第19話

 この日の夜、そういえばルークは四日後にゼンナンが会いにくると言っていたなと思い出していた。今日があの日から四日後のはずだが、ゼンナンには会えていない。


 開けた窓から吹き込んだ蒸し暑い風で揺れたレーレイの花を人差し指でつついた。甘い香りが鼻をくすぐる。この花は一向に萎れる気配を見せず、彫刻だったのかと思うほど瓶にいけた時と変わらなかった。


「それ気にいったんだ」


 いつの間にか窓枠に男が腰掛けていた。金髪金眼だったが、服は全身黒く闇に溶け込めそうだ。レーレイとアーヤを見比べて「へぇ」と声と呼ぶには小さすぎる掠れた音を息とともに吐き出した。


「俺を雇いたいというのはユシュールのお坊ちゃんから聞いた。一ヶ月俺を雇って何する気だ?」


 彼こそが名の知れた暗殺者、ゼンナン・サールだった。ゼンナンの金色の瞳は「大量虐殺でもする気か?」と問うているように見えた。暗殺者を『――を殺してほしい』という依頼の仕方以外で雇うことは珍しい。特定の誰かではなく無差別殺人を続けるつもりなのかと不名誉な疑いをかけられている、と思ったアーヤがそのような意図はないと弁明しようとしたが、アーヤの考えを読んだかのようにゼンナンが口を開いた。


「そういう話じゃないだろうことはわかっている。アーヤ・サラクス、いやアーヤ・レイア。ちょうど俺もお前と話がしたかった」


 ゼンナンだとわかって解いた警戒心が再び強まった。「ユシュールの坊ちゃんの名誉のために言っておくが、あいつはたぶん星の使い手様だとは知らないだろうよ」とゼンナンは投げやりに言った。


「話したいことって?」


 アーヤは務めて冷静に尋ねた。ゼンナンを雇うのはアーヤなのだから彼がアーヤの不利益になることはしないだろうと考えたのだ。彼は依頼されてもそれを受けたいと思わなかったら依頼主に会いに来ない。


 ゼンナンはアーヤが愛でていたレーレイを指差して意地悪げに笑った。


「そのプレゼント、俺があげたの」


 アーヤは思わずレーレイとゼンナンを見比べた。この花がアーヤのところに来たのはルークにおつかいを頼んだその日。しかもルークと分かれてすぐだった気がする。


「それをお前に送った後すぐに依頼が来たから気づいてんのかと思ってたけどそうじゃないらしいな」


 レーレイの花からゼンナンとの繋がりを想像する方が無理な話ではないかとアーヤは思った。しかし、そうなるとゼンナンがアーヤのことをルークから聞く前から星の使い手アーヤ・レイアに用があったということになる。ローザの本業を知っているのも、その場所を知っているのもおかしい。


「花なんて送ってどういうつもりだったの?」


 ゼンナンは片手をズボンのポケットにつっこんで窓枠に寄りかかった。その顔は小さな子どもがいたずらをする時の表情にそっくりだ。


「明日の夜、パーティーに行くぞ。その花は招待状代わりだ」

「パーティー?」

「お前は気付いてるかと思ったがどうも違うらしいからな。確かめるためにも行ってもらうぜ」


 ゼンナンは「話はそれからだ」というように片手をひらひらとさせた。


「じゃ、今日と同じ時間にここにくるから準備しとけよ」


 アーヤが返事をしないうちにゼンナンは窓から飛び降りて夜に溶けた。




 アーヤは授業中にもかかわらず今朝の自分の行動を思い返して眉を寄せていた。


 朝起きて、いつだかのお茶会で余ったキャンディーをひっぱり出して、ついでにその横に置いてあったマドレーヌと一緒に透明の袋に入れた。そういえばリボンがあったなと引き出しをかき回して、見つけた赤いリボンをそれに巻いた。いつも同じ深緑のワンピースを着ているのに、今日はまだ一度も袖を通していない青いワンピースをわざわざ山奥の家のクローゼットから取り出した。


 学園について我に返ってから何十回も思い出し眉を寄せ、頭を抱え、机に突っ伏すのを我慢した。

 もうすぐで午前の授業は終わって自由休みの時間になる。――お昼ごはんの時間になる。


「アーヤちゃん! 行こ!」


 授業が終わってすぐ、エイミーがアーヤのもとにやってきた。手には大きなバスケットを持っている。それを見てお昼ごはんを持参したのだとわかったアーヤは困った。アーヤはマドレーヌやキャンディーは誰がそんなに食べるんだというほど持ってきてしまっているが、肝心のご飯は食堂で食べるつもりだったので持ってきていなかったのだ。


