第18話
薬学の授業を終えて昼ごはんを食べに食堂へ向かうクラスメイトたちを見送り、アーヤは学園の庭園へ出てきた。一昨日、本来の任務を果たすために『影』で[ホール]と検索をかけ情報がないか探ったところ、学園の庭園には抜け道が隠されていてその先に一つの部屋があるということがわかった。ホールの管理をする宰相が出入りする様子が見えたのだ。
ようやく今日の昼に時間ができた。周りに人がいないことを確認し、建物の陰で『影』を纏った。
記憶を頼りに庭園の隅へ向かって、生い茂った蔦の特に色が薄いものを三回軽く引っ張った。すると、きつく絡まり合っていた蔦は緩く解け、人が一人通れるか通れないかの隙間ができた。そこが部屋へ繋がる抜け道の入り口だ。小柄なアーヤの体はするりと簡単に通り抜けられた。内側から蔦を四回引っ張って元の状態に戻し、奥へと進む。植物のトンネルのようになっていて秘密基地へ行くような気持ちになった。
たどり着いた部屋は書庫のようなところだった。小さな部屋の壁は全て本棚で、ぎっしり本が詰まっていた。中央には一人用の丸テーブルと椅子があり、ここにこもって読書をしたらとても素敵だとアーヤは思った。この小さな書庫は本の香りが植物の香りと合わさってとても落ち着く。
アーヤは本棚をぐるりと見渡し、身に纏っていた『影』を薄く大きく広げて部屋を覆った。帳簿をインストールした時と同じように内容を取り込ませたのだ。ただ、ここまで蔵書数が多いとその全ての内容を取り込むことはできない。薄く広く情報を掬い上げ、ホールに関する内容があるものを見つけ出すのが目的だ。
『影』がアーヤに教えたのは二つの本だった。一つはこの書庫で一番大きい本で、唯一飾り棚に表紙が見えるようにして置かれている。しっとりとした皮の表紙にいくつもの宝石が散りばめられた豪華なものだ。もう一つはこの書庫で一番使い古された本で、もともと白かったであろう表紙は黄色くなっている。
アーヤはまず皮の表紙の方の本を見ることにした。大きく分厚い本自体の重みに煌びやかな装飾の重みが加わっていて手に持ったまま扱うのは無理だと判断したアーヤは、備え付けられていた木のテーブルに本を置いて表紙をめくった。
「ん?」
予想していなかった中身にアーヤは目をこすり、もう一度見た。しかし目をこすり何度見直しても最初に見た時と何も変わらなかったため、ページをぱらぱらとめくる。
どのページにも何も書かれていない。白紙だった。
強いて言えばページ番号は振られているのだが、それだけである。試しに『影』に単独でインストールさせてみたが、『インストール不可』と念が送られてくるだけだった。内容を確認することができないために選別できず『影』の検索に引っかかってしまったのだろうかと考えてアーヤは本を棚に戻した。もしかしたら本当に飾りのためだけにあるものなのかもしれない。
気を取り直してもう一つの本を手に取った。こちらは両手を合わせたくらいの大きさでとても軽い。本棚から抜き取って本を広げた。真ん中あたりのページを適当に開いたが、文字でびっしりと埋まっている。よかった今度はしっかり文字が書かれているようだ、と思った時だった。
小さな文字の一つ一つがチカチカと白い光を発した。見開きに千ほどあるものがばらばらのタイミングで光ったり消えたりするのでクラクラとしてくる。更には光る文字が本の上を不規則に動き回り始めるではないか。
ようやく動きをやめて落ち着いた文字たちを見れば、ぐちゃぐちゃに並び変わった文字の中でいくつかの文字が僅かに光っていた。
『ふつかごきろにたつかつとうはちからなり』
光った文字だけを右から順に追えば、そんな文ができた。ただ、よく見ると左ページは文字が鏡文字になっている。この本元に戻るだろうかとアーヤは本気で心配した。
「……二日後帰路に立つ、葛藤は力なり?」
アーヤはこの不思議体験はカーレンが喜びそうな案件だと思い、次に会った時に教えてあげようとページを正確に再現できるように読み込んだ。文字があったのは右ページの一、六、七、十、十一、十二、十六、十七、十八、十九行目にそれぞれ一文字ずつ。左ページは二、三、四、五、八、九、十三、十四、十五行目に一文字ずつある。光っている文字はどの行も上から二番目の位置にあって、光っていない文字はどう頑張っても規則性が見当たらない。
それから、よく見るとおかしいのはそれだけではなく、百ページ目あたりの分厚さのはずなのにページ数が七百三十八ページと七百三十九ページだった。
