おきつねさまと神託の鳥

 コンが浅沓あさぐつを縁の下におろした背後で、私は尻尾をふった。はよ、抱っこ、はよ!

 その背中が縁から離れていく。


「コン、私という忘れものがここにいるよ」

「ユキ、お散歩って言ったでしょう」

「ん……?」


 抱っこで、お散歩ではないの。

 首を傾げるが、コンの笑い顔は動じない。

 さらには、土間からマサルさんの明るい声がふってきた。


「沼へ行くのですね? 神山の沼はとても美しいですよ! 川沿いでしたら我々が土を慣らしておりますから、歩きやすいのでおすすめです」

「沼? さむそう……」

「ご安心を。冷えたおみ足をあたためられるよう、足湯を整えておきますから」


 マサルさんに背中をおされては二の句が継げない。

 身を切るような風に逡巡するも、私は縁を飛び降りるしかないのだった。



 

 風は冷たいが天からの陽射しが強く、外は邸のなかよりあたたかい。はじめて歩く土の上は想像とちがい、ふかふかとして心地の良いものだった。

 往復することを想定し、ほどほどで切り上げようと思っていたのだが、山のなかは新しい発見で満ちあふれている。

 澄んだ小川の音。その水を木の根が吸い上げる音。枯れ葉のにおい。その奥にひそむ新芽のにおい。おひさまに照らされ、キラキラと輝く残り雪。そのなかから頭をのぞかせる、福寿草のつぼみ。


「なにもかもが、とってもきれい! 神山だから?」

「そう? このあたりはふつうの山と、なんら変わりないよ」

「じゃあ、今まで私が知らなかっただけかあ。もったいないことしてたんだね」

「前世では無理でしょう。中宮様がはだしで山を歩いていたら、みんな卒倒するよ」

「それもそうか」


 言われてみれば、山に足を踏み入れたことなど一度もなかったし、許されるわけがなかった。

 せっかく生まれ変わったのだから、これから楽しめばいい。おきつねさまの人生は長いのだ。あせらずゆっくり、山の四季折々を愛でようではないか。

 コンが小枝を踏んだ音に、はっとする。

 

「私、のんびりお散歩してていいの?」

 

 こうしている間にも、誰かが玉藻姫の毒牙にかかっているかもしれない。


「お散歩は、れっきとした修行だよ」

「修行?」

「ユキは生まれたてなのだから、まず外気に慣れないと。昨夜の神殿でのこと、おぼえてる? 血のりで滑って転んだユキが、正面をきって玉藻姫と戦えると思う?」


 ぶんぶん、首を横にふる。

 階段を転がり落ちていく真っ赤な毛玉が脳裏をよぎりました。

 

「標高の高い神山は歩くだけで肺が鍛えられるし、獰猛な動物も多いから、危険察知能力も身につく」

「獰猛! オオカミとか、クマとか?」

「そう。できるだけみつかる前に逃げてね。視覚、聴覚、嗅覚は野生のキツネより優れているから。運動能力は五倍。元人間の君には、その感覚に慣れる時間も必要だ。体力をつけるためにも、できるだけ山で過ごして」

「運動能力が、五倍!?」


 私は紅玉の瞳を輝かせた。

 前世で最も憧れていたもの、それはお付きの女房のように強い女性だ。

 女房のトキは、近衛兵たちから最期の砦と呼ばれていた。御所のなかで、彼女に武術で敵うものは居らず、そして誰よりも剣に長けた。

 屋根から屋根を馳せまわる姿はまるで白い鳥のよう。宙返りをして部屋へ入ってくる様を、いつもうっとりと見ていた。


 私もなれるだろうか。彼女のように。


「なるほど、やってみよう」


 もとより跳躍力のあるキツネの五倍なのだ、布一反ほどの幅しかない小川、軽くまたげるだろう。

 私は女房の華麗な後ろ姿を頭に思い描きながら、足に力を入れた。


「えいっ」


 バシャーン。

 

 もれなく四本足で着水しました。

 ひゃあああ、川のお水は氷水! 氷水だよ!

 コンが、直立不動の私を即座に拾い上げる。


「ユキったら、重い石を投げ込んだみたいだったよ」

「どこが五倍なの!」

「倍率の問題じゃないよ。まず跳ぶときは膝を曲げないと」


 え……?

 膝って、曲がるものなの?

 目をまんまるにした私を見て、明日のお散歩にはウサギを連れてこようと、コンは笑った。

 私は結局、コンの羽織のなかでぬくぬくとあたたまりながら、沼を目指したのだった。


 目のなかにちょうどおさまる大きさの、ひょうたん型の沼は神山のなかだけあって、神秘的な様相を呈していた。沼を囲うようにして生える陰陽竹は空高くそびえ、霧の行き場をなくしている。白濁とした霧に竹の濃い緑が混じり合い、まるで翡翠の石に閉じこめられたようだ。水面にはうっすらと氷がはられていて、そのうえに白い鳥がとまっている。