「エイミーちゃん、先に食堂でお昼を買ってもいい?」


 申し訳なさそうに言うアーヤに、エイミーはバスケットを持ち上げて見せた。


「実は楽しみすぎてアーヤちゃんの分もお昼ご飯作っちゃったの……。もしよかったら食べてくれない?」


 アーヤが驚いて動きを止めたのを勘違いしたのか「迷惑だったかな……?」とエイミーがゆっくりバスケットを隠す。アーヤは慌てて「そんなことないよ!」と否定した。


「とっても嬉しい。ありがとう」


 とっておきの場所があると言ってエイミーは庭園へアーヤを連れて行った。その場所は庭園の最も奥で、ちょっとした森のようになっているところを抜けた先だった。周りの木々の隙間から溢れる光はとてもやさしく、時間の流れがゆったりと感じられる。


 エイミーが指さした先にはポツンと一つ、ベンチが置いてあった。ここがエイミーのとっておきの場所だ。


「ここでお昼寝したりするのはとっても気持ちがいいんだよ」


 昨日薬学の授業に駆け込んできたのも校舎から遠いこの場所で昼寝をしていたからだった。

 ベンチに横並びで座り、エイミーはバスケットを広げた。バスケットの中にはサンドウィッチとフルーツがぎっしりと詰まっていた。野菜やチーズを挟んだもの、卵を焼いたものを挟んだもの、クリームとフルーツを挟んだもの。色とりどりのサンドウィッチがバスケットの中で輝いている。


「どうぞ!」


 お礼を言ってアーヤはさっそくサンドウィッチをもらった。ふわふわのパンにシャキシャキとした野菜と濃厚なチーズの香りが広がる。


「エイミーちゃんありがとう、とてもおいしい」

「よかった! たくさん食べてー」


 アーヤが食べるのを緊張した面持ちで見ていたエイミーは安心したように微笑んだ。


「あのね、これなんだけど……」


 アーヤはおずおずとマドレーヌとキャンディーをエイミーに差し出した。


「もしよかったら食べて」


 エイミーはマドレーヌとキャンディーが可愛らしくラッピングされているのを見て目尻を下げた。


「ありがとう。一緒に食べよ!」


 自由時間が終わるぎりぎりまでアーヤたちはのんびりと過ごした。エイミーが昨日の反省を活かしてポケットにフォークとスプーンの他にピンセットも入れることにしたと言ってアーヤが驚き呆れたり。アーヤが持ってきたキャンディーの中に『世界三大酸味の三味ミックス』と書かれたものが入っていてエイミーが笑いながら食べたら酸っぱすぎて飛び跳ねたり。予鈴が鳴るまで、時間を忘れて楽しんだ。


「この場所はアーヤちゃんとわたしの秘密ね! またここでご飯食べよ」


 エイミーの笑顔でアーヤは心が温かく、くすぐったくなったのを感じた。しかし「素敵な秘密を教えてくれてありがとう」と言ってからアーヤは筆舌に尽くしがたい微弱な恐怖が暖かさに隠れて心の中にあることを認識した。


 この頃、アーヤ・サラクスとしての時間がアーヤの中で存在感を増して、本物のアーヤとの境界線を踏み越えようとしてきていた。


 ローザにいるアーヤがアーヤ・レイアだ。アーヤ・サラクスは作り物。それなのに、本物を脅かすほどの怪物だ。



 夜と共にゼンナンがやってきた。彼の胸ポケットにはレーレイがささっていた。闇の中で咲く花は、明るい室内で闇を知らずにわれた瓶にさされたアーヤの花の何倍も美しく、綺麗に見えた。招待状だというそれを瓶から抜き取って、アーヤは窓へ寄った。