アーヤは穴が開くほどそのページを見つめて、すっかり記憶ができた後本を一度閉じた。そしてもう一度本を開く。しかし、もう文字が光ることはなく、動くこともなかった。内容は帝国の妖精物語になっている。
「……そろそろ自由時間が終わっちゃうかな」
結局ホールに関することは掴めないままだった。午後の授業を無断欠席するわけにはいかないので、またホールについて調べなくてはと思いながら草木のトンネルを潜り学園の庭園に戻ってきた。建物の陰で『影』をとり、校内に戻ろうと渡り廊下に上がった時、廊下の柱にもたれかかるように立っていたラファイエと目があった。
「ねえ、ちょっといい?」
ラファイエは腕を組んで厳しい目をアーヤに向けている。ただならぬ威圧感にアーヤは危機感を覚えた。
「学園の庭で何をしていたの?」
まさか見られていたのだろうか。いや、アーヤは『影』をかぶっていたから見えなかったはずだ。
「気晴らしに散歩をしていました」
「そう。君の家では散歩の時に姿を隠す習慣があるんだね」
アーヤはラファイエの言葉に脈が早くなる。『影』がばれているのだろうか。動揺しているのを悟られないように表情筋に力を入れる。
「なんの話をしていらっしゃるのです?」
ラファイエは目を細め、組んでいた腕を下ろした。学園指定のブレザーのポケットに入れていた小さな手帳を取り出してパラパラとページをめくる。
「アーヤ・サラクス、十七歳。ザグナン家の分家の一つで、病弱な体質により学園編入までのほとんどの時間を室内で過ごしている。両親は既に他界。社交界に出ていないことから学園編入まで顔を知る者はゼロに近い」
手帳に書いてあるのだろうアーヤの情報を、ラファイエはスラスラと読み上げていく。その内容は任務時に与えられた設定のままである。
「新学期前日にリンエイ家から君に注意するようにという報告が上がった。敵国からのスパイの疑いがあるとね」
アーヤはどくどくとうるさい心臓の音から意識を背け、ラファイエの視線を受け止めた。
「それならとりあえず僕の目の届くところにいてもらおうと代表生徒会に誘ったのに入ってくれないし、調べても変なところはないし、行動も普通だったからリンエイ家の忠告は杞憂だったと判断した。ひとまずはね」
ラファイエがアーヤを事あるごとに代表生徒会に誘ったのは気まぐれなんかではない。それはそうだ。全てそういう理由があってのことだったのだ。
「でもねぇ、学園に怪しいものがうろついていたんだよね。まあ僕が壊しちゃったんだけど。――さっき君が身につけていたものだよ。なんのことかわかるでしょ?」
『影』のことだ。学園に忍ばせた『影』が壊されたのはラファイエによるものだったようだ。たしかに『影』は認識されにくくなっているだけで注意深く見れば見える。『影』を身に纏ったアーヤの姿は鋭い観察眼をもつラファイエには見えていたのだった。
「もう一度問う。――君は庭園で何をしていた?」
いつもふわふわとしているラファイエの厳しい一面は免疫がないだけに心臓に悪い。冷や汗が首筋を伝った。
「……殿下。先ほど申し上げましたとおり私は散歩をしておりました」
「何を言うかと思えば。笑わせないでくれるかな?」
「私が病気によって屋敷に閉じこもった生活を送っていたことは殿下もご存知のようでしたね」
「それがどうかしたか」
「殿下の持つ情報は一つ欠けております。……私が屋敷にいる間ただ寝転がっていたわけではないということです」
ラファイエは片眉を上げた。アーヤは多少無理のある誤魔化しで強行突破すべく瀕死状態の表情筋にいっそう力をこめた。
「私はベッドの中で大好きな魔術を研究しておりました。幸い生前に父が残した研究書がいくつも家に転がっておりましたから暇になることはございませんでした」
アーヤは魔法陣を一つ胸の前に展開させ、余裕を見せるようにラファイエに微笑みかけた。魔法陣から光でできた鎖が出てくる。発光しながら宙を舞った鎖は天を泳ぐ龍のようにも見えた。
この鎖はアーヤが一般魔術を勝手に応用して作ったものだ。鎖は魔術を封印する物として知られていて、魔術で創り上げることはされてこなかった。鎖と魔術の相性が悪いのか魔術の定着も悪く長時間形を保てないことも理由だった。しかし、少し構造をいじることでその問題を解決したアーヤは光の鎖を使うことができるようになった。この光の鎖は使い勝手もそこそこいいのでアーヤは攻撃対象の拘束などで重宝していた。
