第6話 二人暮らし


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 ミリアが森に現れてから半月程経った。いきなり降って沸いた(まさにその通り)年若い娘との同居という、休養に来たはずのダグラスにとっては望まぬ展開なのだが、意外にもすんなりと受け入れていた。


 その理由として、彼女との出会いが人間離れしていたことと、事情を聞くよりも先に看病する羽目になり、「ダグラスが彼女の面倒を見る」という構図が出来上がったことが考えられる。


 幸いなことにミリアの熱は一晩で下がり、その次の日には起きられるようになった。皇都から送ってもらった薬は飲まずに済んだが、一緒に届いた服や下着は大いに役立った。


 さすがに裸にシャツ一枚(布団の住人といえど)ではダグラスの心情的に大変よろしくなかったので、服が届くまではダグラスの大きすぎる下着(新品に近い物を選んだ)をギューギューに絞って履かせることにした。


 口頭でそれを履くよう説明してミリアに渡した所、紐の結び方を知らなかった彼女はむちゃくちゃに紐を絡め合わせた結果、今度はほどけなくなるという騒動があった。


 年若い娘の服をめくり下着の結び目を解くなど、どんな苦行なのか。それでなくてもシャツしか着ておらず、その下は丸出しの素足なのだ。悩んだ彼が出した結論は、目を瞑って紐をナイフで切るというものだった。新しい下着を一つダメにしたが、彼に悔いはない。



 下着と言えば、当然ながら飲み食いをしたら用も足すようになる。人の体は入れたら出すようになっている。ミリアはもちろん、入れるのも初めてなら出すのも初めてである。その場所へ連れていき心を無にして、幼子にするように手伝ってやったのは、ダグラスの忘れたい記憶の一つに追加された。




 食事に関しては、最初こそ恐る恐る口にしたが、大丈夫そうだと分かると、彼女はなんでも食べた。好きなだけ食えと言ったら、吐きそうになるまで詰め込んでしまったので、それからは適量を皿に分けるようにした。


 しばらく不満そうにしていたが、何度か食べすぎの苦しみを経験し、適量を食べる意味に納得したようだ。それでも年頃の娘の量としてはかなり多めだが、男のダグラスにわかるはずもない。


 彼が作る男らしい料理を「美味しい!」と満面の笑みを浮かべ、ぎこちなく持ったスプーンで一生懸命口に運ぶ彼女の姿は、文句なしに男の庇護欲ひごよくを掻き立てた。その見た目に反して、小さな子どもの世話をしている気にさせられるのだ。


 実際、ダグラスはこの数日でミリアを保護すべき対象としてすっかり認識を改めていた。彼自身、命のやり取りを経験し、修羅場を生き抜いてきたのだ。彼女が他者に害をなす人物かどうかを判断するのは難しくない。不信な点を差し引いても、排除すべきなのか、庇護すべきなのか、考えるまでもなかった。



 生活するすべを何も知らなかったミリアに、彼は一つずつ実に根気よく教えこんだ。そうしないと何にでも興味を持つ彼女は、あわや大惨事に大怪我となる場面を何度も引き起こした。


「熱いから気をつけろ」と言っても、「なぜ熱いと気を付けないといけないのか」がわからない。そこで彼女は「熱いとどうなるのか」と考え、その次には体が動いてしまう。無意識といってもいいだろう。火のついた薪を手で掴もうとしたのは、さすがのダグラスも肝が冷えた。


 最初の五日程は首に縄でもつけようかと思ったほど、片時も目が離せず、次の行動が全く予想できなくて、途方に暮れかけた。



 そこでダグラスは一度全ての先入観を捨てることにした。知っているだろう、これくらいわかるだろう、と言った考えを排除してから、物事の意味や理由、なぜそうするのかまで一から説明するようにした。


 するとそこからの理解は早かった。今では洗濯や、食器の片づけ、簡単な掃除、薪に火をつける、湯を沸かすなどは彼女に任せられるようになった。


 刃物を扱う料理や薪割りなどはまだ教えていないが、好奇心いっぱいの眼でダグラスの姿を横でじっと見られている。そろそろちゃんと教えないと勝手に始めそうで気が気でない。まだまだ一人前には程遠いが、いずれ彼女が一人でも暮らしていけるようになっているのが望ましい。ダグラスはいつまでもここに居る訳ではないのだから。



 そんな彼女は初めてペンを持てたと嬉しそうにしながら、つたないながらもその場でいくつか文字を書いて見せた。これにはかなり驚いた。


 この国の識字しきじ率は決して高くない。貴族こそ幼少期に習得するが、地方に行くほど平民のほとんどは読み書きができない。国民の生活にゆとりができてきたとはいえ、文字の習得に時間をくより、家の手伝いやパンの焼き方、農作業や狩りの技術を上げた方が、生きていく力に直結しているからだ。


 もちろん長い目で見れば文字を覚えた方が、文官や女官の道も開けるし、将来的には安定した収入につながる。武の道に進んだとしても、渡された書類の一つも読めないのでは話にならない。ゆえに皇都に近い町ほど、平民の識字率も上がってきている。


