おきつねさまと九尾の狐
心の準備が整わぬまま神殿にぽつんと取り残され、胸がキュゥと縮こまる。
キツネはとても寂しがりやな動物、という知識を引き出し一度は納得するも、眠る時間以外にひとりになる機会がなかった前世を思い返して、また胸がつまった。
私は、ひとりぼっちの耐性がなさすぎる。
ついには、なみだがこぼれそうになったところに、
二度と目に入れたくなかった女の髪が、鼻先でしだれた。
「あらぁ? こんなところで可愛らしいコギツネちゃんが寝ているわぁ」
玉藻姫だ。
琵琶音のような余韻のある声に、産毛が逆立つ。美しさは五年前と変わりない。いやそれ以上に精緻な顔を、私の鼻先までもってきた。
宿敵を前にして、心は静かだった。怖れはなく、怒りとも違う。ただ息をすると、泥を煮詰めたような不快感が、腹の底から湧いてきた。
ひどい悪臭だ。
玉藻姫の豪奢な衣裳から、腐った臓物の匂いがする。香にまじらぬ油のような、鼻をつく人間の匂い。
頭に挿した矢尻のような水晶のかんざしに、息をとめて歪むコギツネの顔が映った。
「名を呼ばれた気配を感じたのだけれど、だれもいないわねぇ。いるのはコギツネ一匹。あんたたち、誰かが産んだぁ?」
玉藻姫が声をかけた方角に、三匹のキツネがならんでいる。毛の色が、赤黄青と派手にわかりやすい。尻尾もまた右から二本三本四本と増えていった。大先輩には違いないが、頭が足らなそうなキツネたちが、口々に言う。
「いえ〜? この御都では一度も孕んでおりません〜」
「わたくしも、わかりかねますわ!」
「……妖力もみえませんし、母キツネがここで産み捨てたのでは」
「いやだ。じゃあ野良ってこと? きたならしいっ、さっさと他所へお行き」
黄泉神の言葉どおり、玉藻姫はあっさりと疑いを解いた。
ならば、ここはすみやかに神殿を出るべきだ。
追い払われてとどまっていては不自然であるし、お目付け役の迎えがあるならば、いずれ玉藻姫と対峙してしまう。
私は玉藻姫へ背を向け深く息を吐くと、ころんと寝返りを打った。コギツネの身体は、人間のころが嘘のように軽やかだ。
四本足で立つと、彼女たちへの恐怖を総身で演じながら、すみやかに出入り口へと向かった。
「ふふ、怖がっちゃってかわいい〜」
「次はお父さんを連れてきてねー!」
「……お兄ちゃんも大歓迎よ」
三色キツネが見た目のとおり、かしましくする。次に行き合ったときのために、その容貌と匂いをしっかりと頭に叩き込んだ。玉藻姫ほどではないが、卑しく穢れた匂いだ。
神殿の敷居をとんでまたぐ。
空を見上げてはじめて、刻が夜だと知った。
産毛をとおりぬけて伝わってくる、突き刺すような寒さ。月と星の位置をみるからに、
白い息をひとつ吐いてから、ゆっくりと大階段へ足を踏み出した。三百段ある大階段、この暗がりでコロコロ転がるのだけは避けたい。
「おや、コギツネが参拝ですか。熱心ですねぇ」
そこで思いもよらず、顔の見知った神祇官に声をかけられた。歳月不待とはよくいったものだ。出仕をはじめたばかりで
感慨深く見守っているうちに、神殿のなかへと姿を消す。
あれ、あなたがお目付け役ではないの。
彼の実直な声音は階段まで届いた。
「皇后様……! このような夜更けに、なにゆえ神殿にいらせられるのですか」
「ふん、妾が居て不都合でもぉ? 妾は今、無駄足を踏んだばかりで機嫌が悪いぞ」
「しかしながら、閉殿後の神殿には帝すら入ることが許されておりませぬ」
「ほう? 妾は帝より、神より下位だと、そう言いたいのかねぇ?」
「お取り違えを……! ただ私は、神々に対してあまりにも伝法な振る舞いであると──、ガハッ」
語尾の吐血音に振り返った私は、寸刻前の自身を悔いた。
袴の裾を引っぱってでも、とめるべきだった。
懐かしんだばかりの神祇官の身体が、すぐそばで、縦に真っ二つに割れている。
少し遅れて、衝撃が波のように襲ってきた。
ああ、あの不快な匂いは、玉藻姫の爪に染み付いたものだ。
