漆 緋織、火あぶりが迫る。
「緋織……」
ことの顛末を知った叶衣は歯を食いしばった。彼は、自分が村にいれば、もっとどうにかなったのではないか、と考えていた。
「愚かな村だ。我に仇をなした者に、猶予を与えるとは……」
「…………まだ間に合う。火あぶりなんて、野蛮だ!」
「随分と肩を持つ男だ」
ツキノカミ様は眉を寄せると、羽衣を伸ばし、叶衣の腕を縛り付けた。まるで軟体の生き物のようだった。これが本来の羽衣の力なのだ、と叶衣は察した。
「お前のような人間がいると、俺の存在が危ぶまれる。これまで散々、我に信仰を捧げてきた無能共が、今更、逆らうなどするではないわ」
「……つ、ツキノカミ様。俺は、貴方に逆らおうとしているわけじゃありません。ただ、緋織は……確かに間違いこそ犯しましたけれど……正しいことをしていたはずです! 少なくとも、俺は――俺の家族は、彼女に助けられた! だから! ……あんな風に殺されるなんて、納得いきません」
それが、叶衣の本音だった。
最初こそ、神の真似事をする緋織を嫌悪していたが、今はもう違う。彼女のことを知って、彼女の行動を正しさを、誰より近くで見てきた彼にとっては、緋織もまた、一人の神のように感じていたのだ。
「その思考が危険だと言うのだ。いいか。神とは、つまり信仰こそが力なのだ。我がこれほどの力を得られているのは、お前たちが、我を信仰しているからだ。しかし、お前のように、あの小娘を信仰する者が現れてしまえば、我の立場は危ぶまれる。不穏な芽は、早めに摘んでおくべきであろう?」
その言葉に、叶衣の血の気がさっと引いた。言葉の真意までは分からなかったが、背の毛が逆立っていく感覚だけはあったのだ。この神は……いや、目の前の男は、本当に救いの神なのだろうか、と。少なくとも、決して性格のいい神ではなかった。
「…………っ! ツキノカミ様……貴方はさぞ、立派な神様なんだろう、と思うよ。皆、あんたのことを信じているしな……でも、俺には……俺にとっちゃ、やっぱり緋織も、神様なんだわ」
彼は精一杯の、強がりの笑みを見せて、前に進もうとした。それがツキノカミ様の癪に障ったのか、叶衣にまとわりついた羽衣はより一層力を増し、彼を地面に叩きつけた。
「ならば死ぬがいい。あの人間の女と共に、地獄へ行け!」
「うああああ!」
叶衣の体は振り回され、木や地面に打ちつけられ、社の周辺に血が飛び散った。何度も、何度も、何度も何度も血が飛び、彼の悲鳴が山の中で鳴り響いた。
やがて血反吐すら出なくなった頃……。
「げほっ……ううっ……」
彼はもう、自身の力では立ち上がれないほどに打ちのめされていた。
近付いてきたツキノカミ様が、不気味な微笑みをしながら、叶衣の顎を強引に持ち上げる。
「黄泉への土産に一つ、いいことを教えてやろう。お前たち人間は、我のことを救いの神と呼んでいるな……あるいは豊穣神と。確かに我は、村に振りかかる災難を、幾度となく払ってやった。大飢饉……晴れぬ雨……地震……――細かく上げればキリがないだろう。その全てを、我が引き起こしたと言えば、どうする?」
「…………ど、どういう意味だよ……」
叶衣は大きく目を開いた。
「くっくっくっ。考えてもみろ。国を騒がせる大災害が、そう何度も同じ村を襲うと思うか? そんな大災害から、何度もちっぽけな村が救われると思うか? 言っただろう? 神の力とは――信仰なのだ、と。我が引き起こした災害を、我が解決していただけだ。それに気付かず、お前たち愚かな人間は、結果だけを見て、神を奉り、無条件に我を信じ、仰いだ。我が掌の上で、操っているとも気付かずに、な」
叶衣の表情が、恐怖から怒りへ、怒りから憤怒へと変化していく。
「これまでご苦労であったぞ、人間。そしてこれからも、精々、神に祈るがいい」
「うああああああああ!」
叶衣は最後の力を振り絞って、腕を動かし、ツキノカミ様の顔面へ拳を向けた。
ドスッ――鈍い音がした。
羽衣が鋭い刃となって、叶衣の腹部を貫いたのだ。
「…………」
叶衣はゆっくりと脱力し、俯いた。
「人間の分際で、神に触れようとするでない」
ツキノカミ様は、彼の体を山奥に放り投げ、社の中へと入っていった――
ツキノカミ様が村にやってきてから、月ノ神村の状況は一変した。農作物のほとんどは神に捧げなければならなくなり、時折、織物なども献上を求められた。お供えができない人間には、必ず不幸が訪れた。どこかで事故に合うか、重病に苛まれるか、いずれにせよ、お供えができなかったというだけで――報いがあり、それらは確かに、村人たちの心に恐怖を植え付けた。
不幸なことは、月ノ神村の人々は、ツキノカミ様を、決して疑ってはいけないと、戒めていたからである。今まで村の窮地を救ってきた神を疑うことは、彼らには許されなかったのだ。そのために、自身の生活に支障が出ることになろうとも――ツキノカミ様は救いの神なのだから……それが、根底にある、彼らが縋りつく唯一の希望だった。
緋織が村の倉庫にある牢に入ってから、十日が過ぎた。
彼女の食事も、日が経つにつれ、質素なものになっていった。彼女に渡す分の食料なんてものは、既に底を尽きた村には、出せるはずもなかった。
それとは無関係に、緋織は抜け殻のようになっていた。思考をしているのか、していないのか、あるいは生きているのか、生きていないのか――死人でありながら、瘦せ細る姿を見て、給仕係は正直なところ、痛ましく思えていた。
