生ひ育つ

壱 こぎつね

おきつねさまとおかあさま

 くすぶっていた熱と傷みが前触れもなくひき、おそるおそる目を開けた私は覚えのある屋根裏を見上げていた。

 内裏には東にひとつ、天神地祇てんじんちぎを祀る神殿かんどのが建つ。その豪奢な屋根裏に違いないのだ。

 いや見間違えかもしれないと、まぶたを閉じなおした。

 神殿で仰向けに寝転んでいるなんて、神々への冒涜以外のなにものでもない。中宮であった私にとってありえないことだ。これは夢だ。夢なのだ。


「クーン」


 眠りなおそうと深く息を吐くと、鼻から甘ったれた音がでた。


「なぜ寝たふりをする」


 不満げな声音が全身の毛にふりそそぎ、ちいさな稲妻のような刺激が伝った。

 ──毛?

 胸に添えていた手を天へ突き上げる。

 陶器の白さといわれた私の腕は、白は白でも、真っ白な綿のような毛で覆われていた。


 ──いぬ?


「キツネじゃ」


 キツネだと。

 私は少し後ろめたくなった。前世の私は雷鳴の中宮という、皇后と同等の立場にいながら何百人と死の道連れにした重罪人だ。堕ちて地獄。生まれ変われたとしても、ゴミ虫ていどだろうと踏んでいたのだが。

 寝転んだまま、近くに飾られた神鏡に自身の姿を映す。


 わぁ、かわいい。

 鏡のなかで、雪のような白さの産毛に包まれたこぎつねが、自身の意志のとおりに前足を上げ下げしている。前足と後ろ足の末端が、桜色に染まっていて、そこが珍しくもあり、愛らしくもあった。

 凛々しい目の奥には紅玉の瞳が輝き、筋のとおった鼻先には、まるっこい黒点がのっていて、思わず自分で押したくなる。

 ペチ。

 あ、押しちゃった。


「そなた、ほんとうにあの、雷鳴の中宮か?」


 声の主が怪しむ。

 それは仕方のないこと。

 雷鳴の中宮は、激しい雨風と落雷に人々が逃げまどうなか、ひとり平然と立っていたという、奇譚を遺している。その芯の強さを覆う姿容は、動く美人画と謳われた。美しいだけではなく品行方正、清廉潔白。才気にあふれ、思慮深く叡智を持つ。その桜の衣裳の裾を目に入れた人間は、己れの愚かさに涙するとまで言わしめた。

 そんな麗しい立ち居振る舞いはどこへやら。今は股を開いて寝そべっている。品行崩壊、清廉決壊の間違いでは。


 返事もせずに、クツクツとちいさい笑い声をこぼしていると、今度は覗き込まれた。

 声の主は、神殿の壁に描かれた天女のように美しい人だ。いや、着物や装飾品、髪型や髪飾りまで、壁の絵とそっくりそのまま。ただ目の下のクマがひどい。

 彼女は疲れた溜め息をこぼし、話しを始めた。


「私は黄泉の国の主宰神、黄泉神。そなたの生みの親だ。あまり長くは話せぬ。そのままでよいから今世のそなたの役目、しっかりと聞き入れよ」

「あなた様が、私の、おかあさま?」


 あれ、キツネなのにしゃべれる!


「んフゥッ」


 おかあさまは咳払いを手でおさえ、変な声をだした。

 

「おかあさまって……っ、首かしげて……、私はまたとんでもないものを生み出してしまった……」

「黄泉神様、しっかりしてくださいよお」


 壁のなかで天女に寄り添っていた白い鳥が、桜色の翼をひろげて出てきた。おかあさまの腰の高さまである、大きな鳥だ。鳥がクチバシで流暢に喋るのだから、キツネが喋ってもいいか。叡智を持つ私はぼんやりと納得した。

 鳥が訛り口調で言う。


「九尾が我々の気配に勘づいてしまいます。はよう説明してください」

「そうだな」

「きゅうび?」

「玉藻姫のことじゃ。その正体は人ではない。千年以上も前からこの現世うつしよに生きる妖狐──九尾の狐。国を渡り歩いては、ときの権力者を惑わし、悪行を繰り返している。

 特にこの国の皇后に即位してからというもの、嗜虐の限りを尽くしているのじゃ。放っておけば今世は擾乱し、土に還らぬほどの死体で埋め尽くされるだろう。その御霊が黄泉へ流れれば、黄泉は──、もう預かりきれん」


