【糸島編】2.しっぽとファーストキスの重み。

 私は今、地下鉄七隈線・天神南駅まで歩いて15分ほどの春吉地区の二階建てアパートに暮らしている。


 香椎から警固。

 一応、通えない距離ではない。

 けれど私は篠崎さんの勧めをありがたく拝受し、一人暮らしを始めることにした。


 大学も職場も実家から通って暮らしていたので、これまでの自分から一皮剥けるためにも、ちょっと自立して生活してみたいと思っていたから。


 カンカン、と縞合板の階段を降りて、駐輪場から自転車を出し、私はアパートを振り仰ぐ。


 築40年ほどのアパートだが見た目は可愛らしい。

 令和になる直前に一度リノベーションの手が入っているとか。


 ここは篠崎さんが昔から懇意にしている地主さんの縁故で提供されている場所という。


「あやかしで住む奴がいたらと思って用意してんだけどな。案外皆好き勝手に自分で住処を上手に選んでくるもんだから、部屋が余ってたんだよ」


 と、入居時に篠崎さんが説明してくれた。


 道路にでた瞬間、眩い5月の日差しが頭頂部を焼く。

 私は地面を蹴り、ペダルを踏む。会社までの道のりは自転車通勤だ。


ーーー


 今日も私は今泉の細い裏路地を何度も曲がり、駐車場の脇の誰も見ないような場所にある、小さな社の前に立つ。二礼二拍手一礼すると、ぐるりと視界が反転。目の前に雑居ビルが出現する。


「相変わらず慣れないなあ……」


 一階には古風なカフェ。二階より上は篠崎さんの会社。カフェは飴色のレトロなガラス窓に覆われて、今日も開店しているのかしていないのか、よくわからない風情をしている。


 2階に上がってドアを開き、私は元気よく挨拶した。


「おはようございまーす」

「おはよう、楓ちゃん」


 尻尾をぱたぱたさせながらお茶の準備をしているのは、黒柴の姿にOLの制服を着た、もふもふの可愛い経理総務担当羽犬塚さん。事務所の鍵を開けてくれている彼女も、私のことを「楓」と呼ぶ。


「菊井って呼びたくないから、楓」


 理不尽な篠崎さんの命令により、皆さん私の事を楓さん、とか楓殿、とか呼んでくれている。菊井は滅多にない名字だから、友達もだいたいそっちで呼んでくれてたので珍しい反応だと思う。


「井戸の嫌なこと、ねえ」


 篠崎さんの発言に対して、羽犬塚さんは意味深に笑う。


 何か知っているのかもしれないと思う。社会人になって下の名前で呼ばれるのってなんかくすぐったいけど、篠崎さんに下の名前で呼ばれるのは、嫌いじゃないから受け入れている。


「……」

「ん? どうしたの、楓ちゃん」


 羽犬塚さんが黒柴の黒黒とした、犬(ひと)の良さそうな顔で首を傾げてくる。私は慌てて首を振る。


「いえ。……霊力が溢れてた時は、なんとなく色々いたんだなって実感しちゃって」

「視えすぎていたの?」

「はい。例えば……なんとなく掛け時計の電池残量後二週間分くらいだなーとか。昨日寺社仏閣に行って来たんだろうなとか。トナーの残量とか」

「えっ! すごいわ!! それ、事務の才能すごいじゃない!!!」


 尻尾をぱたぱたしてはしゃぐ羽犬塚さん。私は肩をすくめる。


「見えちゃいけないことも見えちゃうんですよ。聞かされてない人の秘密もなんとなく気づいたりして、それで周りに気持ち悪がられたり」

「それは大変ねえ。でもまあ、それくらい普通よ普通!」

「普通ですかね!?」

「私だって結構長生きだけど、そういう人たくさん見てきたわよ〜。大丈夫よ」


 なんだかそう言ってもらえると落ち着く。ほっとしたところで、外のモップがけに出ていた夜がオフィスに入ってきた。


「あ、いけない」


 私はタイムカードを打刻してジャケットをハンガーに吊し、袖を捲りながらカバンを机に下ろす。


「机拭き、やりますね!」

「助かるわー」


 羽犬塚さんは色っぽい大人の女性の声と、見た目の可愛い柴犬っぷりがなんとも言えないあやかしだ。彼女はこの会社の一番の古株で、篠崎さんとは長い付き合いらしい。

 篠崎さんの机の横にコロコロが吊るしてあるのを見つけて、思わず頬が緩んでしまう。ああ、この職場絶対必要よね……換毛期、すごそう。



「篠崎さん……」


 背が高くて眉目秀麗。柄が悪い風貌さえも美貌の彩りに変えてしまう美男子の篠崎さん。そんな彼も、耳はふかふか、尻尾ももふもふ。


「なんだか実家の犬を思い出すなあ……」

「何が犬だって?」

「ひゃっ」


 篠崎さんが後ろから声をかけてきて、私は思わず声を裏返す。篠崎さんのジャケットからは、今日も相変わらずもふもふっと尻尾が揺れている。つい目を奪われる。


「おはようございます、篠崎さん」

「なあんだよ。俺の尻尾の毛がそんなに気になるか?」


 ぱたぱた。誘うように尻尾を揺らしながら篠崎さんはわざとらしく色っぽく目をすがめる。


「すけべ」

「す、すけべってなんですか! 篠崎さんこそ」

「「篠崎さんこそ?」」


 夜さんと羽犬塚さんがこちらをじっと見る。はっと我に帰ったところで、篠崎さんがぱんぱんと手を叩く。


「ほら、朝礼だ」 


 彼にとってはやっぱり、キスは治安保持と食事の意味でしかないのだろう。

 しっぽより軽い、私のファーストキス……ううん、仕事だ仕事。

 

 私も気持ちを切り替えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る