おきつねさまとお目付け役
「わあ────!」
はしたないのはわかっているのに、おおきな口を開けて声をあげてしまった。
魔法陣を潜る前も思ったが、転移先の邸はまるで御伽草子のなかのような様相を呈していた。邸に柵や塀がなく、樹々に囲われ、まるで山の一部のようだ。
雪の白で覆われた庭を彩る虫の調べ。
邸へと続く灯籠の輝きに、紅玉の瞳がきらめく。
「もしかして、ここは神山のなか?」
神山とは、御都の南にそびえ光と影を集めし山。
その名のとおり神の領域として崇められた山だ。
土地を護る神、
神の手を離れた今は、山のなかに集落もできたが、選ばれた人間と動物以外、住めない。その証拠に、一年中咲くことが許された花は狂い咲き、季節に関係なく蝶や蛍がとぶと、女房から聞いたことがある。
コンは嬉しそうに笑った。
「御明察です。さすがおきつねさま」
「雪にとまる蛍の灯りが、星々のようでとても綺麗」
「お庭を気に入ってもらえたようで、よかった。ですが、なかは期待しないでくださいね」
少し物憂げに言う。
なるほど、開け放たれた
板敷きの床を見下ろせば、鏡のように産毛の一本一本まで映し出される。
「さあ、こちらへ」
少年は広間の上座にあたる置き畳一畳の中心に私を下ろすと、自分は床に跪き、頭を垂れた。
「ようやくあなた様を迎え入れることができました。この日をどれほど心待ちにしたことか」
「ご案内ありがとう。それで、お目付け役の方は?」
のびをして、やおらに居住まいを正すと少年の肩の向こうを見渡した。
見たところ奥にもいくつか部屋があるようだ。乳母や下仕えが二、三人居てもおかしくはない。前世のように少々口うるさいくらいの、よくできた女房がついてくれるとよいのだけれど。
少年は遠慮がちに言った。
「申し遅れました。私は
「陰陽生で小御門……?」
陰陽生は、陰陽師になる前の修習生のことだ。まだ歴史の浅い陰陽寮のなかでも、類いまれな才能をもつものしか入れない。それに小御門家は御都の陰陽師家宗家にあたる。宗家の修習生が、なにゆえ舎人の衣裳を着ているのか、聞きたいことは山ほどあるが。
「あなたが、お目付け役?」
「はい。身分は見習いのままですが、あなた様のお役に立てる術、すべて体得しております。この昏明、身命を賭して務めさせていただきます」
「ほかに人は?」
「この邸に人間は私以外に居りません。……やはり、若輩者の私ひとりでは心許ないでしょうか」
切なげに豊かなまつ毛をふせる。
そのうつむいた顔に、よく知る
そうか、小御門──。たしかに彼には、子がふたりいると言っていた。だがどうして宗家の人間がこんな山奥に。五年の月日のなかで一体なにがあったのか。
私はぶんぶん、首を横にふった。
「お目付け役は、身のまわりの世話ができるとうかがっていたので、てっきり女性の方だと思い込んでいただけです」
驚きはしたが、よく考えればキツネ一匹の世話、乳母である必要はない。無自覚に欲深くなっていた自分を戒めたい気分である。
そうか。目の前の少年が、お目付け役。
ふふ、お顔がよすぎてキツネの視力が上がりそう!
「名は昏明、でしたか」
「はい」
「まずは、お顔をあげて膝を崩してくださいませんか」
「はい。それでは失礼して」
よし、今だ!
