第7話 精神的にピンチ
「ねぇ、光先輩に完全試合のこと言う?」
「ノーヒットノーランならエラーしてもいいけど、完全試合ってエラーしたらだめってこっちが緊張しちゃうんだけど。」
「こういうのって言ったらダメみたいだけど、うちは早く言わないと緊張で倒れそうなんだよー。」
ベンチの隅で光の完全試合についてのことをコソコソと話している1年生達に、ニヤニヤとして悪い顔をしながら近づいて行った。
「こらー。1年坊主ー。私に言いたいことあるなら早く言いなさい!」
1年生達はお互いを確認するように目配せして、自分がその役目をやりたくないと目線でお互いに押し付け合おうとしていた。
「光さん!光さんの為を思って話し合ってる後輩をいじめたらダメですよ!」
困り果ててる同級生を助けたのは、唯一ある程度意見できる天見さんだった。
「バレちゃったかー みんなも気にすることないよ!別に試合に勝てれば問題ないし、1回戦で完全試合するよりも決勝で完全試合で優勝したいから、今回はエラーしてもいいようにノーヒットノーランでいいや!」
完全試合は別にいいからノーヒットノーランはするとあっさりと宣言して、ヘルメットを被ってネクストバッターサークルへ向かっていった。
「あんなこと言われたけど…ねぇ…」
「うん…エラーしなければ完全試合だったと言われちゃうのうち達って責任重大だよね…」
完全試合をしようが、ノーヒットノーランだろうがエラーしたら光には怒られないが、試合後にエラーしなければという周囲の目を晒されるのを考えるとどちらにしろ気が重くなるナインたちであった。
カキィィーン!!!
そんなことをお構いなしと言わんばかりに女子用のラッキーゾーンを軽々と越し、元からある甲子園のフェンス直撃のホームランを放った。
第6回甲子園大会第1号のホームランは東奈光だった。
「みんなー!最終回行くぞー!」
「お、おー!」
6回裏はあれだけ物凄い盛り上がりでグランドに駆け出していったナインだが、今では緊張でガチガチになっていた。
緊張していないのは完全試合目前の本人だけで、キャッチャーの天見さんでさえ、この球場全体の完全試合達成を期待する妙な雰囲気に呑まれそうになっていた。
『うーん。このみんなの緊張感は不味いなあ。どうしたらいいかな?』
いつも笑顔の光もマウンドをならす瞬間だけは少しだけなにかを考えるような顔をしていた。
「プレイ!!」
いつもは観客席全体がザワザワしていて、一塁側や三塁側はその高校の応援団が必死に応援してかなり大きな音が鳴り響いているが、相手チームの三塁側以外が妙にシーンとしている。
この雰囲気が光のバックを守っている1年生達にプレッシャーを与えていた。
かなり独特な雰囲気が流れている甲子園球場で、今最も注目されている選手である光がセットポジションから投げるのを今か今かと待ちわびていた。
「ボール!ポールスリー!」
ストレート3球かなりストライクから外れてボールにして、完全試合にかなり暗雲立ちこめていた。
観客席からはスリーボールと審判が宣告した時点で、完全試合はないなと球場全体が溜息に包まれた。
「す、すいません!タイムお願いします!」
慌ててキャッチャーの天見さんがマウンドに駆け寄っていくのを見て、内野手もみんなマウンドに集まっていく。
「光さん!一体何やってるんですか!?」
光は自分が言われているとは思えないような態度でボールを弄って遊んでいる。
そもそもなぜタイムかけて、マウンドにみんなが集まっているのか分からないという表情をしている。
「何って言われてもなぁ。とりあえず四球出してこの変な雰囲気を壊してから、きっちりとノーヒットノーランするつもりだけど?」
1年生の心の中では東奈光という選手でも大記録の前では緊張して、ストライクが入らないという可能性もほんの僅かにあると思っていたが、あっさりとその希望も打ち壊された。
「だってさー。この状態だとインフィールドにボールが飛んだらヤバいと思わない? 私は90%エラーすると思うんだけど、みんなもそう思うよね?」
お前達のところに打たせたら、エラーすると公言されて、しかもその言葉に同意させられそうになっていた。
「・・・。」