何十、何百とその爪で、人間の皮膚を切り裂いてきたのだろう。爪に血が染み、肉がはさまり、残る匂い。洗っても落ちないにおい。コギツネ一匹に手をかけない? 違う。キツネより人間の命のほうがはるかに軽い。
それは、玉藻姫が妖狐であることを証明していた。
わかりやすくうろたえた私は神祇官から流れでた血に滑り、大階段から落っこちた。
転がりたくないからと、気をつけていたばかりなのに。
なんせ生まれついたばかりで、キツネの身体能力を使いこなせない。早々にあきらめ目をつむり、背中にくるであろう衝撃に備えた。
「あら?」
痛くない。むしろ、ふかふかとしている。
恐る恐る目を開けると、私は男物の藍色の袍のなかで、毛玉のように丸まっていた。その奥に筋張った腕を感じる。
頭上から、少し荒んだ息づかいで言葉を落とされた。
「よかった。間に合いましたね」
凛とした、清流のような声だ。
そこでようやく、誰かが私を抱きとめてくれたのだと気づいた。
「クーン」
鼻を鳴らす。
本能だ。無理もない。
私を横抱きにしているのは、夜空の星々さえかすんでしまうほどの、煌びやかな少年だった。
髪は短いが、よく手入れされた宮女のそれのように色艶がよく、肌はおしろいをはたいたように白い。その面を飾る華やかな目鼻立ちにはまだ幼さが残っており、とくに精緻な目もとは浄らかすぎて目をそらしたくなった。
緊張して、ピンとこわばらせたままの前足が、少年の頬にあたる。
うわぁ、ぴちぴちしてる。
少年は私の前足をつかむと、確かめるようにもう一度頬に押しつけながら、やわらかく笑んだ。
「あははっ、にくきゅう、ぷにぷに……っ」
えー、待ってそんな君がかわいいから!
転生直後から波瀾万丈な私の心が、ブワァと癒されていく。
少年は、今度は花が咲いたように笑った。
「参りましたね。おきつねさまって、こんなに愛らしい生き物なのですか?」
いや、人間なのにキツネを惑わせるあなたは、なにものですか!
「おきつねさま……? 私のこと、ご存知なのですか」
「よかった、お話しできるのですね。あなた様のことは存じておりますよ」
慌ただしく階段をのぼる番兵たちが、こちらを訝しげに見ていく。
「神殿へ上がれば、まだ黄泉神様がいらっしゃると思ったのですが……、場所を移しましょう」
少年は上段で滴る血をみつけると、私を抱いたまま、神殿を背にして階段を下りた。
このまま運ばれてよいのだろうか。だが私の心は運ばれてしまいなさいと言っている。
もしかしたらおかあさまが言っていたお目付け役──、が遣わせた、付きびとかもしれない。まだ十四、五歳の若々しさであるし、身に纏う衣裳は
「ねえ、あなたは」
「シーッ」
せめて名前だけでも訊ねようと、口を開けるのだが、そのたびに人差し指を添えられ、悶えなければならなかった。
向かった先は内裏から少し離れた、東馬寮。屋根のある
ひとまず敵の手中ではなさそうだと、胸を撫でおろすも、馬糞の匂いが凄まじい。
少年は申し訳なさそうに言った。
「ここは経由地点に過ぎませんので、しばらくのご辛抱を」
少年はまっすぐ厩舎の突き当たりへ向かうと、私を縦抱きにして両手をあけ、忙しなく指を動かした。
印を結んでいるようだ。呪術師見習いだろうか。ただ、口はかたく閉じたまま。細長い厩舎の突き当たりに、少年の上背にちょうどいい大きさの魔法陣が、縦に青白く現れた。
その隙間から、蝶や蛍のたゆたう幻想的な情景が見える。細く流れる小川。豊かな緑にかぶる雪。色とりどりの草花。
奥に建つ邸はびっしりと蔦に覆われ、広いのか狭いのかわからない。けれど、やけに胸が踊るのはどうしてだろうか。
魅入っていると、ちいさな黒点の鼻を優しくつつかれた。
「詳しい話しは、のちほど」
少年は私と目を合わせると、安心させるようにひかえめな笑みを浮かべ、魔法陣のなかへと足を踏み入れた。
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