第3話
「佐藤くんと仲良いの?」
「はい?」
唐突な質問に面食らう。目の前に立つ彼女は、えっと、名前はなんだっけ。
「なんか一緒に勉強してたとか、聞いたよ」
まだ名前が思い出せない、ポニーテールの彼女。あんまり話したことはない。どうでもいいが髪型が変わるだけで人を認識できなくなるのでよく困っている。顔認証が人並み以下でしか機能していない。まだ最新のスマートフォンの方が優秀だろう。
彼女は相変わらずニコニコしてる。しかし表情の裏が読めない。こっわ。
放課後の掃除当番を今しがた終えたところだった。部活やら委員会やらで、教室に残ってる人はそんなに多くない。不幸中の幸いと呼ぶべきか、たぶんこの会話も聞かれてないだろう。
面倒なことになったな、というのが正直な感想だった。同性の友人と違ってこういう厄介な噂が立つことは容易に想像できていたので、例えば佐藤と電話してたり、たまに課題を手伝ったりしているなんてことはこれまで誰にも言ってなかったのに。
「誰に聞いた?」
平然を装って答える。答えながら頭をフル回転させる。
そういえば駅前の喫茶店は在校生がよく利用する場所なのだから、その中に知り合いがいてもおかしくはない。迂闊だったのはこちら側に問題があるだろう。
名前を思い出せない彼女との会話はそう長くは持たない。そんな中でこの質問返しは、肯定とも否定とも捉えられないなかなか高等な会話テクニックだろう。さあどうくる。
「佐藤本人に聞いたけど」
「……」
おのれ。
「なんで言っちゃうの?」
「いや隠してるほうがおかしくない?」
真っ当な抗議に対して真っ当な反論が返ってきた。早くも負けそう。
時間は夜の九時頃。部屋に時計がないから正確な時刻はわからない。スマートフォンの表示を見ればいい話なのだがそれはさておき。
いつしかこの時間帯に電話がかかってくるのがいつの間にか日常の一部と化していた。勉強時間が削れるのはちょっと気に食わない。ちょっとだけ。それを言ってしまうともう話せなくなりそうだから言わないけれど。
電話。私はいつも、かかってくるのを待つ側なのだ。
「絶対変な噂立つじゃん。どっちも嫌な思いするよこれ」
どっちも、というか私が嫌なだけだけども。
それに彼には渡辺さんというれっきとした思い人がいるはずなのだからこんな変なところで名を汚す必要はないのだ。
先日振られてたけど。ちゃんと振られてたけど。
「えーでもなんか言われたら仲いいです!だけでよくない?」
頭が痛くなる会話だ。
なんでこの人はこんなにも能天気なんだ。
「よくない」
即答した。
今日の彼女のように本人に真偽を尋ねる者の方が稀なのだ。噂というものは、常に水面下で徐々に徐々に広まっていく。
特に友達が少ない私が、声を上げたとして耳を傾けてもらえる場面なんてそうそうないだろう。
噂の煙の元は、声が大きい人なのだ。
例えば今電話してる相手とか。
「俺めっちゃ鈴木の話とかしちゃうよ。それも嫌だった?」
「……」
「え、嫌だった? ほんとごめんね」
「……」
これは常々思っていることではあるのだが、ごめんはずるい言葉だと思う。ごめんって言われたらいいよって返しなさい、とは幼少期のうちから無意識に刷り込まれている道徳の一つで、それ以外の返し方を私はまだ教えられていないままだった。だめ、という選択肢はどうも想定されていないようだった。
許したいことも許せないことも、ごめんの前では等しく許さなければならない。とてもずるい。
息を大きく吸って目を閉じる。思い出すのは昔のこと。
「いいよ。気にしてない」
通話越しにほっと安心した空気が伝わってきた。そう、これでいい。
そこからはまた全然違う会話が始まる。お互いの知らない昔の話、それから大学生になったらやりたいこととか、教室で話してもいいようなことを隠れて話していたのは妙に背徳感があり、くすぐったい時間だった。
静かに生きたかった。波風立たない人生にそれなりに充足感も幸福も感じていたし、親しい友達は少ない方がいい。恋なんて消費エネルギーが激しい感情は知らないままの方が生きやすいし、私は私の好きなものを好きなままでいられたらそれでよかった。
彼が私の名前を友人の間で出しているという話を聞いたときは建前とかではなく心の底から嫌だと思ったし、その意志はちゃんと伝えていたはずだった。知らない誰かに噂されることが何よりも怖かった。友達が少ないのも一因だったのだろう、他者評価というものに常に怯えていた。
思えば、ここが分岐点だったのかもしれない。
今から振り返ってみれば。
歯車が狂い始めたのはここからだったのだ。
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