弐 緋織、神となる。

 翌日……。


 緋織は騒がしい声と共に目を覚ました。仔犬の鳴き声ではない。あの犬は、社にあった縄を使って、外の柱に巻き、逃げないようにしていた。その鳴き声は一切聞こえず、耳に届くのは、人々の騒がしい声ばかりだった。


「神様が戻ったんだ」

「奇跡だ」

「ありがたやぁ、ありがたやぁ」


 人々の声が何を意味するか、緋織は理解しつつあった。


「神様なんて本当にいるんか?」

「ああ、いる! 村田の爺がいるだろ? 足の悪い爺さんだ。その爺さんが、毎日、毎日、この社に祈っていたら、山で見失った柴のコタローが、社の柱で大人しく寝ていたっつーんだ。実際、コタローがいた。村田の爺は……あの足じゃあ、山ン中は探せねえだろ。それに、だ。お祈りの時に捧げた、お供え物が全部なくなってたっつー話だ」

「お供え物が、ねえ。神が食べたか……とんでもねえ罰当たりが食べたか、だ」

「この村の神様がどんだけ偉いか、この村に住む人間なら分かってる。神以外にあれを食べるものはおらん」

「確かにそうだな」


 聞こえてきた二人の会話は、緋織の表情を青ざめさせるには十分だった。だが、ここで顔を出せる状況でもないことを、彼女は理解していた。犬一匹見つけただけで、とんでもない事態に進展してしまっいる……。


「それじゃ、俺も一つ」


 すると、男が一人、祭壇に蓬の団子を捧げた。


「うちの溜水の調子が悪く、娘も腹を下す始末。神様、どうか、清らかな水を、我が家に恵んでくださいませ」

「…………」


 彼女は少し考えたが、それをこなすことにした。

 翌日、祭壇からは蓬の団子が消え、代わりに桶一杯に水が溜まっていた。それは、緋織が、先日見つけた小川の水を掬って、運んできたものだった。考えてみれば、あの小川の場所は、かなり見つけづらい場所にあった。というのも、この神の社から続いている道にあるからだ。


 つまり、それは、神の通り道ということでもあった。であれば、確かに神に対して、彼女が想像するよりもずっと敬意を示している村人には、調べることすらできない場所だったのだ。


「改めて考えると、私、すごく罰当たりなことしてるんじゃ……」


 彼女はお供え物の蓬の団子で口を汚しながら、呟いた。


 彼女の、神としての噂は広がるばかりだった。次第に要求は増えていき、彼女は、できる範囲の願いはなるべく叶えるように動いていた。時には、雨を降らしてほしいという願いもあったが、翌日、奇跡的に雨が降り、村人たちはこれを神の所業と喜んだ。


 なぜ、緋織が願いを聞くのかと言えば、理由はいくつかあるだろう。お供え物があれば、食べるのに困らない。これは生きていく上で大事なことだった。そのお供え物を貰うためか、貰った恩返しか、彼女は村人の願いを聞き入れていた。


 どんどんと引き返せない沼にはまっていく一方で、彼女は今の環境に、かすかな安心感と幸福感を抱いていた。


 そうなってしまった一番の理由は、彼女の中にある、承認欲求を満たすことにあった。今まで、虐げられ続けてきた緋織にとって、現在の、神としてあがめられ、そして求められる形は、一種の快感を与えていた。


 あるいは、ただ、神の振りをして、村人たちに、空想上の神を信じ込ませていることに対する、罪悪感かもしれなかった。しかしそれは、決して取り除くことができないものになりつつあった。


 少なくとも、もはや彼女は自分の口から、村人に、そのことを告げることはできなかった。正体を示せば、また迫害される。顔に火傷のある神なんて存在しない。追い出されるだけなら、まだましかもしれない。でも、もしも、こんな優しく、純粋な村人たちにすら、拒絶されたら――彼女は想像するだけで、全身から汗が噴き出していた。


 だったら、ずっと隠してしまいたかった。

 誰も困っていない。

 少しだけ罰当たりなだけだから。

 その思考が、彼女を社の中に縛り付けた。

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