足を組んだすきに、膝の上へとすべりこんだ。
「お、おきつねさま?」
「お話しはここで聞かせていただきます」
畳はかたいし、なにより吹きっさらしでさむい。
それに比べて昏明さんの膝の上の心地よさときたら。
言葉では言い尽くせぬしっくり感と、ぬくもり。あー、あったかい。
あとすごくいい香りがします。
「おきつねさまは、とても甘え上手でいらっしゃる」
「昏明さんは、よく笑うかたね」
その紅顔で嬉しそうに笑われたら、鼻からアレがでてしまうわ。
「クーン」
ほら、でちゃった。
昏明さんは、よりいっそう嬉しそうに笑った。
「私のことは、どうぞお呼び捨てくださいませ」
「では昏明。こんめ、……コン。コンと、お呼びしても?」
「コン、ですか。これはまた、おきつねさまのお目付け役にぴったりの呼び名ですね」
「コン!」
「ふふ。鳴き声なのか、お呼びなのか、判断しかねます」
ほんとうによく笑う。
その表情の奥には裏っつらがあるのではと、つい勘ぐってしまう、いけないキツネがここにいます。
昏明──コンは、そんなキツネに後ろ暗さを与えるほど、浄らかな目で訊ねてきた。
「では──、恐れ入りますが、私はあなた様をなんとお呼びすればよいでしょうか」
「私の名前?」
ほう。私の名前。
私の。
「私に、名はない」
東の民は生まれてすぐに真名をつけられる。忌み名といって、家族以外に呼ばれることがないその名は、私に与えられなかった。御都へ入内するために、この現世に生を受けたからだ。
天子の母。
それが、それだけが、私の通り名だ。
コンが遠慮がちに言う。
「おきつねさまは玉藻姫と宿縁のある御身分と常々、うかがっております。その、……よろしければその名を、お呼びしても?」
「身分? 呼び名は中宮よ。雷鳴の中宮」
コンは、なぜか私をまた畳へおろすと、両膝を揃えて床に額をつけた。知ってる、それ土下座っていうんでしょう。
「雷鳴の、中宮様……!」
「あ、はい」
うう、さむい。畳さむい。
だが次は強くでないと、足を崩してくれなさそうだ。
「コン、私は膝の上がよいと言ったでしょう」
「は、はは──!」
はい、でいいよ!
顔はあげたが、膝をぴっちり閉じて崩さないので私が縮こまらなくてはならない。身体を毛玉のように丸くしておさまると、顎をコンの腕に預けた。
コンがうっとりと言う。
「ああ、この愛らしい生き物が、憧れの中宮、さま……」
彼の脳裏に刻まれた前世の私の姿は、さそがし毅然とした佇まいであったことだろう。実際は公務だけではなく、目覚めから寝入り端まで、頭のてっぺんから爪の先まで、中宮でなくてはならなかった。
そしてその地位は、とうに命とともに潰えている。
「そうか、私はもう中宮じゃないんだ」
「中宮様に、……肉球、ぷにぷにしてしまった……、今更ながら私はなんという無礼を」
コンがたいそう罪の意識に苛まれているが、君がぷにぷにした肉球はコギツネのもの。帝だけが触れることを許される、中宮の細腕ではない。
「中宮じゃない。私は中宮じゃないのよ。もう、だれにもへつらわなくていい。ただの、キツネなんだ……!」
なんてことだ。
私は今、生まれたてのキツネ。背負うものはなにもない。そばにいるのは、お目付け役のコンだけ。
次代の天子の母? キツネには荷が重すぎるため、すみやかにお断りさせていただこう。
「コン!」
「ははー!」
「ははー! じゃない、はい! いや、はいでもない、うん、だ! 今からうやうやしい言葉づかいは禁止。私はキツネ。あなたは飼い主」
「飼いぬ……、お目付け役です!」
「そうね。お目付け役は、信頼関係に重きを置くと聞くわ。対等に、寄り添うことが大切よ。私もあなたを飼い主ではなく、おともだちとして接するわね」
「おともだち!? お目付け役ですってば!」
「でもいざ外を出歩くとなると、抱っこしたコギツネにへりくだっていたら、不自然でしょう?」
あくまで抱っこが前提である。
「いやしかし、おきつねさまは神の使いであると言いひろめれば、……だがしかし、このちいささと愛らしさでは、ぐっ、──ぬぬ」
コンは、実直でありながら物分かりもよいようだ。私は遠慮なく続けた。
「それからコンが、私に名前をつけて」
「私がですか!?」
「おきつねさまじゃあ、長いし味気ないでしょう?」
「わ、わたしが……、では、あなた様のご希望は」
「雷以外で、なるべく短く」
「短く、ですね。──ではひと月後までに」
「今すぐ決めて」
「今すぐ!? し、しかし黄泉神様のお許しがなくては」
「おかあさまは、私に劇的に甘い。私がコンに任せると決めたら、そうなのだ」
「それほんとうですか……?」
ものすごい疑われているが、多分、きっと大丈夫だから!
「ではいくつか申し上げますので、そのなかから」
「ひとつでいい」
突然の面倒にうろたえつつも考え込んでいるのか、コンは真顔になった。おきつねさまが占ってしんぜよう。その罪なお顔立ち、女難の相あり。
コンの背筋がのびる。案外、決まっていたようだ。
「ユキ」
次には、照れて顔が真っ赤に染まった。
「その、安直すぎましたか」
「──いいえ」
ユキ。
雪のように白いから、ユキか。
応用力が低いのか、あえてひねらなかったのかは、わかりかねるが。
「ふふふ。人に名付けてもらうのって、こんなにも嬉しいのね」
新しい呼び名を頭で反芻しながら、私はうっとりと、目をつむった。
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