おきつねさまは屁理屈者
焦る心とは裏腹に、コンの胸のなかで眠ってしまった私は驚くことなかれ、そのまま陽暮れまで寝汚くしていた。
みんな呆れているかと思えばそうでもない。
ネズミたちは床の拭き掃除、ウサギは小亀の甲羅磨きと、それぞれ忙しくしていた。土間へ降りれば、イタチが味見にと、茹でた山菜をくれる。
マサルさんなんて、足湯に整えていた水桶を温めなおし、寝起きのお風呂にどうぞと、お庭まで出してくれた。ここは極楽浄土かと、湯に浮かびながら、天の星々を見上げる。
「ただいま、ユキ」
星より煌めく紅顔に覗きこまれ、我に返った。あまりの美しさに月読神かと思ったが、お目付け役だ。私はおきつねさま。ここは下界。お役目忘れてません。
「おかえり。お出かけしてたの?」
「うん。日中は厩舎で働いているんだ」
「すごい! 馬寮に出仕しているの?」
「貴族の馬を世話して牽いているだけの、雑人だよ」
「でも馬を牽いていれば、内裏のなかを彷徨いても怪しまれない。とても良いお務めに恵まれたね」
「そうかな。ふふっ」
嬉しそうに笑う。その笑い顔がだんだんと、派手になっていく。
「ふっ、はは! ユキったら、濡れるとこんなにしょぼくれちゃうの? 毛がないと、イタチより細いねぇ」
あー、可愛いと脇をすくい、白妙に包んで抱き上げてくれる。やはりここは極楽ではないの。
それに、馬の世話をしていたはずなのに、コンの胸は相変わらずいい香りがする。
なんの香りだろう。香りを嗅ぎ当てる組香は、前世でよく遊んでいたから自信があるのだが、コンの着物の香は、花でも葉でもない。ただ、心に刺さる香りだ。鼻が効くから、空気中の香りと混ざりわからなくなるのだろうか。
くんくん。ぐぅ。
「おなかすいたー」
「はいはい。ごはんにしようね」
夕ごはんには、ワカサギの素揚げがのぼった。イタチたちも、日向ぼっこをしていたら眠り込んでしまって、急いで網ですくってきたという。粗末で申し訳ないというが、咀嚼がとまらないほどの美味でした。みんなのぶんまで食べてしまったので、こちらが謝らなければ。でも頭を下げると、おなかが前足にくいこんで苦しい。
「もうおみかんぐらいしか、食べられないよ」
「じゅうぶんやで」
呆れるネズミとのはざまに、皮のむかれたみかんが置かれた。マサルさんたら、私を甘やかすんだから、もぐもぐ。
「あー、囲炉裏の前でぬくぬくしながら食べる、冷たいおみかん最高ー」
「煩悩のかたまりみたいなやっちゃな」
ネズミの言葉にコンが真顔でうなずく。
「黄泉神様から授かった御言にもあるよ」
懐から包み布を抜くと、そのなかから貴重であろう古紙の束を取り出した。
コンが広げたのは、いちばん黄ばんだ紙だ。
「おきつねさまは基本的に、本能に抗えないんだって。我慢すると力が弱まったり、老いる」
「歳をとるってこと?」
「うん。裏を返せば、我慢しない限り歳をとらないってこと」
「ふぅん」
淹れたてのお茶を啜る。
「あったまるー」
「その様子やと、ユキは千年どころか一万年、歳とらんな」
みんなは大笑いするけれど、一万年と言われた私はゾッとしたよ。
千年でお役目を終えるには、我慢が必要らしい。
果たして私は抗えるだろうか。
みんなのごはんを。コンの淹れてくれるこのお茶を。
「むりー、我慢できないー」
「今はそれでよいのですよ。玉藻姫と対峙するためには、力を蓄えねば」
マサルさんはそう言って、食べやすく切られたりんごを差し出してくる。もう食べられないって言ったのに。しゃくしゃく。
「お茶、おかわりー」
「また?」
「りんごの酸は、歯に悪いんだよ。お茶で洗い流さなくちゃ」
「無駄に物知りやなぁ」
「無駄というか、屁理屈?」
「お茶のおかわりをもらう口実」
みんな、ひどい言いようである。
中宮様は博識であらせられると、ひとり感心するマサルさんが不憫ではないか。
かろうじてマサルさん寄りのコンが、おかわりの茶碗を差し出す。
「おかわりあげるから、ちゃんと聞いていてね。これからユキが鍛えるべき特別な能力を、今から伝えるよ」
「はい」
そういうの待ってたよ。
「まずは、触れた物に化けられる」
「はー、二番煎じもおいしいー」
「が、鍛錬が必要。また、動けばすぐに変化がとけてしまうため、今どき妖狐でもやらないそうだ。ユキ、きいてる?」
「鍛錬でしょう」
お茶を飲み終わったら、がんばるよ。
それにしても、物に化けるとは。
「妖狐って、人に化けるものではないの。玉藻姫なんて、四六時中人間の姿じゃない」
「妖狐はね。それに高位の妖狐ほど、人間でいられる時間が長いんだって」
「神の子、コギツネさまは?」
「色々、成長してからかな」
ずいぶんとふくんだ言い方をする。
まあ膝も曲がらないのだから、言い返せないけど。
