第139話 巨大蛾

 俺は転移魔法を使い、単身で巨大蛾の上へと飛んだ。


「何だ、この禍々しい瘴気は……」


 思わず顔を顰める。

 巨大蛾の全身から立ち昇るのは、瘴気――――澱んだ魔力だ。

 それが鱗粉に纏わりながら地上へと降り注ぎ、瞬く間に大森林の木々を枯らしているのである。


 俺のことなど羽虫程度にしか思っていないのか、無視して悠々と飛んでいく。

 しかしその進行方向にはエルフの里があるので、早くしないと里にまで甚大な被害が出そうだ。この鱗粉を人間が浴びたらどうなるか分からないしな。


「物理攻撃はやりたくないし……」


 下手にグロテスクな死体が残るような倒し方はしたくないので、火魔法で一気に焼き尽くしてやることにした。

 ただし森が燃えないよう、俺はまず巨大蛾を閉じ込める形で巨大な結界を展開させた。


 その上で、


「〈|地獄ノ業火(ブリムストーン)〉」


 結界内部に放ったのは超級の火魔法である。

 一瞬にして巨大蛾が凄まじい炎に包み込まれた。

 ちなみに俺は〈結界魔法・極〉を持っているため、超級魔法でもこの結界を破ることはできない。


『~~~~~~~~~~~~~~~ッ!?』


 炎の中で暴れる巨大蛾。


「おいおい、マジかよ」


 信じられないことに、火達磨と化してもまだしぶとく生きていた。

 結界を破って逃げようと、何度も体当たりをかましている。


「神級魔法――〈大罪浄化ス煉獄ノ炎〉」


 ならばと俺は、最上位の火魔法をぶっ放した。

 炎の大瀑布が巨大蛾を襲う。

 その圧力で結界が軋み、破られそうになったが、どうにか堪えた。


 やがて炎が収まると、そこには大量の灰だけが残っていた。

 だがそれでも未だに膨大な瘴気を漂わせている。


「……さすがにその辺に捨てるわけにはいかないだろうな」


 仕方がなく〈無限収納〉で収納しておくことにした。






 すでに汚染されてしまった大樹や森の木々を浄化するのに、ルシーファが役に立った。

 天力を使えば、比較的簡単に瘴気を取り除くことができたのである。


「ティラ様のためなら何だってしますわぁぁぁっ!」

「……いつの間に戻ってきたんですか?」


 天界の監獄に飛ばしたはずだったんだけどな。


 まぁお陰で助かった。

 巨大蛾が死んでも瘴気は消えず、汚染は拡大し続けていた。

 俺のスキルでも何とかできなくはなかったが、たぶんかなり時間がかかっただろう。


 それから俺たちはリシェルとアーシェラが必要としていた素材を一緒に採取してから、エルフの里へと戻った。


「それにしてもあれは一体、何だったのでしょうか? 普通の魔物とは違うように見えましたが……」


 と、ティラ。


 俺も同意見だった。

 あんなタイプの魔物に遭遇したのは初めてだ。


「ナビ子さん?」

『……申し訳ありません。わたくしにも詳細は分かりかねます』


 マジか。

〈道案内(ナビゲーション)・極〉であるナビ子さんの中にも情報がないらしい。


『そもそもわたくしはその名の通り、あくまで道案内を専門としたスキルですので』


 辞書的な利用法はあくまで副次的なものだという。






「長老が?」

「左様。あの巨大な蛾の姿は里からも見えたのじゃが、そのことを聞いた長老が急に取り乱し始めたそうなのじゃ」


 里に帰ってきた俺たちに、ティラパパが言う。


「すまないが、その魔物を討伐した君に少し長老のところに行ってもらいたいのじゃが……」


 それくらいお安い御用である。

 もし長老があの魔物のことについて何か知っているのだとすれば、こちらとしても話を聞きたいところだった。


 あまり大人数だと迷惑になりそうなので、俺とティラが代表して会いにきた。


 エルフの長老は、名をトコロと言った。

 なんと五百年も生きているという。

 長寿種であるエルフでも、せいぜい長生きして二百年ちょっとだということを考えれば、驚くほどの高齢である。


 さすがによぼよぼだった。