「ドレスなんてないんだけど」


 開口一番にそう言ったアーヤにゼンナンは「何を言ってるんだ?」と言いたげな顔をした。そして、何かに思い当たったように片手で頭を押さえた。


「あー、伝えてなかったわ。花一本組は忍び込めるだけだから」


 首をかしげたアーヤに、ゼンナンは面倒くさそうに説明した。


 曰く、レーレイの花の数でパーティーでの権利が変わってくるようで、

 四本の人は席があり、お酒も出る。

 三本の人は立食パーティー式で、お酒はなし。

 二本の人は食事はできないが、会場に立ち入れる。

 そして、一本の人は屋根裏やマジックミラーの裏などに行くことができ、様子を見れる。


「目的によって何本の権利を得るのが一番いいか変わってくる。今回は一本がベストだな」


 ゼンナンは何のためにアーヤをパーティーに呼んだのだろうか、とアーヤは考えた。ゼンナンがアーヤに用事があったというのも驚きだし、なぜなのかがわからない。


「ぼけっとしてないで早く行くぞ」

「ここから近いの?」

「そういや、それも言ってなかったな。この花に魔力流し込めば着く」


 アーヤはゼンナンの言葉の理解に苦しんだ。転移魔術はアーヤの星のかけらあってこそのもので、普通はできないはずなのに、人の集まるパーティーの招待状についているなんて。


 そんなアーヤをお構いなしに、ゼンナンは自分のポケットからレーレイ手に取って魔力を込めた。訳の分からないパーティー会場で一人になるのはいただけない。ゼンナンを見失うわけにはいかないと、アーヤもレーレイに魔力をこめて後を追う。レーレイの花から吹き出した黄色い煙のようなものに目をつぶると、次に目を開けた時にはアーヤの家ではなかった。


 一枚の薄いガラスを隔てた向こう側は、シャンデリアが煌びやかに照らすパーティー会場だった。白いテーブルクロスのかかった長いテーブルの上には、湯気の上がっている焼きたてのステーキやグラタンもあるし、何種類ものケーキやパフェもある。すみの方にはアーヤも買ったことのあるゼリービーンズも置かれている。


 集まった人たちは仮面をつけたりベールをかぶっていたり顔を隠していた。


 アーヤの周りには、誰もいない。ゼンナンがいないどころか人が一人もいないのだ。パーティー会場の明かりで照らされていて、あたりを見ることはできる。しかし、こちら側にはだだっ広い空間があるにもかかわらず、闇を照らすライトも、家具も、外へ繋がる窓も、壁さえもない。夜空に浮かぶ雨雲に吸い込まれてしまったかのような錯覚を受ける。


 この後どうすればいいのだろうと思っていた時、アーヤの耳に聞き馴染みのある声が聞こえてきた。声のする方を見ると、紫のドレスに黒いベールを被った女と、グレーのタキシードに口元以外を覆い隠す黒い仮面をつけた男が話していた。


 まさかこの二人がパーティーに来ているとは思わなかった。任務の一貫なのだろうとアーヤは思った。女の方は同僚の土の使い手メイ・サンリュ。男の方は、ローザを取り仕切っているサンライン王国の王である。


「――も、君のおかげでもう少しだよ」

「ようやくですね」


 王はいつもローザの集まりで見せる人あたりの良さがなく、腹黒い部分が全面に出ていた。メイも、アーヤに発明品を渡してくるときの明るさはなかった。


「必ずあるべき姿に戻してみせる。偽物には用はない」

「しかし、それにしては手を広げすぎではないですか?」

「この世にいる間違った者に狂わされた人々を救う国だ。『あるべき姿』だろう」


 ゆったり、どっしり、お腹に響くような声だ。


「そういうことにしておきましょうか」


 クスクスと笑うようにメイが言った。王は「そういうことにしておけ」とずれた仮面を直しながら笑った。


「気づかないうちに貢献している彼女らはどう思うだろうね。――まあ、何を思われても関係ないけれど」

「どうでしょうね。この花を私が作れたのもあの子の魔法陣のおかげですし、テルノルト様の思惑通りにローガンの村で動きましたし、私は感謝してますよ」


 メイはいたって真面目に答えているようだったが、その真面目さが逆にわざとらしく聞こえる。王もそう思ったのだろうか。へぇそれはそれは、と口角を上げた。


「使い勝手がいいからな。あれは僕のほとんど思った通りの動きをしてくれる」

「テルノルト様の使い方がお上手なのでしょう」

「イエンディの奴と会議の時に話をつける。行動開始はその三日後の夜だ」

「私の方の準備はほぼ整っています。あとは彼があれを持ってくれば」


 メイは「あれ」と額を人差し指で叩いた。王は軽く頷くと、この話はおしまいだとばかりに料理の並ぶテーブルに目をやった。


「あれを食べた奴を覚えておけ」

「かしこまりました」


 アーヤは二人の会話を聞いたことを後悔した。気づいてはいけない何かを掴みかけてしまった。知ったら元に戻れない何かを知りかけている。心臓の音が耳元で鳴っているように聞こえた。全身の血管を血液が暴れて走り回っている。