 おかあさまが肩を落とす。神様がお眠りになられるかは存じあげないが、目の下にクマができるほどの疲労感を抱いていることは確かだ。

 それにしても、玉藻姫は人ではなくキツネであったか。


「私もキツネですね」

「そうだ。キツネにはキツネを。そなたはこの私が生んだ神々の、どのキツネより強く美しいぞ。どうかその力と知恵で、玉藻姫を討ち砕いておくれ」


 末恐ろしいことを言いながら、おかあさまは私を抱きあげると、フンワフンワとおなかをなでてくれた。それとても気持ちがよいですね。おのずと尻尾が揺れる。ふりふり。


「あれ。おかあさま、私の尻尾は一本です」

「百年で一本生えるぞ? 九尾となるのは、千年後。それまではこの現世にとどまってもらうぞ」

「えー」


 次には不満が口をついた。そんなに生きなくてはならないのか。単純に千年は長い。わかりやすくシュンと垂れた尻尾を、おかあさまは慈しむように撫でた。


「そなたは黄泉神より生まれし、おきつねさまよ。玉藻姫の力を封じ、その身代わりとなって千年、妖狐の伝説をつむがねばならん。その役目は前世とは比べものにならんほど、途方もない苦難を伴うだろうな」


 私は耳をも垂れさせた。

 中宮であったころもなかなかの苦労人であったと思うのだけれど。それが比べものにならないとは、やはり前世の業が深い。


「ゆえに、ただとは言わん」


 おかあさまは、得意げに鼻をふくらませた。


「そうだな。玉藻姫を失墜させたあかつきには、願いをひとつ、叶えてやろう」

「おねがい?」

「なんでもよいぞ。この黄泉神を悩ますような、難題を考えておけ」


 もはや娘ではなく、孫娘をみる目で愛でてくる。願いごとのふたつやみっつ、今すぐ叶えてくれそうな勢いだけれど。


「クーン」


 承知したとばかりに、また鼻が鳴った。考えさせてくださいましと、濁したいのに喉をくすぐられ、


「そうかそうか、やってくれるか」


 自分の意志とは関係なく、うっとりしてしまう。もうなにも考えられないー。

 鳥が言う。


「どちらさんで?」

「雷鳴の中宮だ。あまりにも頑是がんぜなく、私も一度疑ったほどだが、かわいいじゃろう〜?」

「いやいや、そうではなくて! これがほんまにあの、中宮ですか? 煉獄より強い復讐心を燃やし続けた中宮やったら、かならずや玉藻姫を封じられるからと、選んだのではないのですか」

「そうじゃ。死後も今世にとどまるものは、今際の際の苦しみを延々と繰り返すのだぞ。それを五年も耐え、怨霊化しなかったのはこのコだけじゃ」


 呼び名が「このコ」に変わった。

 おかあさま、私への愛着心がだだ漏れです。

 それにしても、五年も燃やされ続けていたとは。

 申し訳ないが、私は強い復讐心を燃やし、自我を保っていたわけではない。天子の母となる宿命を全うできぬまま、涼しい顔をして黄泉比良坂よもつひらさかをくだる気になれなかったからだ。

 雷鳴のなか、ひとりで立っていたのも、どうあがいても雷よりはやく逃げられる気がしなかったから。

 頭がよくまわるぶん、身体の動きが鈍く、あきらめもはやい。

 動く美人画とは、絵画のように動かない私への皮肉ではないだろうか。

 鳥が正鵠を射る。


「その様子では、復讐心など皆無ではありませんか」

「生まれたてで、寝惚けておるだけじゃ、のう?」


 目を細め、同意を迫るがその表情は、我が子を甘やかす笑みである。だが私は、次の言葉に目を皿にした。


「それに復讐心の有無など問題ではない。御都には、次代天子の母となるこのコが必要なのだ」


 天子の母──。

 死んでも尚、その宿命は続くというの。

 思い出したくもない帝の顔が頭に浮かぶ。後宮の土ばかりか、また帝の影を踏んで生きなければならないなんて。

 鳥は私の反応を見逃さなかった。


「うわあ、すごいいやそうな顔してる。わがままな姫様が、そう易々と、黄泉神様の言うことを聞きますかねぇ」

「聞きますよ、ねぇ?」 おかあさま、私に甘すぎよ!

「それに、お目付け役がいる。このコの転生に五年も待ったのは、お目付け役をしっかりと育てあげるためだ。炊事に下の世話、ねかしつけまでなんでもできるぞ」

「それ乳母めのとでは」


 鳥の鋭い指摘に、私の尻尾が勝手に揺れた。

 乳母がいる、すなわち寝食に困らないということだ。このままおやつももたされず、山奥に放り出されたらどうしようかと思っていた。紛いなりにも、元中宮。情けのない話し、身のまわりのことは自分でなにひとつできない。

 鳥が片翼の先尖を御扉へ示す。


「来たか。はやいな」


 おかあさまはゆるんでいた顔を引きしめると、名残惜しそうに私を板間へ下ろした。


「すまないが、我々は消える。神殿のなかは、あの女狐の千里眼をもってしてもみえぬはずだが……、女の勘というやつか」

「私は、どうすれば」

「妖狐にはそなたの神の力はみえない。コギツネ一匹に手はかけまい。それとお目付け役には、すぐに迎えに来るよう伝えておる」


 そう言うと、おかあさまと鳥は振り返ることなく、壁の絵へ溶けこんでいった。

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