【糸島編】1.新しい朝が来た、全裸の猫だ。


 窓から鮮烈な朝日が差し込み、私は朝が来たことを知る。しかめながら日差しに背を向けたところで、枕元からホニャホニャとしたスマートフォンのアラーム。手探りで止めてディスプレイの表示を見ると、先日の歓迎会の写真を背景に時計が午前07:01を告げていた。


 起きなくちゃ。思いながら体を曲げると、太腿のところに何か生き物がいるのに気づく。ざりざりとした毛並みの触感、柔らかい熱。


「んー……」


 引っ張り上げると黒猫の夜さんが長く伸びて布団から出てきた。瀟洒な猫さんなのに、舌をしまい忘れたお間抜け顔でくぴくぴと鼻をひくつかせながら寝ている。


「夜さん、寝るときはせめてベッドに入らないでって言ったでしょ」


 ぴくりと反応し、金色の瞳が寝ぼけ顔で開く。


「にゃあ」

「にゃあ、じゃないよ、もう……」


 黒猫の猫又の夜さん。見た目は若々しいほっそりとした美猫さんだけど、姿を変えると成人男性、しかも切長の目元の和風美男子になるから困る。だからなるべくベッドで寝て欲しくないんだけど、この見た目だとどうにも許してしまう。というか、可愛いから許す。


 彼は私と主従契約を結び、私の飼い猫となることで『此方』ーー人間界に居場所を持った猫又だ。元々何百年もどこかの旧家で飼い猫だったからか、今でも人の温もりと一緒に寝るのが落ち着くし、霊力が安定するのだとか。

 一応彼の住まいは会社ということになっているし、会社のロッカーに彼の人間としてのスーツ一揃えは一式あるのだけれど、時々彼は勝手気ままに、主人である私の部屋にやってきてはこうして霊力をつまみ食いしている。


「夜さん、朝だよ。猫缶食べるよ」

「にゃあ」


 立ち上がった私につられるように、夜さんは寝ぼけたままよろよろと起きてきた。一人暮らしのワンルームに置いた折り畳みテーブルの隣に猫缶を置くと、夜さんははぐはぐと顔を突っ込んで食べ始めた。猫缶などの夜さん費用は、ちゃんと会社に請求できるから、まあ私としては別にいいのだけれど。

 夜さんが朝食を食べる隣に座り、私はテレビをつける。

 朝のニュースを見ながら、テーブルでご飯と、ヘアセットとメイクをまとめて済ませるのが、最近の朝のルーティンだ。


 福岡ローカル放送局の朝の報道バラエティでは、今週末に開催されるマルシェの準備をする地元の方々の様子が映し出されていた。


「へー、糸島かあ……」


 画面に映し出される美しい海岸の景色を背に、スタッフの若い女性がインタビューされている。真っ黒で長い髪をした、どきっとするほど美しい美女だ。


「海の美しさと住みやすさに惹かれて移住してきました。地元の方と一緒になって、こうして楽しいイベントを開催することができて嬉しいです」

「人魚姫みたいに綺麗な人だなあ……」


 鮮やかな赤いTシャツを着て飾り気ない姿でありながら、品が良い物腰と声が色っぽい。Tシャツ一枚で美しい人が一番綺麗だって、誰かがどっかで言ってた気がする。


「糸島は学生時代に遊びに行ったきりだなあ……」


 学生時代、同じサークルの友達が糸島出身の子だった。夏休みには良く、みんなで海に行って遊んだのを覚えている。食べ物は美味しくて、海も山も綺麗で、友達の家の庭ではホタルだって飛んでいて、新興住宅街育ちの私にはどれも新鮮だったのだ。


「夜さん、海好き?」

「濡れるのは嫌いだ」

「そうだよね。猫だもんね」


 窓外からはちゅんちゅんと雀の鳴き声。ニュースを観ながらトーストを食べて、それでも時計はまだ7時半。こんな時間に起きてゆったりと用意するなんて、昔は考えられなかった。


「篠崎さんに拾ってもらってよかったな。私も、夜さんも」


 私は独り言のように言いながら服を持って脱衣所に入り、就活の時からそのままのリクルートスーツに袖を通す。流石に猫とはいえ成人男性の姿になる人の前で着替えは無理だ。


 ーー篠崎社長の会社に入社した私と夜さんは。

 あのあと二週間みっちりと篠崎さんによる研修を受けた。とは言っても良くある社員研修のようなマナーや心得のようなものとは少し違った。

 あやかしという「怪異」についての必要最低限の知識や身を守るための知識、あやかしに対するマナーや礼儀作法、会社理念や日々の業務の流れ、などなど……


「まあ、口であれこれ言うよりもまずは現場で慣れて、それから改めて研修するのが早いな」


 篠崎社長はそんな言葉で研修を切り上げた。でも確かに篠崎社長の言葉は正しい。私はまだ、あやかしのことも、会社のことも何もわかっていない。わからないことが、わからない。


「早く慣れたいな」


 言いながら、キスを思い出す。


「あーーーー……」


 あれから研修でも仕事でも顔を合わせたけれど、彼はセクハラをしてくることもキスをすることも全くなく、意識しているのは私だけのようだった。

 やはりあやかしの彼にとっては、私とキスするなんて大したことじゃないのだろう。むしろ尻尾を預けてくれると言うのは余程の親愛の証なのかもしれない。


「……まずは仕事を頑張らなきゃ」


 鏡に向かってメイクをしながら、私は自然と口角が上がるのを感じていた。仕事に行くことが楽しいと思えるのは人生で初めてかもしれない。

 私にできることがある。普通になろうと、無理に頑張らなくていい。

 それだけでこんなに気持ちが軽くなるなんて思わなかった。

 ーー頑張ろう。鏡の中の自分と見つめ合って頷く。


「ヨシッ!」

 

 ヘアメイクを整えたところでふと隣を見ると、全裸の夜さん(人間の姿)がテレビを見ていた。


「ぎゃーーーー!!!!!!!」

「どうした、楓殿」

「人間! 服! 男子! 目のやり場!」


 菊井楓(23)、彼氏いない歴史も23年。

 そんな私がどうして、全裸美形の隣でメイクして「ヨシッ!」とか言ってるの。何もヨシじゃない。

 カーテン越しの柔らかな朝の日差しを浴びた夜さんは、まるでグラビアピンナップみたいに非常に絵になる。絵になるのはいいから、とにかく、やめてほしい。

 朝から如何とも言い難い状況に頭を抱える私の前で、夜さんはきょとんと首をかしげる。


「俺にとってはこの姿も猫の姿も同じ俺だから、気にしないで構わないが」

「夜さん。例えば私が人間のメスですけど、私が猫のメスだったら、どう思うんですか」

「……そうか。そういうものか」

「そう。そういうこと」

「しかし楓殿は人間の雌だから、関係ないのでは」

「ごめん、わかってなかったね」


 夜さんが立ち上がるので「ギャッ」と叫んで顔を覆うと、その間に夜さんは猫になり、するりと私の横を抜け、器用にサッシを開いて窓から降りていった。


「また会社で、楓殿」

「……頼むから、人間の格好でマッパで外に出ないように気をつけてね……」


 私は朝からぐったりと疲労を覚えながら、簡単に片付けてテレビを消す。


「そうよね。夜さんもあんな感じだし、篠崎さんも私に対して、そんなもんよね」


 玄関でパンプスを履き、そして8畳一間の部屋を振り返った。


「……」


 部屋を振り返って、私は胸がじんとする。生まれて初めての、一人暮らし。


「いってきます」


 誰もいない部屋に笑顔で挨拶し、私はドアを閉めた。

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