 鳥はこちらに気づくと、大きな翼をひろげて向かってきた。うん? その翼の色、なんだか見覚えあるなあ。


「壁のなかの鳥さん」

「鳥さんやない、トキや! まったく、鳥の名前もわからんとは、ほんまに元中宮か?」


 鳥は、コンと肩を並べると、私をついばまんとばかりにクチバシをおろしてきた。

 コンの手が、その先尖を自分へむける。


「こら。君のほうこそ挨拶もなしに、失礼だよ」


 鳥は真っ赤な頭から湯気をだして、押しだまった。

 コンは困った顔をするが、わかるよ。私だって、コンに顎クイッてされたら湯気がでるよ。


「ユキをここに連れてきたのは、彼に会わせたかったから。黄泉神様のつかわしめで、少し前から私が使役している」

「そうか。コンの守護神は、黄泉神おかあさまなんだね。若いのにすごい!」


 御都の元服は十六歳の立春に行われる。おそらくコンは上背からみても、その歳に達していない。


「すごいわけじゃないんだ。一〇歳のときに、黄泉神様に見初められただけ」

「そんなにはやくから! では、コンは今いくつなの」

「今年の秋に十五になる」


 では今はまだ十四歳かー! 伸びざかりではないか。

 だらしない顔をしていただろうか、鳥がまたクチバシを刃物のように振り上げてきた。


「不躾に歳をきくな!」

「ああ、ごめん。紹介が途中だったね。名前はツクモっていうんだ」

「そう、ツクモ」


 百−一で、ツクモか。

 名付けたのはコンに違いない。私だって、雪みたいだからユキだし。安直だなぁ。そういうところ、嫌いじゃないけれど。

 クチバシを上げたままのツクモへ、私は清々しい笑みをこぼした。


「私はユキ。よろしくね、ツクモ。さっきは鳥さんだなんて言って、ごめんなさい」

「ふん。そんな物知らずでよう中宮やってられたな」

「ほんとうにね。私の大好きな女房の名が、トキっていうの。トキのように白く美しく、恥じらうと肌が翼のように桜色に染まるからと、呼ばれていたのよ。だから、お口もお行儀も悪いあなたがそのトキだとは、まったく思いもしなくって」

「なっ、は?」


 予想外の返しに、ツクモはクチバシをパクパクさせた。

 

「早口だった? 私がほんとうに中宮だったのか、あまりに疑うものだから、後宮妃同士の挨拶をしてみたのだけれど。お気に召さなかったようね」


 前世ではよくこうして、互いに憎まれ口をこぼしては笑い合っていたのだが。

 

 笑ったのは、コンだった。


「言われちゃったよ、ツクモ。そんなことだから邸で暮らせないんだよ」

「ち、ちがいます! 主人のお邸は私にはせまいんで、居られへんだけです」

「それでもごはんくらい、いっしょに食べればいいのに、ねぇ」

「うん。ごはんがまずくなること、言わなければいいんだよ」


 前科があるようだ。ツクモの頭の赤い部分が増えていく。コンは庇うように言うが、


「心根まで腐ってるわけじゃないんだよ」


 根っこ以外腐ってるつかわしめも嫌だ。

 あんまり言うと、ツクモが泣きだしてしまいそうだったのでやめた。

 代わりに前世の知識を引き出す。


「つかわしめは、守護神の神託を授けてくれるのでしょう? おかあさまからのお告げはないの」

「ユキ、黄泉神様はお忙しいから、半年に一度あればよいほうなんだよ」


 コンはそう言うが、


「あるわ」


 ツクモはツーンとクチバシを振りながら言った。危ないなぁ。


「珍しいね。ユキが生まれたから?」

「そうです! 昨日かて、主人に直接引き渡せばええものを、初抱っこは譲られへんて、わざわざ神殿に出られて」

「そうだったんだ。黄泉神様のお姿は、神殿でしか見られないからね」

「明日も明後日もあるらしい。まったく。こんなコギツネの、どこがええのか」


 すごいねめつけてくるが、すべて嫉妬心からだとわかると可愛く思えてしまう。

 ごめんね。

 おかあさまが夢中になるくらい愛らしいコギツネでごめんね。


「それで、神託は?」

「半年は山から出さないこと。歩くときは必ず付き添いをつけること。くれぐれもケガをさせないように。みているからな」


 おかあさま、過保護であらせられるな。


「それだけ?」

「ここ最近、御都の死者は少ないですしね。あとは──、ユキ、かわいい名前だ。気に入った。だ、そうです」


 私の産毛に伝わるくらい、コンはホッと胸を撫で下ろした。

 そういえば私ったら出会って早々に、名付けという責任重大な使命をおしつけていたんだね。私も気に入ってるから許して。

 それにしても、半年山ごもりか。


「そんなにゆっくりしてていいの? その間にまた誰か殺されてしまうかも」

「御都の重鎮は、すでに殺し尽くされてる。玉藻姫を封じる準備は、黄泉神様も入念にと仰られているから」


 今度は、私が押しだまった。

 殺し尽くされていると言うが、おかあさまは、玉藻姫を野放しにしていると、更なる犠牲者が増えるようなことを言っていた。闘う以前に、救うべき命があるのではないだろうか。

 もちろん、玉藻姫の千里眼の能力を前提にして、慎重にことを進めるべきだけれど。

 コンが、心配そうに顔を覗きこんでくる。


「無理はしないで。五年も待ったんだ、敵に勘づかれないよう用心深く、少しずつ力をつけていこう」


 自分に言い聞かせるように、はつらつと笑う。その下で握るこぶしに筋が立っているのが、コギツネの私にはよく見えた。

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