 その点、独学で覚えたというミリアは筆記こそ拙かったが、読む方は上級学校の初年度レベルに達していた。書くという動作も、文字が書けない訳ではない。書き慣れていないだけだ。


 とはいえ、難しい単語をすらすらと読んでみせたかと思えば、子どもでも知っている簡単な言葉を知らなかったりした。そのアンバランスさは、彼女の知識がほぼ新聞から得たのだと聞き納得した。独特な書き方の新聞を教材にしたのなら、妙な偏りも仕方ないだろう。


 ただ、新聞は一般家庭ではあまり読まれていない。識字の問題もしかり、貴族向けの内容もしかり、購買対象がほとんど貴族なので当然値段も高めに設定されている。


 裕福な商家ならいざ知らず、彼女の話に出てくる「おじいさんの店」とやらは、もっとこじんまりとした小さな規模の店を連想させる。そんな店で事も無げに「新聞を拾った」というミリアの話はにわかに信じがたいものがあったが、こちらの世界とは生活水準が違うのだろうと理解した。というのも、彼女の語る元居た世界はこちらに無い物があふれていた。



『え。車、ないの?』

『車? 馬車はあるが車とはどの車のことだ』

『えーっと、人が運転してタイヤが四つ付いていて、道路を自由に走る車よ。すごく早く走れるわ』


 ミリアの居た店の前は裏通りだが、車が全く通らないことはない。中には狭い裏道をすごい速さで過ぎ去っていく車も居た。そんな車が市民でも手の届く乗り物になったのは、少し前のことだ。随分と見かける台数も増えて来ていた。


『タイヤ…ってなんだ』

『え…そこから?』


 ダグラスが理解できなかったのは、車だけではない。



『ガス灯はある?』

『がすとー?』

『すごく明るいのよ。お店は裏通りだったから、それに変わったのはちょっと前なの。もっと早く取り換えてほしかったわ。夜の店はとても暗かったから、新聞の文字が見えにくくて』


 どうやら、彼女が居た世界はこちらの世界より、随分と文明が進んでいるらしい。ただ文字はほぼ同じで、単語に多少の違いがある程度だった。せっかく覚えた言葉が無駄にならずに済んだと、嬉しそうにしていた。


 そして彼女の居た世界には、魔法も魔物も絵本の中にしか存在しないのだと言う。当然魔道具もない。この国では、近年様々な魔道具が開発されている。彼女の世界の道具と根本的な原理は違うだろうが、暮らしを便利にするという点は同じなので、似通ったものがいずれ魔道具でも作られるかもしれない。



 彼女は文字に限らず、とても覚えが早かった。疑問に思ったことは必ず聞き返し「どうして?」と連呼する様は、さながら言葉を覚え始めた幼子のようだが、うやむやのままにしない分、理解も早い。


 女と同居など考えただけでも無理だったのに、ミリアとは違和感なく過ごせていた。


 ダグラスはこれまで決して面倒見がいい性格ではなかったし、むしろ他人と慣れあうのを避けてきた。彼の生い立ちを思えば当然である。それがこと彼女に関しては片時も目を離さず、傍についてあれやこれやと面倒を見ている。


(女というより、子どもの世話をしているようだからか?)


 実は子ども好きだったのか? と首を傾げるダグラスだった。



 順調な二人暮らしを送る一方、ミリアがどうして森へ来たのか、彼女の言う人形から人間になった経緯も含めて、彼女の話とダグラスが見た以上のことはわからないままだ。ただ、どこをどう見ても見た目だけは普通の人間である。(妖精、精霊のたぐいの可能性はゼロではないが)


 では中身はというと、さらという表現が一番あてはまった。飲み食いはおろか、着替えも風呂も、生活に関すること全て未経験というのは、深層の箱入り娘だったとしてもおかしな話だ。貴族とてかすみを食べて生きているわけではない。


 話だけを聞くとにわかには信じがたいが、実際にその初体験の様を目の当たりにすると、とてもそれらが全て演技だとは思えなかった。となると、どうしても彼女の語った過去に行きついてしまう。


(仮にだ。もし仮に、ここに来る前まで本当に彼女の言う通りの「人形」だったとしたら? ……すべての言動に辻褄つじつまがあう)

 

 この数日、彼女をつぶさに観察してたどり着いた答えは、結局ミリアの話をひとまず信じることだった。ただそれを証明する確たる証拠が何もない。彼女の言動からしか、それを知る事ができない。


「誰が信じるんだ、こんな話……」


 深い思考を巡らせながら、先ほどから無心で振るっている斧は、すでに十分すぎる薪の山を形成している。ダグラスはさらに新たな木片をそこへ置く。


(おおよそ、世の中の酸いも甘いも知った気でいたが、まだまだ知らない世界があるんだな…)


 齢二十三歳にして、仙人のような心地になったダグラスだが、ミリアの悲鳴に現実に引き戻される。



「きゃーっ」

「!」


 まだまだ予測のつかない行動を取る彼女は、とても危なっかしく、やむを得ずそばを離れる時は必ずアッシュを置いている。言わなくても離れないのだが。慌ててダグラスは手にしていた斧を放り投げて、声の方へ走った。


