第8話 ストレート
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光は5秒間くらいの間キャッチャーからのサインを待ってセットポジションに入っていた。
???
キャッチャーの天見さんがど真ん中にミットを構えてからもう10秒くらい経ったが、サインを出す様子もなくただただど真ん中にミットを構えて動こうとしなかった。
…………。
光は野球をやってきてこれまでで1番どうしたらいいかわからない状況に直面していた。
光も天見さんのどちらもお互いに固まったままで10秒くらい経過していた。
まずそれに気づいたのはセンターラインを守っているショートとセカンドが異変に気づき、マウンドに集まらなかったセンターもおかしいことに気づいた。
その後はファースト、サード、ライト、レフトが気づき、相手の一番バッターもその異変に気づいた。
ここまで来ると、両方のベンチ、スタンドまでその雰囲気に呑まれ始めた。
ざわざわという喧騒が少し聞こえるだけで、グランド内外はほぼ静まり返っていた。
流石の光もこの雰囲気に呑まれそうになったのか、一旦プレートから足を外し、プレートの近くにあるロージンに手を伸ばして間をとった。
ロージンを手に取っている間に、ちらりとホームベースにいるこれまでボールを受けてくれている天見さんの様子を見てみたが、一切動いてる様子もなくただただど真ん中にミットを構えているだけだった。
『んー…参ったねぇ。ボール球を投げるなという強い意思を通り越して怖いくらいの意志を感じるんだよねぇ。結局私は何を投げたらいいのだろう?』
光はロージンを触ってる間に色んなことを頭の中で整理をしようとしたが、流石にスリーボールにしてからあまりにも時間をかけすぎている。
一打サヨナラのピンチで試合終了の場面であれば、見ている方もかなり慎重になっているのも分かってもらえるが、5-0で勝っている状況でこれ以上は間延びすることは無理だった。
光は自分の持つ頭で色々な可能性を考えることにした。
まさか自分でキャッチャーの投げてもらいたい球を、自分自身で考える羽目になるとは思っていなかったようだ。
まず最初にツーシーム。
スリーボールノーストライクから投げるならまずストレート。そこを狙ってきたバッターに対して動くボールは打ち取れる可能性が1番高い気がする。
次にチェンジアップ
絶対にストライクを取らないといけないカウントで、ど真ん中に緩い変化球を投げないといけないのは自滅行為。
相手はスイングしなくても問題ない場面で緩いボールを投げると打ち気が無くてもそこから反応して打たれる可能性も高い。
可能性は低いがナックルカーブとスクリュー。
私の得意な変化球の2つ。
投球練習でももちろんこの試合でも、今日一球も投げていない球をコントロールに自信がある私でもど真ん中に投げれるとは思えない。
そもそも香織とサインを交換して投げても、打者がいる状況だと2つのボールは捕球率に少し不安が残るのにこの変化球は考えずらい。
最後にストレート。
これが大本命。
ど真ん中に力一杯投げて狙っていても空振りもしくは打ち損じを狙えそうな球。
打ち取るならストレートよりもツーシームの方が香織も捕球出来て、スイングしてきた時に打ち取りやすいような気もする。
もし打ち取ってもバックがエラーしたら?
