捌 緋織、ツキノカミ様に挑む。

 ツキノカミ様は社の中で、村の捧げ物を食べていた。まずかったのだろう。すぐに吐き捨てる。それから、大あくびをした。


「ツキノカミ様!」


 声が聞こえて、彼は社の外を覗いた。そこには、緋織が立っていた。急いで山を駆け上がってきたのだろう。体中擦り傷だらけだ。


「……あの娘、死んではいなかったのか」


 彼は露骨に不機嫌な表情を浮かべて、社の戸を開けた。


「ああ、これは……いつぞやの、神騙りの娘ではないか」

「……全部、叶衣から聞いたの。この村に災いを起こしていたのも、今の村人を苦しめているのも、全部あなたの仕業だって」

「…………」


 ツキノカミ様が最も気に入らなかったのは、叶衣という、あの男が生きていたことだった。だが、それは今更、どうでもいい問題となりつつあった。


「それで、なんの用だ?」

「出ていって。この村から。この村には、もうツキノカミ様はいらない……ううん、神様なんて、いらないから」

「我に向かって、出ていけ……だと? 人間風情が、随分と偉そうに口を聞く!」


 彼は羽衣を使って、緋織の体を縛った。

 その強い力は、彼女の体のあちらこちらで悲鳴を上げさせる。


「神に逆らうということが、どういうことか教えてやる……! 今、我の奴隷になるというのなら、許してやろう!」

「……なるもんかっ! ……私が、この村を守るんだ! 皆が必要としてくれるから! 私は、それに応えるんだ!」

「誰から守るって? まさか、我じゃあるまいな?」


 更に縛る力が増す。首も絞められ、彼女は言葉すら発せられなかった。彼は無から槍を生み出した。それを右手に持ち、緋織に向ける。


「最後の言葉は、それでいいか?」

「…………かっ……っ、ツキノカミなんて神様じゃない!」

「願うのは死か」


 ツキノカミ様は槍を緋織に突き出した――



 緋織が脱走したことが明らかになるまでには、そう時間はかからなかった。村中が騒ぎとなり、躍起になって緋織を捜し始めた。すぐにでも見つけなければ、ツキノカミ様のお怒りを受けてしまう。彼らの思考は、常に恐怖と隣り合わせだった。


 一体、誰が――その疑問もまた、脳裏に過ぎる。


 総出で村の男が動き始めた時、広場の中心に異様な姿の男が立っていた。服は血が滲んでいて、頭に包帯を巻いている。彼は旗を掲げていた。その旗には、ツキノカミ様を崇めるシンボルではなく、全く別の、新しいマークが描かれていた。


「だ、大丈夫かね。君……あの娘にやられたのか? とにかく……ツキノカミ様に祈るといい。治るかもしれんぞ」


 一人の男が話しかける。

 しかし、包帯の男――叶衣は、それを無視するようにして声を荒げた。


「俺は……ツキノカミを神とは認めないっ!」


 その言葉が聞こえた者たちは、驚きのあまり、足を止め、叶衣に目を向けた。なんという罰当たりなことを言うのだろうか。


「村の皆に問う! 今、皆の信仰している彼は、本当に神だろうか」

「馬鹿なことを! ツキノカミ様あっての、この村だろう!」


 村人の一人が言った。周囲の人間も、歯切れは悪かったが、小さく頷いた。まるで、自分にそう言い聞かせているかのようだった。


「……まさか、君があの娘を逃がしたのか?」

「そうだ」


 叶衣は頷いた。


「なんてことを!」


 村の人々が各々、小さな悲鳴を上げた。


「お前のせいで、この村に災いが降りかかったら、どうするつもりだ」

「娘一人逃がしたくらいで、どうしてこの村に災いが訪れる? それは神の祟りか? それが神のすることなのか? 恐怖を与えるのが――恐怖で皆の信仰心を掴むのが、皆の信じる神のすることだろうか?」


 叶衣の大演説を、村中が黙って聞き始めた。


「俺の信じた神は違う。いつだって村のために動いていた。神にしては、少し力が足りなったが、村の願いに、必死で応えようとしていた。小さな力だからこそ、俺たちの、小さな祈りを受け入れてくれた! どんなに素朴なお供え物でも、必ず翌日にはなくなっていた! 皆も知っているはずだ! それが、誰なのか?」