 ローガンの村のローガンとは、フェイズ・ローガンのことだろうか。国境の、領主様の村。

 このレーレイの花が作れるようになった魔法陣は、もしかして――


 考えたくもないのに、頭は冷え切っていて次々に情報を鮮明にさせていく。


「目は覚めたか?」


 いつ現れたのだろう。ゼンナンがアーヤに声をかけた。目が覚めたかなんて聞くまでもないだろう。アーヤの目はしばらく前からまばたきを忘れている。


「今からお前に知ってもらう。いいか、目を背けるな」


 ゼンナンの目は、いつになく真剣で、面倒くさがる素振りを見せることもなかった。「知りたくない」とは言えなかった。耳を塞ぐことも逃げることもできなかった。


「お前がさっき見たあの男は、サンライン王国の王の影武者だ。本名はテルノルト・エル・ディオール。イエンディの王女様、前サンライン国王の正妃の息子だが、前王との血の繋がりはない。嫁ぐ前にできた子らしい」


 前国王は例外的に妾を認められていた。その理由は後継ができないからだと言われていたが、色々事情があったようだ。


「テルノルトは王位を乗っ取ろうとしている。そればかりか、帝国やイエンディ王国にも手を広げる用意をしている」


 アーヤは妙に澄んだ思考で、影武者のテルノルトがローザで仕切っているのを不思議に思った。あれは王の職務だ。しかも、現国王と血の繋がりは一切ないはずなのに、式典で見かけた王と変わらない姿だった。


 そこまで考えて、はっとアーヤは気がついた。

 メイはアーヤに、完璧な男装セットをくれた。


「現国王は護衛の他にローザを使っていないようだったから、お前が見てきた王のほとんどはあいつだ。今回お前らが帝国に飛ばされたのは、クーデターを起こす準備を国内でスムーズに進めるためだろう。まあ、帝国を堕とすことも視野に入れてるだろうが」


 それは、王国から目をそらさせ、あわよくば帝国を支配下に置くために、メイ以外のローザを帝国へ派遣したということだろうか。


「帝国内でテルノルトが仕組んでいる内部腐敗の罠が完成しつつあるし、それをお前らにうまく完成させようってのもあったみたいだ。フルノーレ・エジアンという名前に聞き覚えは?」


 アーヤはぎこちなく頷いた。


「それはテルノルトの使っている名前だ」


 村を作り始める前から関与していた、それも主導していたのはテルノルトだったのだ。エセリナンを使った麻薬も、たぶん帝国全土に広げた地下道も、バイオテロも。


「おおかたなんかの目的を達成したから処分したかったんだろう。お前らが処分にもっていくように誘導したんだな」


 あの国境村の一件は最初から最後まであの王の筋書き通りに進んでいたということか?


 それなら、なぜようやく会えた妹と殺し合うようなことをしなければならなかったのだろう。


 ローザが誰かに壊されそうだから守るために一生懸命になっていた。でももともとローザはアーヤが思っていたようなものじゃなかった。王が目的を達成するために使われて、内側から壊れていた。王の手の上で踊っていただけだった。


 村で幸せを夢見た人たちを殺すのも王の中では決まっていたことで、あんなにたくさんの人たちの人生が終わったというのに、それは単にアーヤを動かす時の背景でしかなかったということなのか。


 ピンポイントで役立つメイの発明品は、アーヤが使うとわかってのことだったのだ。そんなに最初から決まっていたことだったのだ。


「お前、処分するまでに――いや、今はいいか。とりあえず、テルノルトはクーデターを成功させる基盤を完璧に固めてきている」

「……それ、ほんとだって、証拠はない。あなたが嘘をついているかもしれないじゃない!」


 その可能性が低いとわかりながらも言わずにはいられなかった。


 ローザでの居場所を守り、国に役立つことを人生にしていた。それが全てだった。きっと知らない間に悪事にも加担していた。今までやってきたことが否定されたらアーヤには何も残らなくなるためにしまう。