結局答えが出ないまま、少し集中しきれずにセットポジションに入ってグローブの中のボールをストレートの握りにしたり、ツーシームの握りにしたりコロコロ変えていた。
ある程度覚悟を決めて、キャッチャーの方を見た。
いまさっきと何も変わらずど真ん中にミットを構えるだけだった。
なんのサインも出さずに私の方をじっと強い眼差し、いや怖すぎる眼差しで見ていた。
結局、ここまできてキャッチャーの天見香織の真意が分からないまま、自分が1番抑える可能性の高いツーシームを投げることにした。
愛用の赤いグローブの中でいつものようにツーシームの握りを変え、ゆっくりと胸の前にグローブを構え、そして後はあのミットに向かって投げるだけだった。
………。
光は思った。
私は何故こんなに悩んでいるのかと。
ストレートだろうがツーシームだろうがキャッチャーの構えているミットに向かってただ投げればいいだけなのだから。
ピッチャーとキャッチャーはバッテリーと呼ばれ、夫婦にも例えられたりもする。
開き直りかけたその時に天見さんの顔を見て、お互いに走馬灯のように同じことを思い出していた。
『あれは初対面の時だったかな?』
その男子野球強豪校も時代の流行の女子野球部を設立することになり、新1年生の何人かをスカウトして特待生として入学させていた。
1番期待されて入学してきたのが天見香織だった。
捕手として中学女子硬式クラブチームに所属していた天見さんだが、チーム自体は弱小で公式戦も相手が弱ければ1回戦を勝てるかもという位のチームにいた。
入部した1年から3年までの間にチームとしての進歩が見られず、連戦連敗でどんどん新しく出来る女子のクラブチームにさえ勝てないような有り様だった。
天見さんはひたすら努力を続けた。
いくら負けても馬鹿にされても練習し続けてきた。
その結果、個人として女子中学硬式クラブチームの県選抜としてキャッチャーとして選出されることとなった。
弱いチームのキャッチャーで大会も勝ち抜けないのに何故選ばれたのか?
県選抜の監督をすることになっていたクラブチームの練習に何度も乗り込んで、自分の能力をアピールしてそれが認められて県選抜として試合に出ることになった。
福岡県の代表として九州県内と相手と何試合して、九州選抜のキャッチャーとしても選ばれることになった。
最後の最後にデットボールを利き手に受けて九州選抜のチームに入ることは叶わなかった。
九州代表にはなれなかったが、それでもそれまでの活躍を認められ、いくつか高校にもしてスカウトされるまでになった。
そして、城西高校にスカウトされ新1年生しかいない新しく出来る女子野球部に特待生として入学することになった。
なぜ城西だったかというと、本当に行きたかった甲子園に近い高校からはスカウトが来なかったからであったが、城西は男子野球が強豪だった為、女子野球も力をきっと入れてくれるという希望を抱きそれも入学の決め手となった。
天見さん達1年生は、新しい女子野球部として他の高校になめられないように少しでも強くなる為に結構厳しい練習を始めた。
チームメイトには福岡でも有名な選手が2人いた、堅守のショートの川越さんと俊足セカンドの西さん。
その2人と天見さんは3人が中心となり3年になる頃には自分達が甲子園に行くんだという希望を抱いていた。
1年生達が入学して1週間もすれば、男子野球部に女子の投手が混ざって練習しているのを噂で知ることになった。
それが東奈光という甲子園出場を本気で目指す男子野球部に混ざって、男子に負けないどころか男子よりも優れた選手だとは誰も思いもしなかった。
そのせいで、初対面から入部してもらうまでにかなりの日数かかることになってしまうのであった。
「失礼します!東奈光先輩はここの教室にいると聞いたんですがいますか?」
天見、川越、西の3人で噂の東奈光という人を野球部にスカウトしようと3年の教室まで押しかけてきた。
「私がその東奈光だけど、君たち1年生の女子野球部の子達だよね?私になにか用でもあった?」
光はいつものようにニコニコとしながら、自分よりも大分低い身長の後輩たちを上から見下ろしていた。
「単刀直入に言いますが、私達女子野球部に入ってくれませんか?新設されたばっかりで人数も少なく少しでも戦力が欲しくて…。」
天見さんが代表して姉に対して提案を持ちかけた。
普通は女子なら女子野球部が出来たら、男子野球部じゃなくて女子野球部の方に行くのが当たり前だが、姉はそういう人ではなかった。
「なるほどなるほど。 悪いけど無理だね。私は女子野球部には入らないよ!もう私も3年だからすぐに引退しちゃうし、新しく出来たチームなら君達1年がこの城西女子野球部を強くしていった方がいいよ!」