 もはや見た目では男か女かの区別すらつかない。


「長老様、お久しぶりです。族長ディーガの娘ティラです」


 ティラが挨拶する。

 長老は耳を傾けた。


「ああ!?」


 どうやら聞き取れなかったらしい。

 ティラは先ほどより大きな声で、ゆっくりと言った。


「……長老様、お久しぶりです。族長ディーガの娘ティラです」

「ああ!?」


 やはり聞き取れなかったらしい。

 ティラはさらに大きな声で、



「ぞ く ち ょ う デ ィ ー ガ の む す め テ ィ ラ で す !」



「ああ!?」

「…………もう良いです」


 ティラは諦めた。


「ごめんなさいね? 曾爺様は耳が遠くて……」


 長老の曾孫だという女性が謝ってくる。


「これ、そもそも会話が成立しない気がするんですけど……」

「俺に任せてくれ。念話で話してみよう」


 念話なら耳が悪くても伝わるはずだ。


「っ!」


 長老は驚いたようだった。

 そして歯の抜け落ちた口を動かし、


「ふがふがふが」


 長老は何かを伝えようとしている!


「ふがふがふが」


 長老は何かを伝えようとしている!


「ふがふがふが」


 長老は何かを伝えようとしている!


「なるほど……」


 俺は神妙に頷いた。


「今ので分かるんですか!?」

「念話で聴き取ったからな」

「じゃあ、わざわざふがふが言わせなくても良いじゃないですか……」


 長老の話によれば。


 かつて、強大で邪悪な存在がこの世界を支配しようとしていたという。

 それは何体もの凶悪な魔物を従えており、その内の一体に禍々しい鱗粉を撒き散らした巨大な蛾がいたらしい。

 その蛾が通った場所は醜悪な大地へと変わり果て、鱗粉を浴びた人々が次々と死んでいったというから、先ほどの魔物と非常によく似ている。


「それで、どうなったんですか……?」


 そこに突如として現れたのが、神々から特別な加護と力を授かった一人の英雄だった。

 英雄は死闘の果てにその邪悪な存在を打ち倒し、世界に平和をもたらしたという。


「ふがふがふが」

「もう千年も昔のことで」

「ふがふがふが」

「子供の頃に曾爺さんから聞かされたことがあった」

「ふがふがふが」

「あの蛾はきっとその邪悪な存在が復活する前触れ?」

「ふがふがふが」

「もう世界はお終いじゃ?」


 長老は頭を抱えて、怯えるようにぶるぶると身体を震わせた。

 ぶっちゃけ世界が終わるより先に長老の方に寿命が来そうだが。


 そもそもこの長老が生まれる前のことだろ?

 それじゃあ、ただの神話か、それとも実際にあった歴史なのか分からないな。


「ふがふがふが」

「西のグレア砂漠に、千年前に栄えた大帝国の遺跡が?」

「ふがふがふが」

「その中には英雄の墓と言われているものもある? なるほど、そこに行けば何か手がかりがあるかもしれないのか……」


 長老に礼を言って、俺たちは屋敷を後にした。


『グレア砂漠は、エクバーナからずっと西へ行ったところにあります』


 エクバーナは獣人の国だ。

 あそこから北方には温泉を求めて行ったことがあるが、西には行かなかったな。


 しかし砂漠かぁ。

 どうせ砂ばかりで何も見どころのない場所だろう。


 長老の話もただのよくある伝承の一つで、あの蛾は偶然それに登場する魔物と似ていただけかもしれないしな。


『ちなみに現在は女だけの戦闘民族であるアマゾネスたちが国を作っています』

「よし、行こう」


 ナビ子さんの情報を受けて、俺は即座に今後の方針を決定した。


「……明らかに不純な動機ですよね?」

「何を言っているんだ、ティラ! もしかしたら本当に世界に危機が迫っているかもしれないんだぞ! 例え火の中、水の中、そして鍛え抜かれたむっちむちの美女たちの中、ぐへへ……俺はどこにだって行ってみせる!」

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