇歩で
「はぁあ? そういうことは、もっとはやく言いなさいよ! これだから女は!」
麒麟の足がためらい、ゆっくりと速度を落とす。足踏みを一度、石垣に片足の蹄をかけ、そのはずみで奥の水堀をとびこえた。
「だれの足幅でも不可能だって?」
麒麟が得意げに鼻を鳴らす。
呆れた私はもうなにも言わず、静かに辺りを見まわした。雷鳴殿と隣接する、淑景殿に灯りがひとつもない。それから酒のぬけた麹の香りと、家畜が焼け焦げたような匂い──。
「きゃっ、なに? ──ヒィイ!」
性懲りも無く再び速度を上げた麒麟の顔面に、葉でも枝でもない障害物があたる。それがなにかを理解した麒麟は、暴れ馬のように鳴き、次にはぬかるみに足をとられた。
私は麒麟を宥めることなく、ひたすら待った。できることといえば、振り落とされないよう、爪を立てるくらいだ。
麒麟の顔にあたった障害物は、肉だ。
まるごと焼かれた人間の肉が、桐の木に吊るされ干上がっている。足をとられたぬかるみは、酒で浸された池の残りだろう。ほとんど蒸発しているところをみると、半年から一年は経っている。
「あんた、許さない! わざと黙ってたわねぇ!」
「シィッ」
別に私は麒麟にいじわるをしたくて口を閉じていたわけじゃない。憶えのある、癇に障る匂いが近づいていたからだ。なおも暴れる麒麟の背中にしがみつきながら、見える範囲で探す。
吊るされている遺体の影は数にして二〇、焼かれても残る装飾品は──。
ああ、やはり。淑景殿の女房たちが揃ってつけていた、まが玉が光った。
「見てぇ、お姉さま〜。イカれた馬が庭を暴れまわってるわよ〜」
そばで匂いが濃くなり、思わず息をとめる。
うつむいていて、目では追えないが背後に三色ギツネが揃って立った。ぬかるみに足をとられたとはいえ、麒麟が追いつかれるとは、なんという足の速さだ。恐怖で震えそうになり、深く息を吸った。
──この匂い。
匂いが目立つのは朱色のキツネだが、その隣の、お姉さまと呼ばれた二匹の音と香りが人間の女のものに近く、胸が騒ぐ。衣ずれと固い草履の底の音。獣臭さは、香を燻した着物で隠しているようだ。
その二匹の声を聞いた私は、愕然とした。
「はぁあ、愉しい夜だったのに! 台無しだわー!」
「……玉藻様が感じられた気配は、この馬だったのかしら」
聞き違えるはずがない。表面を飾る口調は三色キツネのものだがその声音は、親しき女御たちのもの。
──
庭でひらくお茶会が大好きで、甘い
三色ギツネが彼女たちに化けているということは、本来の彼女たちは、まさか──。
乱れる呼吸を必死の思いでおさえる。
では淑景殿は? この庭のどこかに吊るされているとでも言うの。
朱色のキツネが笑う。
「あははっ、変なの〜。あの馬、鞍にニンニクぶらさげてるわよ〜?」
噴き出そうな冷や汗を胸のなかで押しとどめた。
私は今、麒麟の背で馬の鞍に変化している。馬にキツネがのっていたら不自然だと思い行動にうつしたのだが、どうやらニンニクだけがまるみえになっているようだ。
そのまま暴れ続けてくれたらいいのに、麒麟は徐々に正気を取り戻し、ひとところに落ち着こうとゆっくり、庭に螺旋を描きはじめた。人間が乗り移れる速さだ。
三色ギツネに触られたら最後、きっと変化がとけてしまう。
「……白い馬。……まさか、つかわしめではないわよね」
玄冬殿に化けるキツネがなかなか鋭い。
「つかわしめが、ニンニクぶらさげて暴れる? もしそれがほんとうなら、主人は強壮薬がひつような
「……私たちで少し、調べましょう……ただの馬であれば、また玉藻様に、無駄足だったと言わせてしまう」
馬の足をとめさせるため、さらに近づく声と衣摺れ。
こうなったら、触れられる前に麒麟の尻を叩いて逃げようと、動こうとした矢先のことだった。
耳馴染んだ声が一歩先で聞こえた。
「畏くも女御様に我が駄馬を鎮めていただくとは、心より感謝を申し上げます」
コンだ。喜びに尻尾が浮く感覚を、必死でおさえた。
「……なんじゃ、貴様」
「申し遅れました。わたくし東馬寮に下仕えしております、しがない舎人でございます。逃げ狂うこの馬を追っているうちに、内裏へ立ち入っておりました。どうかお許しを」
「……はて。東の厩舎に、このような毛色の馬がいたか?」
「皇后様へ新たに献上するため、今朝に上がったばかりでございます。この様子では、しばらく調教が必要ですが」
「……玉藻様に? では後宮内で玉藻様の名を口にしたのは、貴様か」
「そうかと。夢中で、よく憶えておりませんが」
「……わかった。さっさと連れていけ」
「いいの〜? 調べなくて〜」
「……置いていかれては、面倒だからな」
鋭いと思ったキツネは、三匹のなかではいちばん頭が足りるが、かなり無精者のようだ。朱色キツネに引き止められても、聞き入れることなく立ち去っていった。
「まぁいいかぁ〜、ん? やだこの子のお顔、んん〜?」
朱色キツネは足をとめたまま、コンのまわりで怪しむ声をだすが、
「……なにをしている。急いで報告だ」
「宴よ、宴! はやく帰って呑みなおしましょうー!」
「はぁ〜い」
ほかのキツネに急かされ、離れていった。
その後、コンに手綱を結ばれても麒麟は抵抗することなく大人しく従い、歩幅を合わせて歩いた。
東馬寮にたどり着いたのは半刻後のことだ。
麒麟は、ほかの馬たちと同じように馬房に入れられ顔をひしゃげさせたが、コンの尊い笑みに押し切られたようだった。
そうだよ、万が一玉藻姫が来て、白い馬が馬寮にいなかったら不自然だよ。
次にコンは、初めて会った夜と同じ印を結んだ。たちまち、馬寮のなかが青白い光で明るくなる。
コンはきっと、玉藻姫の耳に入らぬように、無詠唱でできる転移を身につけたのだろう。
そうぼんやりと考えているうちに、神山の清らかな風が黒点の鼻を撫でた。
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