「たとえばこの光の鎖。私が研究して編み出した物です」
「へえ、それか」
「殿下がおっしゃった黒いものは他人からの認識を阻害する魔術です。この光の鎖と同様に研究しておりました。屋敷から出してもらえないと外へ抜け出したくなるもので」
ラファイエは光の鎖を真剣見つめていた。
「認識阻害がどこまで通用するのか学園で試していたものを殿下が見つけてしまったのでしょう。どこへ消えてしまったのかと不思議に思っていたのです」
「先ほどそれを身につけて歩いていたのは実験の一環だったということか」
「その通りです」
最初にアーヤに向けた厳しい目は消えたが、簡単に納得することもできないのだろう。難しい表情は崩れない。だが、「尋問のような真似をしてすまなかったね。勘違いされるような行為は控えてくれ」と言って立ち去っていった。
ラファイエが廊下の角を曲がって見えなくなると、大きく息を吐き出した。それまで溜め込んでいた緊張を呼吸で外に出す。
それにしてもラファイエの勘は侮れないないなとアーヤは思った。その鋭さは王の器にふさわしいと言えた。こうなると任務をもっと慎重に行わねばと反省して、アーヤは午後の授業をする教室へ急いで歩いた。
午後の薬学の授業は実験の日だった。今日は材料の関係からか二人一組で行うらしい。アーヤが教室に着く頃にはほとんど席が埋まっていて、アーヤは後ろの空いていた席に座った。
「アーヤちゃん、だよね? 隣の席いいかな?」
アーヤよりも後に教室に駆け込んできた女の子が教室の空席を探して、アーヤに声をかけた。
「もちろんいいよ」
「ありがとう! エイミー・ツトムスです」
安心したように笑顔を浮かべたエイミーの栗色の髪は寝癖がついていた。よく見るとブレザーのボタンも一つ掛け違えている。エイミーに笑顔を返して、それに気がついたアーヤは教えてあげるべきか悩んだ。
少なくともブレザーのボタンのことは言った方がいいよね、とアーヤは思ったが、ちょうど薬学のノンモク教授が教室へ入ってきて授業が始まってしまった。実験が始まったら教えてあげようと決め、実験の説明をする教授の話を聞く。熱心にノートをとるアーヤをちらちらと気にしていたエイミーはあることに気が付き椅子を少し近づけ、髪を耳にかけて横目でアーヤを見た。そして意を決したようにスカートの裾を握って話しかけた。
「アーヤちゃん、アーヤちゃん」
「どうしたの?」
エイミーは「ここで間違えると別物になるから気をつけるように」と力強く言うノンモグ教授の方をちらりと見てからアーヤに顔を寄せた。
「髪の毛のここのとこ、葉っぱついてるよ」
エイミーは自分の耳の少し上のところを人差し指でとんとんとしてアーヤに見せる。アーヤが自分の頭のそこに手をやれば、小ぶりの葉っぱがひらりと落ちた。植物トンネルを潜っていた時についたのかなとアーヤは葉っぱを見て思った。そして、逆にエイミーに指摘されたことに気まずさを覚えながらも「エイミーちゃん、ブレザーのボタン……」と言った。
「わ、掛け違えてる! 教えてくれてありがとう」
「こちらこそありがとう」
「お昼寝してたら自由時間ギリギリになっちゃって」
ボタンをかけながらエイミーははにかんでそう言った。
薬学の実験は学生でも手に入れやすい薬草を調合したり、既成の薬品を分離させたりなどを行う。今日は腫れをひかせる塗り薬の調合だった。
「じゃあ私はこれすり潰しちゃうね!」
実験が始まってすぐにエイミーがノニの葉をすり鉢に入れた。それは確か液体状になった最後に入れて溶かすやつではないかとアーヤはエイミーがすり潰そうとするのを間一髪で止めた。
「まってまって! それ先すり潰しちゃうとたぶん風邪薬になるよ」
「え、風邪薬じゃ腫れは引かない……よね?」
「疑問系になる部分じゃないよね⁉︎ 風邪薬は風邪にしか効かないよ……」
エイミーが「あれ、もしかしたら風邪薬って万能なの?」と言いたげな顔で言うので、アーヤは思わず突っ込んだ。そんなわけはない。
「まず、ナサラト油とグツミの粉をよく混ぜます」
淡い橙色のサラサラとした油と白い粉を指さした。
「了解しましたアーヤ先生!」
エイミーは真面目くさった顔で片手を額に当てて敬礼のポーズをとった。アーヤは目をぱちぱちとしてエイミーを見た後、口角を上げた。こういうのも学生らしい、とアーヤは思ったのだ。先生らしく「では、やってみましょう!」と言ってグツミ粉の入ったお椀にナサラト油を静かに加えた。エイミーと交互にひたすら混ぜる。次第に混ざり合い、どういう原理か薄水色のとろみのある液体になった。