光は3年だから1年生のチームに入ることに難色を示して、もっともらしいことを嫌味なくあっさりと伝えた。
これであっさりと話が終わると思いきや、天見さんが食いさがってきた。
「男子野球部じゃ公式戦も出れないんですよね!?それなら女子野球部に入った方がもしかして試合に出れるかもしれないのに、いいんですか!」
「私は別に公式戦になんて興味ないね。どこで野球をやっていても自分が一番成長出来て、高みを目指せる場所なら男子だろうが女子だろうが気にしないし、焚きつけようとしとも無理だから帰った帰った。」
お互いに結構きつい口調で言い合って最初の印象は良くないように見えたのだが、姉だけは初対面の天見さんを気に入ってたらしい。
『うんうん。1年生でも強い気持ちを持ってるこの子達、主に目の前のこのちびっ子は悪くないな。諦めないようならまた遊んであげようかな?』
天見さんたち3人を簡単にあしらったが、天見さんはじっと強い眼差しで姉を方を見ていた。
その視線に気づいてわざと余裕ぶった様子を見せて鋭い視線で天見さんを睨み返した。
「おい、光。1年生に対して流石にあんな言い方することないだろうよ。」
咎めるように話しかけてきたのは、男子野球部のキャッチャーでキャプテンを務めるチームメイト兼クラスメイトだった。
「なーにー。私の客人だから別にどう対応してもあんたに何か言われる筋合いなんて無いんだよーだ。」
「お前なぁ。あの様子じゃお前の野球の能力を知らずに善意で野球部に誘いにきたのに、断るにしてももう少し優しく…。」
「断った訳じゃないよ? ただ、あの子達がどれだけ野球に対して真摯なのか、本気なのか、勝つ為には私情を捨てられるかが知りたかったのよ。」
そう言い残して教室から光はフラフラっと出ていってしまった。
それから一時は天見さん達が来る事がなかったが、光の持つの本当の実力をその目で確認してしまった後は、勝つ為には絶対に必要な投手を確保するために毎日のように光のところに来て、嫌味を言われたり、軽くとあしらわれたりした。
「あーもう!東奈先輩どれだけ頑固なの?毎日こんな事やっても無理だよー」
「こら!東奈先輩は確かに気難しいかもしれないけど、あの投球は女子相手じゃそう簡単には打てないと思う。もしも全国に行ければ、来年の新入生達が有望な子達が来ればまた全国に行けるチャンスも来る。」
流石にずっと断られ続けると1年生の中でも意見が分かれるのは仕方ないような気もする。
1年生しかいないからこそ特待生の話を受けた子だって少なからず居るのは天見さんも百も承知だった。
「だから、皆が行きたくなかったら朝から晩まで私がずっと行く。それ位のことをする価値が東奈先輩にはあると思ってるから。」
そうして、天見さんは姉が女子野球に入るまで毎日毎日勧誘に来るのであった。
そのひたむきさに心を打たれたのは、姉よりも野球部のキャプテンだった。
裏でこっそりと光を説得して女子野球部と男子野球部を掛け持ちするように勧めていた。
そして、入部を決まった日の放課後に女子野球部のグラウンドのマウンドには姉が立っていた。
「東奈先輩!絶対に先輩のストレートを取るから、思いっきり投げてください!」
チームメイト全員がその様子を食い入るように見ている中、ホームベースの後ろでどっしりと構えて、絶対に取るという強い意志を感じさせる眼差しの天見さんを同じような目で姉も見ていた。
そこで投げたのは勿論。
光がこれまで努力を積み上げてきた取れるものなら取ってみろと思って投げた「ストレート」
天見さんもここまで必死に毎日毎日押しかけるように勧誘し、やっとのこと掴んだチャンス。
練習後にはバッティングセンターに毎日通って140キロのストレートを問題なく取ってきた自信で絶対に取ると誓った「ストレート」
2人はあの時の放課後のことを思い出していた。
その時に投げたストレートを必死に取ろうとする天見さんを見て光は野球部に入部することを決意した。
今じゃ立派に光の球を受け、そしてリードするまでにこの短期間で心·技·体ともにかなり成長しているのが光にはとてもよく伝わっていた。
そして、本当の決意をした。
セットポジションから足を上げたタイミングで、一瞬でツーシームの握りからストレートの握りに変えた。
体の中から溢れんばかりの闘志を全面に出し、これまで考えてきた全てのことを捨てて、最高のストレートをあのキャッチャーミットに届けることだけを考えた。
この投げるまで時間かかった分、誰もが度肝を抜かれるようなストレートを…。
その全てを乗せたストレートが一筋の光のような真っ直ぐな軌道で、天見さんの待つキャッチャーミットへと吸い込まれて行った。
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