 だから、どうか嘘でありますようにと願う。黄色い煙を見て目をつぶった時点で本当は眠っていて、明日の朝起きたら布団の中にいて、嫌な夢だったと言ってココアを飲んでいたい。


「俺は、サンライン王国の王族の末端に名を連ねていた。前々国王の三番目の息子の子どもだ。だが、テルノルトの計画を偶然聞いてしまった。口封じに暗殺者を何度も送られたし、それが無理だとわかった頃には歳の離れた妹を人質にとられそうになった」


 ゼンナンは悔しそうに歯を食いしばった。


「あいつは、自分の目的のために人を手にかけることを躊躇しない。妹は殺された」


 その目は憎悪に燃えていた。金色の瞳が赤黒く染まったように見えるほどに。


「俺は、絶対にあいつの計画を壊す。そして、絶望したテルノルトを殺す」


 ゼンナンはシャツの胸元を握りしめて荒くなる息を整えた。


「家を出て暗殺者になったのは、暗殺されたことにしたからあいつの目が届かないようにするためでもあるが、あいつの計画を突き止めるのに便利だったからだ」


 たしかに暗殺者ならば、国家の秘密や貴族の人間関係などを知ることができるのはもちろんのこと、裏組織や悪事の世界を歩くことができる。


「星の使い手の力を借りたい。さっきの話でわかったかもしれないが、近いうちに計画は始動する。いや、すでに動いている」


 アーヤはこれ以上ゼンナンの話を聞きたくなかった。

 アーヤが見てきたものは結局幻想でしかなかった。アーヤもまた、偽物の楽園に囚われた一人だったのだ。しかし、それを直視できるほど簡単に受け入れられる話ではない。


「逃げるなよ? 偽物に縋って朽ちていく者の末路。嘲笑われて終わる人生。人の痛みに目をつぶり自分の世界に幻想を抱く虚しさ。もともと世界はそういうものだ。でも、それが全てじゃないのがこの世界だ」


 ゼンナンの言葉はアーヤを射抜く。真っ直ぐに。


「テルノルトの世界は居心地の良い世界かもしれない。だが、それが違うことくらいわかるだろ」


 アーヤが思い出すのは、学園でアーヤ・サラクスとしと過ごした時間。ルークやグレンたちと力を合わせた時間。どこまでテルノルトが作ったストーリーなのかはわからない。どこまで偽物であるかはわからない。それでも、たしかにその中に本物があった。偽物の楽園に勝る本物の時間が。


 現実から目を背ければ息苦しさはなくなるだろう。エイミーと話した後に感じた微弱な恐怖。アーヤの中に紛れ込んできたアーヤ・サラクスは、既にアーヤの一部だった。


 いくつの楽園を壊してきたのかわからない。見ないふりができなくなるほど知ってしまったことは、本当はもうわかっていた。


 だから、あの村に救いを求めた人たちの、人を救ったと信じた人の、王が、いや自分が奪った人生を弔うために、この偽物の楽園を終わらせる。


 罪悪感から逃げるためかもしれない。せめてもの償いをして許されたいのかもしれない。でも、ローザでない生き方を選択するなら、目を背けてはいけないことだ。

 楽園に囚われた人生に決着をつけよう。



「――終わらせる。わたしを外へ連れてって」



 楽園の外に。


 ゼンナンは満足げに笑い、アーヤの頭に手を置いた。


「ようやくか。任せとけ」




 日付が変わってしばらくした後、アーヤとゼンナンはパーティー会場から出てきた。レーレイの花の茎を折るともといた場所に戻ってこれる仕組みのようで、行きと同じような煙が出た。


「テルノルトの計画はあまりにもでかい。時間もない。信頼できるやつをできるだけ仲間に引き入れろ」


 ゼンナンは「また来る」と言って前と同じように窓から外へ消えた。

 恐怖と未練と決意。それと、かすかな希望がぐるぐるとアーヤの頭を掻き回していた。


 ローザを捨てることにはまだ迷いがあった。しかし、テルノルトが仕組んできたことを知ってしまった以上、計画を成功させてはならないという思いは固くなった。

 グレンは謎解きの続きだと言えばまた協力してくれるだろうかとアーヤは考えた。ローザを壊そうとする人がローザのまとめ役だったと知ったらどちらを選ぶのだろうか。


 村でのことを思い出していたアーヤはテルノルトが使っていた名前を呟いていた。

「……フルノーレ・エジアン」

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