みんな下を俯き、なんにも言えなかった。
「あーもう!どいつもこいつも馬鹿ばっかり!私の個人的な記録なんてどうでもいいんだよ!野球っていうのは個人記録の為にみんなが協力してる訳じゃなくて、勝利のために一球一球全力で取り組んでその結果で完全試合とかノーヒットノーランになるんだから。」
姉はみんなに対して強い言葉でみんなに語りかけていた。
前の回までは自分なら完全試合達成出来ると偉業達成を狙っていた。
それを捨ててまでもチームメイトの緊張を解すことを優先した。
「ここまで来れたのもあんた達が後ろで守ってくれたからだよ。今、5点差で勝ってるけどこんなにガチガチで普通のプレーできないようじゃ私の記録どころかこの試合にも負けるかもしれないしね。」
みんな口を紡いでなにも言い返せなかった。
心の中ではみんな三者三葉で思うことが勿論あるだろうが、この場面で光に対して言い返す言葉もない。
言い返したところで自分達の為にわざと四球を出そうとしている唯一の上級生であり、エースである光は1年生達には大きすぎる存在だった。
少しだけ沈黙が流れたが、その沈黙を割ったのも光の一言だった。
「みんなを責めてるんじゃないんだよ。ただ、もう皆と一緒に野球出来るのも長くて来週までだからさ。私はこのマウンドに最後までみんなの真ん中に立っていたいだけ。その為には私の記録なんてゴミ同然、そのゴミを捨てるためにボール球を投げるだけ。」
みんな、気づいていたがそれを口に出す人はいなかった。
勝っても負けてもこの部を去るという事実を本人から突きつけられた。
甲子園は2週間足らずに終了する。
今日が月曜日で優勝しても来週の土曜日には、チームメイトの中で唯一東奈光だけが引退してしまうのだ。
野球部に入ってやっと1ヶ月経ったくらいだった。
そんな短い間だからこそ、光という存在を1年生達は物凄く大きいものに感じているのかもしれない。
パチンッ!
思いっきり自分の顔を叩いたのは、キャッチャーの天音さんだった。
「完全試合を目前としてる投手になに気を使わせてるの! みんなも分かってるよね?光さんは絶対にプロ野球選手になって、そして手の届かないような選手になる。そうなったら一緒にプレーしたくてもプレーすることさえ叶わなくなるんだよ!」
光が引退するのはみんな分かっていたし、いまさっき本人の口からもその事実を宣告された。
光は元々女子野球をやっていなかった。
そんなことはチームメイト全員が分かっていたからこそ突きつけられる現実もあった。
その現実とは…。
光がこれからどういう進路を選ぶかにあった。
もし大学に行った時は女子野球じゃなく男子野球部に入るだろう。
もしかしたら、男子ノンプロや社会人野球に飛び込んでいく可能性だってある。
勿論のこと、本人が望めば女子プロにドラフトで競合してプロ入りは間違いないだろう。
これから先、アマチュアで東奈光という選手が女子野球でプレーをすることは皆無ということだ。
もし一緒にプレーするなら最低でも女子プロにならないと、もう一緒にプレーすることさえ出来ないのだ。
「香織は大袈裟なんだよー。青空の下で野球してたらどんな場所だってプレー出来るよ。私がプロになったとしても、いつかみんながママになったらママさん野球でもしたらいいやん!」
「もういいですか?少しタイムが長いですよ!」
完全試合がかかった試合で投手がストライク入らなくなったという状況だったので、審判も温情で長めのタイムを取ってくれていたが流石に限界がきた。
「ほら、さっさとみんなポジションに戻って!」
いつものようにニッコリ笑って手でシッシッと、皆(ポジション戻るようにジェスチャーをした。
それとは対象に天見さんの言葉にハッとした表情をしたり、光の言葉で逆に落ち着きを戻したり、別れの悲しみで少し涙目になる人。
それぞれ反応は人それぞれだったが、光の言葉に自分のポジションに散り散りに戻っていった。
しかし、天見さんだけはホームベースに戻る途中、強い信念の籠った表情を見せていた。
「プレイ!!」
スリーボールノーストライクから試合が再開された。
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