偽物の神様

野原 駈

壱 緋織、社に着く。

 遠い昔――スギの木々に覆われた山の奥に、小さな村があった。月ノ神村つきのかんむらと呼ばれるその集落は、決して裕福とは呼べないまでも、しかし平和で、落ち着いた村であることは確かだ。


 基本的に余所者が入り込まないこの場所に、ある日、十三歳になったばかりの少女が迷い込んでいた。黒の短髪の上に、ボロボロの頭巾を被っている。着物も泥まみれで、擦り傷だらけの裸足、そして息も絶え絶えだ。


 彼女の名前は緋織ひおり。緋織が月ノ神村に迷い込んだのは、たった一人で、誰の手も借りることなく、故郷から逃げ出してきたからだった。彼女は故郷の村で、同年齢の若衆から、迫害にあっていた。


 それは、緋織の顔に大きな火傷痕があるからだ。彼女の右頬から口にかけて、赤く歪んだ肌は、彼女の村では呪いの子として、忌み嫌われていたのである。火事によって、早くに両親を亡くした彼女には、およそ味方と呼べる存在になってくれる人は、誰一人としていなかった……。


 だから、こうして、辺境の地までくるまでに、逃げる決断を迫られ、追い込まれてしまった。

 と言っても、彼女は村まで辿り着けたわけではなかった。彼女が見たのは、村から少し歩いたところにある、古びた、小さな社だった。彼女は最後の力を振り絞り、社までフラフラと歩いていった。


 戸の前には祭壇があり、皿が乗っている。彼女はその皿にお供え物があることに気付いた。小さな林檎だった。

 だが、それが神聖な物で、安易に手を出してはいけないものであることは、彼女でも理解していた。罰当たり、というものだ。


 だが、腹の虫が暴れ出した。


 彼女は周囲を見渡した。人影はない。口から溢れるよだれが止まらない。腹も、また大きく鳴った。ごくり――と、喉を鳴らしてから、彼女は林檎を手に取った。


 そして、かぶりつく。


 思わず、涙が零れた。彼女はその涙を拭うでもなく、ただ果実にがむしゃらにかぶりついた。そして、あっさりと祭壇にあった皿を、綺麗にしてしまった。


「…………ごめんなさい」


 彼女は呟くと、立ち上がり、戸を開けた。先程と違い、しっかり一人で立つだけの力も戻っている。中の部屋は多少埃を被っているが、住めないことはなかった。布団もあり、以前、誰かがここで住んでいたことだけは分かる。


「もしかして、神様が住んでいたのかな」


 彼女はそのまま足を踏み入れようとしたが、自身の足が汚れていることに気付いて、更には、泥だらけの着物で神聖な部屋を汚してはいけない――かもしれない、と思い始めた。このままじゃ住めない……そう考えていた緋織は、部屋の端に畳まれている白い衣に気付いた。近くには全てを透き通す羽衣もあった。


 彼女は自然と戸を閉めて、その衣に近付いていく。


「……お、お借りします」


 そして、膝をついて、祈るようにしてから、彼女はそれを身に着けた。いくつもの金色の刺繍ししゅうが施された、純白の装束に、透き通るような羽衣を羽織る。その姿が、神そのものであることは彼女にも分かった。


 少し気持ちが昂った彼女は、その場でくるりと回る。羽衣が揺れて、緋織の動きを追った。別人になれたような気分だった。

 だが、恥ずかしくなって、思わず顔を赤くする。


「恐れ入ります」


 すると、気付かないうちに、戸の奥で声がした。彼女は慌てて一歩退く。そして、心臓が激しく動くのを感じていた。


 これがバレたら、殺される? どうなる? 不安ばかりが募っていった。

 戸の先の男の声は、しかしそれを咎める様子はない。


「神様……ああ……お供え物がなくなっている……願いを聞き入れて下さったのでしょうか。いいえ、小太郎は未だ帰らず……。ええ、足りぬということでしょうから、今日もご用意いたしました。ですから……どうか……どうか――この山に迷い込んだ、愚犬の小太郎を、無事に我が家に戻してください……」


「…………」

「私はもう、足をやられてしまい、歩くのも一苦労の身でございますから……何卒、お願い申し上げます」

「…………」

「それでは、失礼します」


 戸から人が離れていく気配がした。

 緋織はそろりそろりと戸を開ける。祭壇の周りには人影は見えない。祭壇の皿には、干柿と芋が並べられていた。


「……さっきのも、あの人のだったのかな」


 彼女は口に残る赤い果実の味を舐めて、それから戸の外を見つめた。

 あれはやはり、とても大切なお供え物だったのだ。少なくとも、腹を空かせたからと言って、それだけのことで食べていいものではなかった。

 彼女は少し迷って、赤い袴の裾を上げた。


「犬……えっと、コタロー、捜そう。それが、せめて私にできること」


 緋織は恩返しのつもりか、あるいは償いのつもりか、いずれにせよ、犬を捜しに山の中へと歩いていった。


 一時間ほど山の中を歩いた。彼女は汗を拭いながら、慣れない山中を、隅々まで探した。そうして、もう限界を迎えつつあったところで、緋織は清らかな小川を見つけた。それはまぎれもなく、僥倖ぎょうこうだった。ギリギリの足を動かして、小川の水を口に含む。


「ぷはぁっ!」


 生き返るような気分だった。視界が一気に広がり、丁度、彼女の座る小川の反対側に、焦げ茶の毛をした、仔犬がいた。


「も、もしかして、コタロー……?」


 彼女はおそるおそる仔犬に近付いていく。仔犬は明らかに警戒の色を見せたが、それに怯まず、むしろ手を差し出して、敵意のないことを示した。


 仔犬はゆっくりと近付いていくと、緋織の手を舐めた。少なくとも、仔犬は彼女を信頼したのだ。緋織は犬を抱きかかえると、そのまま、社へと戻っていった。

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