第5話
学園から帰宅していたとき、アーヤの影に紛れ込ませていた『影』が急にビクッと体を震わせた。足元からそれを感じ取ったアーヤは、『何があったの』と念を送った。すると『影』から返ってきたのは『最も東のワレが主人を忘れた』というアーヤにもよくわからないものだった。
最も東に送った『影』は、つい昨日国境に送った鳥だ。空を飛べるあの『影』は今朝にはすでに国境についているだろう。
『影』はどのような形にしても、星のかけらから生まれたアーヤと五感を共有する物を全て『影』と認識しそれら全てをワレと呼ぶ。彼らはいくつ生み出されても自分たちを一つと認識するようだった。
主人を忘れるとはどういうことか、とアーヤは考えた。
確かに、どう念じてもあの鳥を模した『影』と視覚を共有することはできなかった。接続が意図せず消えたのは『影』を初めて生み出して加減がわからなかったあの時だけである。『影』の寿命で存在が消えると無意識にそれが分かるし、何らかの衝撃で壊れたりするとその痛みはアーヤにも同じものがくる。アーヤを忘れた『影』は一体どうなったのか。
考えてもわかることではなかった。それでも確かに言えることは国境は確実に異変が生じているということであった。
アーヤは東の端にここ十数年で新たにできた村へ自ら調査をしに行くことにした。国境付近で人がいそうな場所はこの村くらいだ。
国境でいったい何が起きているというのだろう。『影』が国境へ送れない。この今まで経験したことのない事態から目を背けることはできなかった。いつ自分の任務に『影』を使えなくなるかわからないのだから。それに、うまくいけば任務の役に立つかもしれない。
原因を確実に知るためにはアーヤが直接国境へ行くしかない。
移動は星のかけらを液体状にしたもので転移の魔法陣を描く。転移魔法陣は座標を明確にしなければならないし、一度に転移できるのはアーヤ六人分の重さのもののみ。だが、座標さえわかれば地上のあらゆるところに一瞬で行ける。
アーヤが座れるくらいの大きさの紙を二枚取り出し、行き帰りの分それぞれの魔法陣を描いた。
日が沈む前には帰ってきたはずなのに、描き終わる頃にはすっかり月が姿を見せていた。
アーヤは伸びをして、偶然目に入った昨日の夜の飲みかけのココアを飲んだ。そうして山奥のアーヤの家から持ってきていた、土の使い手メイにしばらく前に押し付けられた袋を引っ張り出した。まさかこれが役立つなんてなあ、と思いながら袋を開ける。
そこに入っているのはアーヤの背丈にあった男の子用の服一式と、茶色のカツラ。それと袋の底にはメモが一枚。
『瞳の色は自分で変えてね』
何が書かれているかと思えばそんなことだった。
メイはこの袋に『どこにでもいる少年になりたいあなたのための平凡な街の男の子セット』と名前をつけていると言いながら渡してきたな、とメイの丸みを帯びた文字を見て思い出してアーヤは苦笑いをした。
翌日、少年姿になったアーヤは『影』を影から呼び、腰の曲がったお爺さんに姿を変えさせた。
「ワレ、ワカイ」と文句を言われたが気にしない。
昨日描いた魔法陣の上に立ち、ペンのサイズの小型ナイフで親指を傷つけて血を一滴垂らした。その瞬間、魔法陣が水色の霧のようなものを発生させる。
瞬きする暇もなく、アーヤとお爺さんに変えられた影は積み上がった落ち葉の上に、落ちた。
「着地失敗……?」
アーヤが着地に失敗するのは百回に一回あるかないかである。
「あなたは今日、話すことが辛くなったおじいさん。わたしたちは国境を目指して歩いてきた田舎者」
落ち葉を払いながらアーヤは『影』に説明した。
「ワレ、ハナサナイ」
「その通り」
アーヤが指定した転移場所は村のそばの森と道の境目から森に一歩入ったところ。
ここから村の入り口へ行く。
急に村の中に現れたら怪しいものであることが丸わかりであるから。
村へ入るための門は見張りもおらず、大きく開いたままだった。できて一日目の集落でもそうとうな安全が保証できない限りは見張りの一人くらいいるものだが、ここは普段から見張りをつけてないのだろうか。
