おきつねさまと雷鳴殿

 見慣れた天井に安堵したのは、寸刻のことだ。

 天井を覆う布は、金糸で縫われた御帳台みちょうだいのたれ衣。灯りを辿れば油のひたされた火灯し皿が置かれており、その台には精巧な紋様が描かれている。


 見慣れたとは言っても、神山にあるコンの邸の屋根裏ではない。私が十五で入内してから五年こもりつづけた後宮四殿七舎のひとつ、雷鳴殿の御帳台だ。

 出入り口に男の骨ばった手が這い、私はすみっこへとからだを押しこんだ。


「近時なの」

「左様で。お目覚めでなにより」

「よりにもよってなぜ雷鳴殿へ。こんなところに私を閉じ込めてどうするつもり」

「日暮れまで私の腕のなかで眠っていたのは、あなた様ですよ。それなのに、ずいぶんと警戒なさる」


 なんてことだ。

 転移する間際、のびかけの爪で引っかいてやろうと殺気だっていたのは私だ。なんやかんや、ゆらゆら優しく揺らぶられてまぶたを閉じたことを思い出し、自分に呆れた。


「し、しょうがないでしょう! まだコギツネなんだから」

「おきつねさまならば、すでにご成熟なさっているはずですがね」


 え、そうなの。

 そういえばお腹まわりの肉がとれ、顔まわりもシュッとしたような。鍛錬の賜物だと思っていた。

 よく考えたら、山里の人間たちも一度だって、私のことコギツネ扱いしなかったわ。


「もう少しの間、コギツネだからって、言いたかった……」


 ではなくて。

 私が、近時の腕のなかで眠った?

 それも、日暮れまで寝入っていたという。

 いざ冷静になってみると、あり得ない話しだ。


 神山には山の陰を担う、獰猛なオオカミが棲みついている。行き合ったのは一度だけだが、以来その気配を近くに感じると、どんなに疲れていても眠れない。

 その感覚は危機管理能力とは少し異なる。

 神に通じる力なのかはわからないが、おきつねさまのからだは悪意や怨念にかなり鋭いところがある。つまりは、私をさらった近時の腕のなかに、悪意のかけらもなかったというわけだ。

 帰りが、こわいだけ。きっと害はない。


 私は小亀の占いを信じ、やおらに帳台を出た。


 久方ぶりに見る近時の姿なりは、時の流れを感じさせない。帝を見送る朝、隣で跪き枝垂れた黒髪は、いまだ美しさを保っている。

 だが顔をのぞき込むと、ロウを溶かしたような赤黒い皮膚が鼻と口を隠していた。麗しかった目もとは跡形もない。眼窩におさまるだけの目玉は、頭を傾けるだけで落ちてしまいそうだ。

 近時は笑んだ。おそらく。


「なんと憐れな──、とは、思っておりませんね。そんなに顔を崩しては表情が読み取れないではないか、といったところでしょうか」

「まったく、そのとおりよ。憐れんで欲しければ、宴の日のことをあなたなりに申し開いて」

「私はなにも、あなた様に憐んでいただくために、ここへお連れしたのではございませんし、今さらあの日の弁明などいたしませんよ」

「では、なんのために私をここへ連れてきたの」

「まずは、ご挨拶にと。いけませんでしたか」

「お久しぶりと、さようならだけなら、神山で済んだことだわ」

「この雷鳴殿をあなた様に整え直したことを含め、ご挨拶したかったのですよ。山里までおりられたのですから、山ごもりはご卒業なのでしょう。今後、内裏を歩きまわるならば、少しでも休み処が多いほうがよいと思いましてね」


 両端に置かれた灯籠の炎が爆ぜ、びくりとからだがはねる。近時が膝を立てる床一面に、細かい紋様が白く浮かび上がった。


「この御帳台のある御寝所だけに、結界を張っております。幻影により、外からは他のつぼねと同様に朽ち果てて見え、また私たち以外は足を踏み入れることができません」


 なるほど。内裏のなかでなにかよくないことに巻き込まれた際、逃げ場となるわけだ。近時が名高い結界師であったことを、ようやくに思い出した。


「嬉しいけれど、あなたを信じられる確証がないと使えないわ」

「お目付け役の少年は、確証もなく信じたのに?」


 急に意地悪く言う。

 

「コンは、陰陽頭の実子でしょう。疑いようがないわ。あなたも見知っているのではないの」

「ええ、存じておりますよ。死を司る黄泉神を選んだ忌まわしき悪童」

「忌まわしき……?」


 今、コンの悪口言った?