装束を奪われ、布地の服一枚で牢に入れられ、満足な食事も与えられることなく、一切動きも見せない。これが、神を騙った少女に与えられる罰なのか――そう思わせるほどに。
彼女が十日間、考え続けていたのは、叶衣の所在だけだった。この村の人間であるはずなのに、この十日間、一度も顔を出さない。どうして会いに来ないのだろうか――それとも、叶衣も、彼女に失望したのだろうか。緋織にはもう、涙も出なかった。
倉庫の扉が開いた。倉庫には鍵がかかっていないので、誰でも入ることはできた。とはいえ、倉庫に現れたその姿に、今まで動いているところを見せなかった緋織が、初めて牢の格子に近寄った。
扉から近付いてくるのは叶衣だった。息切れをして、頭に包帯を巻き、血の滲んだ服を着ている。
「緋織!」
彼が先に緋織を呼んだ。
「叶衣! よかった。もしかしたら……私と一緒にいたせいで、この村にいられなくなっちゃったのかなって……でも、その体……」
「俺のことはいい。母さんに聞いたぞ。三日後、緋織が火あぶりにされるって」
「そうだけど……」
「だったら、今すぐここから出ないと……」
叶衣は倉庫の中を探り始めた。鍵を探している。焦っているのか、緋織の不安そうな表情には気付いていない様子だった。
彼は鍵を見つけ出すと、それを使って牢の鍵を開けた。
「さあ、行くぞ」
叶衣が手を差し伸べたが、緋織はその手を見つめるだけで、取ろうとしなかった。叶衣はようやく、彼女が浮かない表情をしていることに気付いた。
「…………おい!」
なぜ戸惑っているのか分からず、牢の中に入って、強引に手を掴む。引っ張り上げようとすると、彼女は抵抗し、手を振り払った。
「私……ここに残る……」
「なに言ってんだよ……死ぬんだぞ?」
「神様の振りをしたんだもん。当然の報いだよ」
「なにを言って……」
「私は……結局、他人に認められたかっただけなの。神様の振りをしてでも、自分の正体を隠してでも、村中の人に嘘をつき続けてでも、人に求められる自分に酔っていただけ。自分勝手に、この村の人を巻き込んだ、私には……火あぶりが相応しいの」
「……本気で言ってんのか」
「本気だよ。このまま逃げたって、誰からも求められない人生なら、私はもう、ここで……死んだ方が――」
彼女が半笑いで言おうとした時、その頬が叩かれた。
叶衣が手を上げたのだ。
「冗談でも笑えないぞ……緋織」
「……っ! ち、違うよ。それにさ、神様は帰ってきたんでしょ? だったら、私はもういらないじゃない! 叶衣にとっても、村の人にとっても、いいことしかないよ!」
「その神様が、この村を追い込んでる。村の食料をギリギリまで奪い、村中の資材を我が物にしようとしてやがる。村の人間は、誰も彼も、ツキノカミを疑っちゃいけないって、無理矢理信じようとしてるけど、分かってる人には分かってる! お前の方がよっぽど神様だったって!」
「…………そんなの、知らなかった」
「はっきり言うぞ」
叶衣は緋織の両肩に手を置いた。
「助けてくれ、緋織。お前の力が必要なんだ」
「私が、必要?」
緋織の目から涙が零れた。それを止められることはできなかった。
「ああ。それにな……緋織は、自分のためだけに神様になったんじゃないってことぐらい、俺は知ってる。普通、知らない村の、誰かのために動けない。お供え物を勝手に食べただけで、一人で餅を作ったり、お酒を造ったり――病気を治す薬草を探してくれたり……そうだろ? 緋織は優しいんだ。誰より優しいから……、誰よりこの村のために動いてくれたから、この村の神様になれたんだ。……偽物という意識があったからこそ、偽物の神様だったからこそ、緋織だったからこそ! この村は、お前に救われてきたんだ」
緋織はもう涙が溢れ出て、溢れ出て、その場で座り込んでしまった。
それは、彼女が十日ぶりに出した、ありったけの感情だった。
彼女のしたことは正しくはなかったのかもしれない。もっと別の方法があったのかもしれない。ツキノカミ様こそ、本当の神様なのかもしれない。だが、彼女が今までしてきたことは、断じて間違いではなく、少なくとも救われた人間はいた。
偽物の神様だからこそ――その言葉が、彼女の胸中の霧を、全て振り払った。
叶衣は、彼女と初めて会った時のことを思い出していた。あの時も、緋織は大泣きをしていた。でも、その理由は、もう違う。彼女が今、泣いているのは、自責の念から、解放されたからだ。
彼はそっと泣きじゃくる緋織を抱きしめた。
「でもっ……どうすればいいか……分からない!」
「ツキノカミを追い出すんだ。緋織、この村の、新しい神様になってほしい」
「……私が? でも、ツキノカミ様を追い出すだなんて……」
「本当は皆分かってるはずなんだ。あいつは、ツキノカミは……俺たちが求めてた神様なんかじゃないってな」
「でも、私、普通の人だよ。あんな凄い神様に、勝てるかな……叶衣、この傷さ……」
緋織は背中に滲んだ血と、頭の包帯に触れた。
「ああ、ツキノカミにやられた。でも、大丈夫だ。一つだけ勝てる方法がある。言っただろ? この村の、新しい神様になってほしいって」
叶衣の言葉に、緋織は目を擦り、首を傾げた。
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