「…………」


「確かに彼女は偽物だった。でも、本物の神様なんて、本当にいるんだろうか? 俺たちの信じていた神は、ツキノカミ様は、本物の神様なんて呼べるんだろうか? 違う。断じて違う。だったら、皆に問う! 最も本物に近い神様は誰だ? 神の如き力を持ち、人々を恐怖で支配する者か……それとも、偽物だからこそ、誰より神になろうとした、どこぞの村の少女か? 少なくとも、今、彼女は、俺たちのために、この村のために、ツキノカミと戦っている! だから……だから、俺は……彼女こそ、この村に必要な神だと思っている!」


 彼は言い終えて、その場で膝をついた。

 腹部から血が滲む。大声を出すことで、傷が開いたのだ。彼はその痛みに耐えて、それでも言うべきことがあったのだ。


「頼む……皆……皆の力が必要なんだ……必要なんだよ……」


 誰も動こうとしなかった。誰もが迷っていた。どうするべきか……運命を変えるなら、ここしかない。恐怖から解放されるなら、ここしかない。誰もがそう感じていた。


 一人の男が前に出た。老人だ。傍には仔犬がいる。彼は叶衣に近付くと、その背中に手を置いた。


「私もあの子に助けられた一人。彼女は、コタローを見つけてくれた、私の神様だ」

「……緋織だ……緋織って言うんだ」

「そうか……緋織、か。よい名前だ。もう無理をするな。いい医者を知っている」


 老人はまだ立ち尽くしている村人を見た。


「この子と、そして緋織くん……二人とも死なせてはならん。私たちは、間違い続けた。だからこそ、正しいことがなんなのか、分かるはずだ」

「…………お、俺も、その緋織って子に助けられた人間だ」


 すると、別の男が一歩前に出た。

 次は女性が手を上げた。


「私も」「俺も助けられた」「私はお茶の葉をいただいた」「清い水をくださった」「一月前は、この村は豊かだった」「彼女のおかげだったんだ」「ああ、あの子が必要だ」


 皆が皆、口々に思いをぶちまけ始めた。


「ツキノカミ様は、決して我々に寄り添ってくれはしなかった」「お供え物も、いくつかは捨てられていた」「本当に信じるべきものが、今なら分かる」


 そして、耐えていた恐怖から、彼らは解放されつつあった。


「でも、あの子は普通の人間だろう? どうやって、ツキノカミ様に――いや、ツキノカミに勝つんだ?」

「分からない。お、おい……君……どうすればあの子を助けられる?」

「……い、祈るんだ……祈れば……きっと、届く……」

「そ、それだけでいいのか?」

「彼女を……新しい神様に……」

「分かった……!」


 最初に、老人が膝をついて、目を閉じると、両手を重ねた。

 それに続くようにして、村の人々が膝をつき、祈り始める。

 広場の中心で、緋織への祈りが捧げられた。長い、長い時間――



 緋織に向けられた槍は強烈な光と共に弾かれた。

 驚いたのはツキノカミ様だった。彼にはあまりにも想定外のことが、目の前で起きていた。槍が弾かれたのは、緋織の肉体が強靭であったからでも、ツキノカミ様が創造した槍が微力だったからではない。


 彼は確かに見たのだ。

 羽衣が、槍に牙を向き――緋織を守るように、槍を弾いたところを。


「な……、どういうことだ?」


 透明な羽衣はツキノカミ様の手を放れ、緋織を拘束から解いた。そして、彼女の周囲をまとわりつくと、強い光を放ちながら彼女の周囲で漂い続けた。


 羽衣は、新しい主人を選んだのだ。

 それが意味するものとは、緋織が神格化されたということである。


「な、なぜ……! なぜ、お前がそれを!」


 次にツキノカミ様の右手にあった槍が、泥になって崩れ落ちた。

 彼は訳も分からず、新しい槍を生み出そうとした。しかし、なにも生み出されなかった。


「なぜ! 力が……!」


 緋織は水ぼらしい姿から、新しい装束を着ており、神々しい光と共に、ツキノカミ様を拘束した。


「あなたがいるから、この村は苦しんでいたの。あなたがいるから、彼らはいつだって助けを求めた。そのせいで皆が辛い目に合ってるなら、私が新しい神様になってやる!」

「い、嫌だ……! 助けてくれ! そ、そうだ……! い、今なら、我の次に偉い、準神の立場をお前に――」

「ぶっとべえええええ!」


 彼女は羽衣を思い切り引っ張った。拘束されたツキノカミ様の体が浮き上がり、羽衣に投げられるようにして、吹っ飛ばされる。途中で羽衣から解放され、力を失った、ツキノカミ様は、悲痛な叫びと共に空の彼方へと消えていった。


「はあ……はあ……」


 緋織は地面にへたり込む。

 それから、拳を青空に上げ、勝利の味を噛みしめた……。

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