「と、陰陽寮で蔑まれていたのですよ。実際、少年は一〇歳の若さで太陽神と黄泉神の二柱から神託を受けました。それだけでも異例だというのに少年は悩まず黄泉の主宰神と契約したのです。御都の陰陽師として、小御門家の嫡男としてあるまじき選択。それも陰陽頭や陰陽博士の断りもなく、自ら望んだという。まことに、信じがたいことだ……っ!」


 近時は、語気を強め言葉で怒りをあらわにした。

 その様を静かに見守る私もまた、ふつふつと怒りをたぎらせていた。

 後宮には、安産や厄除けの神様の加護を受けた陰陽師が専従する習わしがある。それを念頭においたって、おかあさまとコンの悪口は許せない。


「近時、私は黄泉神から生まれたキツネだ。黄泉神の加護を受けるコンのもとで暮らすのは当然のこと。近時は? あなたは、私が信じるに値するものをなにかひとつでも残したかしら」

「……なにも。だからこそ今お役に立てればと、などとも思っておりません。馴れ合いは冷静な判断を欠く」

「ひとり逃げられる精神力をおもちだものね」


 静かに、とは?

 キツネの舌が、尻尾のように動きだしたらとまらない。

 訂正しよう。ふつふつどころか、怒髪天をついたのだ。そしてその有様を、近時はまじまじと見上げていた。丸裸になった心を見定めるように。

 そうだね。こんなにすぐ敵の挑発にのっていてはいけない。馴れ合いはときに足かせとなる。


 だが仲間を裏切った近時から教えられたくなど、ない。


「どうやらあなた様は、羽織りを着替えただけではないようですね」


 近時は呆れたような、はたまた愉快そうな声色でそう言うと、両手を前にかざした。どうやら帰してくれるようだ。

 でもね、私の舌はとまらない。


「変わったのはあなたよ近時。あなたはこの雷鳴殿のものを、同胞たちを皆殺しにした」

「……それは」

「それは? すべてあの、玉藻姫のためなの?」

「──二度と、その名を口にしないでいただきたい」


 動揺で震えたのか、近時は私の問いに片眼を泳がせた。

 皮膚のひきつりだけでは表情が読めない。ただ、立ち上がる所作から焦りは感じ取れた。

 怒りが波のようにひいていく。


「九尾の狐は耳が良いのね」

「はい。特に名には呪がかけられており、発せられた位置がわかるようです。結界ではじいていればよいのですが、少しの違和感があれば、やってきます」

「だから、真夜中の神殿にもすぐに来れたのか」


 ならば、こちらもおきつねさまの聴力を活かそうと、耳をすました私は自分に驚いた。

 山では聞こえる範囲を測れず、あまり聴覚に自信がなかったのだが、地図の隅々まで頭に入った、この後宮のなかなら、わかる。近づく足音くらい聞こえたらいいなぁと思っていた耳は、南で開く扉の音を拾った。

 

「彼女が殿舎を出た。ひとり、──いや、三色ギツネも合流したわ。徒歩かちで向かっているから、逃げる時間はある」

「残念ながら、もう転移魔法は使えません。私の詠唱が耳に入ってはさらに疑心を抱かせることに。あなた様は麒麟にのってひとまず、馬寮まで逃げ馳せてください」

「では近時は。みつかってしまったら、殺されてしまう」

「……あなた様はあいも変わらず」


 口もとの皮膚が上がる。

 

「私のことなど、お気になさるな」


 次には颯と抱き上げられた。

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