「次はこれ、ハマノの実。実の中にある種を取り除いて加えます」
「これおいしいよね!」
「これ食べられるの? ……食べたことあるの?」
エイミーは味を想像したのか目を輝かせてお腹を押さえた。ハマノの実は薬にはよく使われるが、果実として食すという習慣はない。エイミーはアーヤに教えてあげられることがあったのがよほど嬉しいのか得意げに話した。
「この実って、爽やかでほんのり甘みがあるの。どの家にも大抵生えているから食べたくなったらいつでも食べれるのもいいところだよね」
ハマノは降水が多くても少なくても育つし、実も葉も枝を煮詰めてできた煮汁も薬になるため、多くの庭に一本は植わっている。エイミーにとってはそれが食べ放題の状況に見えたらしい。
「……もしかして、風邪とかあまりひかない?」
「そう言われると病気になった記憶はあんまりないかも」
それがハマノの実を食べまくっているせいなのかはわからないが、もしかしたら病気の予防になるのかもしれない。研究する価値はあるかも、とアーヤは思った。
「種とっちゃうねー」
アーヤが研究したいことリストにハマノの実の病気予防効果についてを加えた。そして聞こえたエイミーの声に不安を感じて慌てて目を向ければ、エイミーはポケットからフォークを取り出している。
「――フォーク?」
ポケットからフォークが出てくることってあるのだろうか。ナイフとかならばわかるが、フォークで攻撃する人は見たことがないし、いやもしかしたらエイミーはフォークで戦闘するのかもしれないが。エイミーに毒されて思考がおかしな方向にいきそうになるのをなんとか抑えて、ピンセットを渡した。
「これでここのヘタのところをねじってまっすぐ引いてみて」
アーヤの言った通りにピンセットでヘタを引っ張ったエイミーは「すごい! 裏技!」と目を丸くしていた。別に裏技でもなんでもなく、ただの正攻法である。
ハマノの実を薄水色の液体に入れ、潰しながら混ぜる。立派に育った、エイミー曰くおいしそうな、ハマノの実は潰れると鼻に抜ける爽やかな香りを漂わせた。ハマノの実の工程にほとんどの人が同時に進んだので、薬学室はハマノの実の香りでいっぱいになった。教授は窓を開けて香りを外へ逃す。この香りは強すぎると喉や目がヒリヒリしてくるのだ。
「最後にノニの葉を溶かして完成!」
「初めて実験成功した! アーヤちゃんすごいね」
一度エイミーと共に実験をしたら、彼女が一人で実験を成功させている姿を想像することはなかなかできない。これからますます難しくなっていくのに大丈夫なのかとアーヤはエイミーの今後が気がかりだった。
「アーヤちゃん、面倒見がいいし本当に先生向いているかもね」
初めてそんなことを言われたなとアーヤは思った。こんなに短い時間でアーヤのどこを面倒見がいいと思ったのかはわからないが、エイミーは「もし私が留年したらアーヤ先生に教えてもらえるかな!」と冗談に聞こえない冗談を言っている。アーヤは、もし年齢を重ねた後にまた学園に潜入調査することになったら今度は学生ではなく先生として潜り込むこともあるのかもしれないと思った。その時に留年したエイミーがいたとしたら相当な問題児として学園の歴史に名を残しているだろうなと想像して苦笑した。
道具を片づけ終わりハマノの実の香りも教室から消えたところでノンモク教授が話し始めた。
「どのペアも成功したようで何よりだ」
ノンモク教授がエイミーの方を見て言ったように見えたのは気のせいではないだろう。
「調合についてまとめたレポートを次の薬学の授業で提出するように」
そう言って授業を締めたノンモク教授は、使い古した自身の教科書と授業メモを右手で抱えて教室から出て行った。いつ見てもシワひとつない白衣と年季の入った教科書からは、教授の几帳面でこだわりのある性格がうかがえた。
荷物をまとめて帰ろうとしたアーヤをエイミーが引き留めた。
「明日一緒にお昼ごはん食べようよ!」
エイミーの誘いはとても魅力的だった。アーヤはエイミーの明るく裏表のなさそうなところを好ましく思っていたし、眩しくも思っていた。そして、任務の協力者たちや同僚たちとは築けない、気負わずにいられる関係に居心地の良さも感じていた。
「エイミーちゃんとご飯食べるの、楽しみにしているね」
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