参 緋織、裸を見られる。

 ツキノカミ様、と、緋織はいつしか村の中でそう呼ばれるようになっていた。月ノ神村ではもう、神の噂で持ち切りで、噂が噂を呼ぶ始末だ。神様の姿を見たという人間もいれば、そこに実体はない、とそれらしいことを言う者もいた。


 村に住む若者、叶衣かないはその日、酔っ払ってしまってか、ツキノカミが住まう山の奥部まで入り込んでしまっていた。母の病気が治った直後のことで、つい飲み過ぎてしまったのだ。


「うー……ひっく……流石ぁ、ツキノカミ様だぁ……」


 千鳥足でありながらも、彼はいつの間にか社の前まで来ていた。

 彼は今朝、村の人間が置いていったというお供え物がないことに気付いた。


「あー……神様はいい人だ……人じゃねえけど。感謝してもしきれねえ」


 彼は言いながら、社の中が妙に気になった。だが、社の戸は、子供の頃から、決して開けてはならない、と言われてきた。中には神様がいるからだろう。


 彼には神様に、感謝してもしきれない恩があった。いくら探しても見つからなかった薬草が、祭壇の上に乗せられていたからだ。それを母に飲ますと、彼女の体はみるみる元気になっていった。


「罰当たりかもしれんけど、一度、直接礼を言っておくとしよう。うん、それがいい、それがいい」


 普段の叶衣であれば、こんな判断はしなかった――とも言い切れない。彼ほど好奇心旺盛で、行動力のある人間は、村ではそういない。加えて泥酔状態なのだから、この結果は必然とも言えた。


 しかし彼は、正面から堂々と入っていくほどの勇気は、まだ持ち合わせていなかった。彼のしたことは、社の裏側に回り、少し高い位置にある小窓から、中を確認することにする。幸いなことに、彼は木登りが得意だったので、近くの木に登り、少し遠いが、太い枝から社の方を確認した。


 彼はそこで、とんでもない光景を見てしまい、絶句するほかなかった。

 神様と思われる姿をした――白い装束に、羽衣を羽織っている――女性が、小さな臼の中で、米をこねり、時にはついたりしていた。

 餅を、作っているのだ。


「……そういやあ、隣の望月さんが、餅を食いたいって願っていたような……ぎゃっ!」


 彼は確かに木登りが得意だったが、酔いもあって、枝から落下してしまった。辛うじて怪我はなかったが、大きな音を立てて地面に着地した。


「…………!」


 戸が開き、装束の女性が出てきた。彼は思わず、茂みに身を隠した。


 顔に傷があるのが見えた。女性というより、女子である。成人しているか微妙なところだった。あれが神様……?


 さっきの餅にしても、ひどい出来である。餅なんて一人で作るもんじゃないだろう。第一、神様なら、あんな汗かきながら、作らなくてもいいはず。


 まさか――叶衣は泥酔状態から、少しずつ正気を取り戻し、尚且つ、頭の中で整理に整理を重ね、現状を完全に把握した。


 ツキノカミ様は周囲を確認した後、不安そうな顔を浮かべたまま、社の中に戻っていく。


「なんてこった……俺たちゃ、皆騙されてたってわけか」


 叶衣は沸々と込み上げる怒りを抑えきれず、とうとう茂みを出て、社に向かった。酒さえ入っていなければ、一度村に帰り、報告することもできたのだろうが、生憎、彼は今、その場の気分に身を任せてしまうくらいには、まだ酒に呑まれていた。


「やい! ツキノカミ!」


 彼は社の戸を勢いよく開けて、文句の一つでも言ってやろうとした。


「え……!」


 装束を腰まで脱ぎ、羽衣のように透き通る白い背中が見えた。叶衣の方を、右頬に火傷の痕がある少女、緋織が見た。その時、全身が叶衣の目に入る。時が止まったかのようだった。叶衣の目が小さくなっていく。


「い、いやあああああ!」

「ち、ちが……――その……すみませんでしたあ!」


 叶衣は訳も分からず、とにもかくにも謝罪を言った。そして、戸を閉じる。そして、深呼吸をすることで、かなり冷静さを取り戻した。

 いや、違うだろ。そういうことじゃなくて!


 彼は戸の前で、胡坐をかいた。


「着替えを覗いたのは大変失礼いたしました。ですけれど、ツキノカミ様。確認させていただきたいことがございまして……、あんた、神様じゃないだろ」

「…………っ!」


 戸を挟んでいたところで、動揺が伝わってきた。


「確かに、考えてみりゃあ、あんた、神様らしい願いは一つだって叶えなかったもんな」


 水や食料、それから犬捜しなど、人間でも不可能ではないことばかり、叶えてきていた。一度だけ天候を変えていたが、あんなものはたまたまで証明できる。実際のところ、叶衣の想像はほぼほぼ正しかった。


「わ……私こそ、本物の神様ですよ」

「本物の神様は、自分のこと、本物の神様なんて言わねえよ」

「……………………」


 戸の奥が随分静かになった。

 彼が怪訝に様子を窺っていると、戸が開く。

 装束姿の緋織が立っていた。わざわざ着替え直したらしい。叶衣のことを、ひどく睨んでいた。


「口封じでもするのか? ……神様ってのは、随分勝手な野郎らしいからな」

「…………あ……」


 すると、緋織の目から涙が零れた。


「ご……」

「ご?」

「ごべんなざいぃぃぃ!」


 すると、緋織はとんでもない勢いで、腰を落とし、叶衣の膝を縋るように掴んだ。大粒の涙が、とめどなく零れ落ちていく。


「ごんなごとずるづもりじゃながっだんでづぅぅ! ぢょっどだけ、飢えをじのぐだめに、このやじろをがりでいだら……いだらぁ……! どりがえじがづがなぐなっで!」

「は、離れろ! な、何言ってんのか分かんねえよ!」


 叶衣は足元にしがみつく偽物のツキノカミ様を見て、顔を引きつらせていた。


「ごべんなだびぃぃ……おねがいだがら、だでにも言わないでえええ……」

「わ、分かったよ。誰にも言わないから……ちょっと離れろ」


 おかしな状況になった、と彼は頭を悩ませた。今すぐにでも村に知らせてやりたいところだったが、このままじゃ収拾がつかない。

 とりあえずは話し合う、ということで、緋織の涙は次第に止まっていった。

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