「では、なにか武器に代わるものは」
「爪を刃物のように尖らせることができるが──」
「わかった。鍛錬が必要なんだね」
「のびるまで時間がかかる」
時間だけは、どうすることもできないな。
茶碗から顔をあげ、試しに爪に力を入れてみた。
容易に尖ったので、うさぎの背中に差しこんでみたが、
「えいっ」
「いた────っく、ない」
たいして長くもない毛に埋もれた。
玉藻姫のように、人間を真っ二つにできるまでには、一体何百年かかるのだろうか。
「さては千里眼も、修得するまで千年かかるとか言うのでしょう」
「あれは玉藻姫だけの異能と言っていい。本来はその名のなかにもあるように、千里を見て旅をしなければ身に付かないらしいから」
「鍛錬と時間の積み重ね!」
「ユキにもおきつねさまとしての異能があるんだけど、黄泉神様にもまだ視えないみたい」
「それこそ色々、成長してからってことね」
なにごとも努力なしでは得られぬということだ。精進します。
「ぷはぁ。ごちそうさま」
夜も更けてきたことだし、明日からね。
コンが古紙を懐に戻したのを見計らい、膝に前足を預けたが。
「飲み終わった? それじゃあ、いってらっしゃい」
「ん……?」
脇をすくい上げられ、そのもま縁の下におろされた。
その横をイタチ三匹が順番に飛び下りてくる。
「さあ、化けるんやったら、うちらの出番や」
「直感鍛えんのも、夜のほうがええしな」
「ついでに朝ごはんになるもん探そ」
不穏な流れを感じ入る。
やる気がみなぎっておられますが、まさか今から山に入るんです?
「この世の終わりみたいな顔してるけど、うちらは夜行性やで」
「イタチが?」
「キツネもや。今日はなんかあってもすぐ帰れるように、そのへんにしといたるから」
ダメもとでマサルさんを見やる。
「あたたかい牛乳、準備しておきますね」
え、今飲みたい。
と、言いかけたところをイタチたちに捕らえられ、不本意ながら山のなかへと引きずり込まれていった。
邸を離れ、かがり火の届かない獣道にでると、キツネの夜目のよさに驚いた。闇ほど怖いものはないと思っていたのに、木々と下生えの、葉の一枚一枚が細かく見渡せるのだ。朝とは違う、虫の音や川のせせらぎに耳を傾け、のんびり歩いていたら、振り返ったイタチの目がビカリと光った。
「こわい! おめめ、こわい!」
「それはユキもおんなじや。目が慣れたんやったら、走ってみよ」
「走る?」
「少しずつでええから速さをつけて。それも慣れたら、こっち」
イタチが前足を指す方向には道がなく、深く積もった雪から細く絡まった枝や蔦、大きな岩が顔を出している。
「障害物を避けながら走る。それだけでだいぶ鍛えられるから」
やはりコンは私に甘いようだ。対してイタチたちの容赦のないこと。雪に埋もれて罠があったらどうするの? 枝に足を引っかけたら? それに、私ったらまだ膝の曲げ方もわからないのに。試しにその場で跳んでみる。
ぽちゃん。
お腹のなかのお茶が弾んだ。
「激しく動いたら、食べたワカサギがでちゃうかも」
「あーもう、食べすぎやねん」
「ああ言うたらこう言うなあ」
「ユキはどうしてそんなに怠惰なの?」
「怠惰ではないよ」 やる気はあるけど。
「キツネって、お腹いっぱいのときに狩りはしないものでしょう」
どちらかというと、たくわえた熱量を温存するのではないか。胸を張っていると、イタチ三匹声を揃えて言った。
「屁理屈者!」
私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
──姫さまは屁理屈ばかり言って、外に出られない。食べたばかりだから。肌が焼けるから。まったくの詭弁ですわ。
よく女房のトキに言われた言葉だ。
まさかキツネに生まれ変わっても言われるなんて。
「クーン」
鼻から例の音が出た。
一匹のイタチが呆れた顔をはっ、と明るくさせる。
「屁理屈者には、屁理屈でかえさな、なぁ。ユキは、まだコギツネやろ」
「うん。生まれてなんと、まだ二日目だよ」
「コギツネはなぁ、お腹いっぱい食べたら、追いかけっこして遊ぶんやで。はよう成長して、親ばなれするためや」
「え! そうなの」 知らなかったわ。
「コギツネに生まれ変わったんや、コギツネになりきって走ってみい」
コギツネになりきる。
これには、目からウロコだ。
前世では中宮らしい振る舞いを完璧にこなしていたのだから、コギツネになりきるくらい、どうってことない。
私は夜の山を駆けるコギツネを頭に浮かべると、いちばんに口火を切ったイタチに焦点を合わせ、後ろ足を蹴った。
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