アーヤはいつもより少し歩幅を大きくして猫背気味に歩く。
村の中はそこらの街と比べても劣ることのないしっかりとしたつくりで、下手したら学術都市でアーヤの住んでいる家よりも立派なのではないかというものもちらほら見られる。開拓した人の中に建築士あたりの職を持っていた人がいたのだろうとアーヤは感心しながら見回した。
「おい坊主」
村の人が見当たらないことにそろそろ不安を感じていた時、声をかけられた。ガタイがよく血の気の多そうな若者だ。
「こんにちは」
余所者は出て行けとでも言われるのだろうかと焦っていたが、「おう。……坊主はどっから来たんだ?」とどうやら代表生徒会メンバーよりも平和に会話ができそうであった。
「ここから北上して二日ほどのロンガンの集落の一つからです」
ロンガンとは、沢山の極小集落がある森で、帝国で一番国の管理が届いていないところだ。身元を探られてもわかる人は実際にロンガンに住む者くらいだろう。いや、住む者でもわからないかもしれない。未だ知られていない集落もとても多いのだから。
「田舎から逃げ出してきたか!」
豪快に笑いながらアーヤの背中をバシッとたたく。青年はアーヤを勇気ある家出少年と思ったらしかった。
「名前は?」
「アールノーだよ」
アーヤは答えた。必死に標準語を学んだ少年らしい言い方で、若干片言に。設定を作り込んでしまったのはメイが本格的に用意していたあの袋のせいかもしれない。
「そうか。アールノー、招かれろ!」
青年はがしっとアーヤの腕を掴んで自身の家に連れて行った。これが都会で、アーヤが普段の女の子の装いだったら誘拐事件として通報されそうな絵面だ。
アーヤを家に連れて行くと、青年は「長旅だったろ。遠慮なく食え」と肉やら野菜やら果実やらを引っ張り出してアーヤの目の前に置いた。
長旅だった家出少年ならば、ガツガツと出されたものを食べるに違いない。アーヤは焼きたてほやほやの肉にかじりついた。なかなか噛みきれないが、頑張って肉を引っ張ると口の中に程よい香辛料の香りと肉の旨味が広がった。食べ慣れない肉に胃もたれしそうになり、果実を食べる。
「――美味しい」
みずみずしく、分厚い果肉はとても甘い。
「そうか!」青年は嬉しそうに言った。
「村、静かだね」
二つほど果実を食べたあと、ふと気になったという態度でアーヤは世間話を始めた。
「今は領主様の初狩猟してるんだ。みんな見に行ってんだろうな」
「行かなくてよかったんだ?」
「俺はついこの間ここにきたばかりのもんだ。古参の方に混じるなんてとんでもないことだろ!」
青年はとんでもないとんでもない、と手を振る。余所者に厳しいのかと思い聞いてみたが、今度もまた、とんでもないといった表情をした。
「ん? 領主様さえ許せば誰でも家をもらえるんだぞ? やさしーだろ」
「家がもらえるの⁉︎」
家を簡単に与えてもらえる村、というのはとてもなかなかない。どの家も立派だったから、あれがもらえるなら帝都にいる貧民たちはここにこぞって訪れるだろう。
「領主様の手にかかりゃあポンと出てくるからな」
「領主様って魔術師なの? すごいね!」
彼の話は俄かに信じ難い。その領主様とやらは何者なのだろうか。話を聞くに魔術師なのかと思って尋ねたのだが、青年は首を傾げた。
「魔術師?」
「違うの?」
青年は真面目な顔で言った。
「領主様は神の使いなんだ」
「人じゃないの?」
「人だろ。ただなぁ、神々しいあのお姿は人の代のものとは思えんよな」
怪しい宗教に勧誘されて洗脳されてしまった人のようなセリフである。アーヤは「すごいんだねぇ」と言うしかなかった。
「すごいだろう? いつか一国の王となるんだろうな」
夢見心地に語る男をアーヤはじっと見つめた。
「そういえばアールノーはこの後どうするんだ?」
「ぼくはこのまま国境へ行くよ。兄さんを追いかけているの」
「それならこれ食べたらもういきな」
急に招いたくせに、さっさと追い出そうとする。その理由がよくわからなくて、アーヤは少し粘ってみた。
「今日久しぶりに人のいる村に来れたんだ。少し村を見てからじゃダメ?」
「村を見ているうちに領主様がお帰りになられる」
