伍 緋織、初めての喧嘩をする。

「来てやったぞ」


 叶衣が緋織の手伝いをする約束をしてから、三日後――彼は炊いた米を持って、社に入ってきた。堂々と、大きく戸を開いて入ってくる彼の姿を見て、緋織は慌てて戸を閉めた。


「ちょ、ちょっと! そんな不用心に開けないでよ」

「言われた通り、米、持ってきたが」

「ありがとう! これは、流石に私じゃ手に入らなかったから」

「なんだ? 夕餉にするんじゃなかったのか?」


 叶衣はそのつもりなのだろう、と思って持ってきていた。彼は床に寝転がり、体を休める。道こそ整頓されているものの、山奥の社まで来るのも、楽ではないのだ。


「それもいいんだけど……村の人が、お酒が欲しいって言ってたから……」

「そんな願い、叶えてやる必要なんてねえよ」


 明らかに欲丸出しの願い事だった。少なくとも、神に祈る内容じゃないな、と嘲笑してしまうほどに、下らない内容だ。


「なにか事情があるかもしれないから……」

「お人好しなこった。で、ツキノカミ様一人で、造酒はできんのかよ」

「やめて、その名前。緋織でいいから。それから、お酒は口噛み酒にするの」


 口嚙み酒とは――その名の通り、口の中で米などの穀類を噛み、それを吐き出したものを発酵させて造る酒のことである。彼らの時代では、これもまた、立派な一つの酒造方法だった。その用途は、興じるためというよりかは、神事などの使用が主だったが。


「ああ、なるほどね……じゃあ、やってくれ」


 叶衣は米の入った巾着袋を緋織に渡した。

 彼女はそれを受け取ったが、しばらく叶衣を見つめた。彼がどうしてなにもしないのか分からず、首を傾げた。


「見られるの恥ずかしいんだけど……出ていってくれる?」

「……ったく、面倒な奴だ。来いと言ったり、出ていけと言ったり……」


 彼は文句を垂れながら、だらだらと腰を上げた。


「そ、そんな言い方……」

「悪いけどな、俺はお前の裸を見た分の借りを返せば、すぐにでも村に知らせるつもりだぜ」

「……っ! や、やっぱり裸見たんだ!」


 彼女は耳まで真っ赤にした。


「ああ、見たさ!」


 叶衣は少し頬を赤らめる程度だった。開き直りに近かった。


「最低! 最悪! 変態!」

「お前の裸なんて大したことねえよ! お子ちゃま体型だったぞ」

「ま、まだ発展途上ってだけだから!」

「肩書だけじゃなく、体型まで嘘つくのか?」


 叶衣が悪戯な表情を浮かべた。それは、緋織の顔の熱を、先程とは別の理由で上げた。


「ああ言えばこう言う!」


 二人はまるで犬の喧嘩の如く、唸り声を上げながら睨み合った。

 しばらくして、緋織が戸の方を指差した。


「ていうか、早く出て行って!」

「ああ、言われなくても出て行ってやる」


 叶衣は勢いをつけて、背を向けて、戸を開けた。

 その大きな背中を見て、緋織は少し冷静さを取り戻した。


「あ……、叶衣!」

「なんだよ!」


 叶衣は依然、苛立っている様子だ。


「その……ありがとう」

「はあ? その礼なら――」


 その礼なら、来た時に十分受け取った、とそう言うつもりだったのだろうが、彼の言葉は遮られた。


「そうじゃなくて! その……こんな私なんかと話してくれてありがと。普通に接してくれて、ありがと。私、喧嘩なんて初めてしたの。ちょっと嬉しい」


 彼女は照れのあまり、はにかんだ。


「…………喧嘩して喜ぶなんて、変人だぞ」


 彼は目を合わせることなく、頭に手を乗せた。


「……はあーっ!」


 彼はわざとらしくため息をついた。そして、右手首の腕輪を外すと、それを緋織に投げた。彼女は落ちてきた腕輪を拙い動きで、だがしっかりと手に取った。汚れた紐に、小さな青の宝石が一つだけつけられた、水ぼらしい腕輪だった。


「だったら、仲直りも初めてだろ。そいつは……だから、お袋を助けてもらった礼とかじゃなくて……ただの、仲直りするためのもんだ……。じゃあな」


 彼は返事を待つことなく、戸を閉めた。

 社に一人残された彼女は、受け取った腕輪を右手から通した。少しぶかぶかだったが、勝手に落ちることはなかった。彼女はその腕輪を左手で握ると、我慢しきれず、一人で表情を緩めていた。


 この時からだろう。

 彼女は少しずつ、社で一人暮らすことに、寂しさに近いものを感じつつあった。

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