肆 緋織、頼み込む。

「――つまりだ。飢え死にしそうなところを、神様になりきることで回避できたってわけだ。で、いつかは逃げ出すつもりだったが、後戻りできなくなった、と」


 二人は社の中に入り、戸を閉めて、腰を下ろして対面していた。緋織がある程度、ここまでの経緯を説明したところで、叶衣が大きくため息をついた。


「違います。ちゃんと、打ち明けるつもり……だったはずです」

「…………どうだか」


 彼は立ち上がった。


「ど、どこへ……?」

「村へ帰るんだよ」

「私のことは話さないでください!」


 緋織が手をついて前のめりになる。


「あほ。話すに決まってんだろ。神を騙るなんて、そんな罰当たりなことはないからな」

「なんで! ちゃんと事情説明したじゃないですか」

「事情を理解した上で、言いふらすってことだ」

「ぐぅ…………」

「それじゃあな」


 彼は手を軽く振って、緋織と別れようとした。


「じゃあこっちも言いふらします」


 緋織は限りなく小さな声でそう言った。しかし、確かにそれは叶衣の耳に入った。


「何を……?」

「叶衣さんが、私の裸を見たって、村中に知らせます」

「なっ……見てねえよ! 後ろ姿だけだ!」


 彼はあの時の姿を思い出して、目を逸らした。


「う、嘘! 目が合ったもん!」

「見てねえ! 見てねえったら見てねえ!」

「私が見られたって言ったら、見られたんです! 叶衣さんは私の裸を見たんです!」


 緋織は少し自暴自棄気味だったが、叶衣には効果てきめんだった。まだ女性とそう言った経験がなかった彼にとって、そんな噂が言い広まることは、とんでもない恥のように思えていたのだ。

 緋織は動揺する叶衣を見て、勝機だ、と感じた。


「な……なんなら、悪戯されたって言います!」


 言いながら、緋織も照れていた。彼女もまた、まだそういった経験はなかった。


「…………。てめえ、ずるいぞ!」

「お、女の特権だから」


 頬を赤らめながら、誇らしげ――と、少しちぐはぐな表情を見せていた。

 叶衣は歯を食いしばり、この場を打開するなにかを考えたが、一つとして思い浮かばず、結局、大きなため息をつくことしかできなかった。


「……分かった……言わねえよ。それでいいんだろ?」

「あ、ありがとう」

「ったく……とんでもねえ悪女だ。じゃあな」


 彼はもう一度、戸を開けようとした。


「それから! お手伝い、してほしいんだけど!」

「はあ? なんで俺がそこまで……」

「最近、一人じゃ限界に感じてきて――人助けだと思って……ううん、神助けだと思って!」


 彼女の眼差しからは、嫌な雰囲気が感じられない。むしろ、見れば見るほど、心が温かくなる――不思議な感覚が、叶衣の心の中で渦巻いていた。


「……くそっ」


 彼は頭をかいて、胡坐をかいて座り直した。その時の感情は、一言で言えば、諦めに近いものだった。


「手伝えばいいんだろ。神様の振りを、よ」

「あ、ありがとう!」


 緋織の表情が一気に明るくなった。叶衣は一瞬だけ見惚れてしまったが、何かの間違いだ、とすぐに振り払った。


「別にバレたところで、磔にされるわけでもないだろうし……そんな必死こくことでもないと思うけどな」

「……でも、私のこんな顔見れば……どうなるか分からないよ。私……怖い。怖いの……この傷があるせいで、誰も私を見てくれない。否定して、拒絶して、迫害して……人間じゃないの、私は。だけど、今は必要とされてる……私の顔が明らかにならないうちは、私は人間でいられるの」


 今はもう、神様だけど――そんな小言と共に、彼女は儚げな笑みを浮かべた。

 その言葉の真意を、叶衣は掴み切れずにいた。過去になにがあったのか訊ねようとしたが、口を開けた時、言葉は出なかった。それは憐れみからなのか、あるいはもっと深い部分に芽生えた感情からなのか――叶衣自身にも分からなかった。


 風の音が妙にうるさく感じ、彼は立ち上がった。戸を開けて、けれどしばらく、その場に立ち止まることしかできなかった。

 なにか言わなければ……。


「……少なくとも、俺にとっては人間だ。ただの――俺と何一つ変わらない……。明日、また来る」


 最後に、言葉を振り絞るように言い、暗い山を下りていった。

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