「領主様は皆を守る。命を捨てに行くやつは意地でも引き止めるだろうよ」
青年はそれまで上機嫌に語っていた時とは打って変わってアーヤを厳しく見つめた。
「国境は危ないとこなの?」
「国境のあたりは領主様の守りも届かないからな。王国が邪魔してるんだと古いやつは言っていたが俺は難しいことはわかんねー。だが足を踏み入れたら呪いが染みついて七日以内に死ぬんだ」
「まさか!」
少年らしくそう叫べば、青年は食い気味に「あるさ」と言った。人も呪われるということだろうか。呪いの子の噂は作り話だと思っていた。
「兄さんがもう行ったんだけど……」
アールノーという人物の兄は王国へ行こうとした設定である。サンライン王国は移民・難民の受け入れに比較的寛容だった。追い返さないというだけのことだったが、たいていの国が門前払いのためサンライン王国には多くの移民・難民が流れてきていた。
「坊主。お前はここで暮らしたいと思わないか?」
「ここで?」
この人さっきまで追い出そうとしていたのに、とアーヤは思った。
「ここなら家だって食べ物だって困らねぇ。領主様の奇跡だってもらえる」
「奇跡?」
返ってきたのはものすごく怪しい勧誘文句だった。
「神に近づく」
というか神に近づくって死ぬということではないのか、とアーヤは思った。
「……ぼくは兄さんのところへ行くよ」
住むことはできないし。
「そうか。……俺が坊主の覚悟を否定する資格はねぇ。ただな、アールノー。子どもを死地におくる大人の気持ちを考えてみろ」
「でも……」
男は戸棚をいじり何かを探していた。その間にアーヤはお皿に余った小さな果実とお肉の半分を腰の袋へ入れた。
「これをやる」
「これは?」
「奇跡だ」
青年は黄色い豆のようなものを一粒アーヤに手渡した。
「呪いに効くかはわからんが、お前を強くするのは間違いない」
奇跡というのは、薬の類なのだろうかと考えていると、青年は妙に細かい注意事項を言った。
「この村をでて国境の方へしばらく歩いた森の途切れるところを見つけたら飲むんだ」
「どうしてそこ?」
「継続的に使わなきゃ意味がないのさ。直前に取り入れた方が効果は期待できるだろ」
どういう仕組みなのかはわからないがこの村の秘伝のものか。いや、この村ができたのは最近だからやはり領主様とやらの知識でできたものかもしれない。
「貴重なものなのにありがとうございます」
「なに、気にすることはない。――じゃ、領主様が来る前に行くんだな」
「お世話になりました」
涙をこらえるように強がる様子は本当に死地に送り出す者の姿だった。
「……また、くればいい。待ってるぞ!」
アーヤは門をまたくぐり、国境の方へ行く道を歩いた。
そして門から完全に姿が見えなくなったことを確認して『影』を生み出し、体を包ませた。これでアーヤは外から認識されにくくなる。アーヤそのものが『影』に一体化され、そこに居るのに別世界に隔離されているような状態になるようだ。
そこでアーヤは気がついた。
お爺さんにした『影』の存在をすっかり忘れていたことに。
どこから一緒に居なかったのか、どうして忘れていたのか、なぜ今思い出したのか。
とにかく村へ戻ろうとアーヤは今歩いて来た道を走った。
先ほどの青年は領主様を崇めるように語っていたが、領主様とは、どのような人物なのだろう。村長ではなく領主様という呼び方や、家をほいほい作ることができるという能力、奇跡という不思議な豆の存在。とても普通の村をとは言いがたかった。
何より、アーヤが『影』を忘れるなど異常事態だ。五感を共有するアーヤと『影』は、離れていてもお互いの存在を常に感じている。それなのに存在そのものを忘れるとは。
あの村には何かある。ほぼ確信に近い思いを抱いた。
アーヤがそれに気づけたのが外界から切り離された『影』の中に来たからだとすれば、あの村の空間そのものがおかしいことになる。魔術の類か。
再び門を潜ると、そこは人で溢れていた。人がいなかったのが嘘のように。
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