「…………」

「ダ、ダグラス、あの…」

「何やってんだ…」


 小屋の角を回りこんで、一人と一匹を探すまでもなくすぐ見つかった。ミリアは物干し用に木と木の間に張った紐に、洗濯物と並んで引っ掛かっていた。地面から浮いているその足元には、落としたであろうシーツが小山を作り、その周りをアッシュが心配そうにウロウロしている。


 無言で歩み寄ったダグラスは、ミリアの脇の下に手を入れて地面へおろしてやる。平均的なこの国の男性の背丈より、頭一つ大きいダグラスにとって、ピンと張った紐は彼の目線より少し高い位置にある。彼が使うのならば、妥当な高さだ。


 地面に下ろされて恥ずかしそうに下を向くミリアは、ダグラスの胸にかろうじて頭が届くかどうかで、女性の中でも間違いなく小柄である。その体格ゆえ、初めて森で見た時は少女だと思ったのだ。



「あ、あの。ダグラス、怒ってる?」

「…いや、怒ってはいない。だが、干すのは後で俺がやると言ったよな。濡れた布は重いし、紐も届かないだろ」

「頑張れば届くわ。ちょっと背伸びして上に投げれば、ちゃんと引っかかるもの」

「投げてる時点で届くとは言わない」


 ミリア同様、しゅんとしているアッシュを見る限り、おそらく彼もこの珍事の一端を担っているのだろう。アッシュをじろりと見る。するとミリアが慌てて口を開いた。


「少しだけよ。ほんの少しだけシーツが重くて…。もたついていたら、見かねたアッシュが手伝ってくれるって」

「アッシュが手伝う?」


 改めてミリアとアッシュを見やる。ここのところ毎朝、ミリアが丁寧にブラシをかけているアッシュの毛並みが、よく見るとある一部だけぐしゃぐしゃになっている。


「アッシュが背中に乗ってもいいって。でも、紐に手が届いた所で足が滑っちゃったの。だからアッシュは悪くないわ」

「わう…」

「…………………はぁ」


 いくら大型犬といえど、背中にまたがるでもなくその上に立とうなど、子どもでも中々考えない。地面に落ちた洗い直し確定のシーツをみて、さらに出そうになる嘆息をぐっと飲みこむと、無言で紐の位置を付け替えるダグラスだった。




「ミリア」


 先日、二回目の皇都からの荷物を受け取ったダグラスは、朝の雑事を終えたミリアを手招きした。ミリアは呼ばれるといつでもすぐに飛んで来る。


 ミリアはダグラスにすっかり懐いている。懐くというと語弊があるが、生活におけるあらゆる事柄を彼に教わったのだ。さながら親鳥の後をついて歩く雛のように、心酔するのはいわば当然である。


「少し日が空いたが、お前が森に現れた場所に行ってみようと思う」

「! 私も一緒に行く!」


 両手を合わせ懇願するミリアに、ダグラスは彼女の頭を撫でる。この頭を撫でるという行為は、すっかり彼の癖になった。どうにも仕草が可愛らしくてつい撫でたくなるのだ。


 彼女の長いアッシュブロンドの髪は、家事をするには邪魔で、ダグラスが毎朝一つにまとめて飾り気のない紐で縛っている。ちなみにこの紐はダグラスが目を瞑って切った、いつぞやの紐をちゃっかり再利用している。紐の出所をミリアに告げるつもりはない。


「元よりお前も連れて行くつもりだ。本当は次の日に行こうと思っていたが、お前が寝込んだからな。何かあるといいが」

「何かって?」

「んー、お前の身元の手がかりになりそうな何か」

「……身元」


 ダグラスは黙り込んだミリアをちらりと見て、受け取った荷物の中から女物の外套を取り出した。熱が下がり、いざ日常生活を始めるに当たって、足らない物のあまりの多さに、結局またハリーを飛ばす羽目になった。


 余談だが、二回目に受け取った物資の一つはダグラス用の寝袋である。自分用に寝具をと、ついでに頼んだらどういう訳か寝袋が届いた。ミリアに寝室を譲ったダグラスは、急ごしらえで作った簡易寝台を居間に置き、届いた寝袋で寝起きしている。町に出られるようになれば真っ先に寝具を買おうと心に決めている。長椅子よりかはマシだが快適には程遠い。


 そして、短期間に皇都まで二往復する羽目になったハリーには、たっぷりの肉を与えてから、今度こそ休暇を与えた。それでも、生活していると何かしら必要な物が出てくる。髪紐がそのいい例だが、そうそう気軽に頼める手段ではないので、代用品でどうにか過ごしている。



「ミリア、今日から上にこれを着ろ」

「これは?」

外套がいとうだ。防寒着ともいう。これを着ていれば多少の雪でも、服が氷つくこともない」

「これも暖かいよ?」


 そう言ってミリアが袖を引っ張ったのは、これまで着ていたダグラスの上着だ。外へ出る時に外套代わりに着せていたが、肩は完全にずり落ちているし、袖は四回折らなければ指先が出ない。


「いや、大きさ合ってないし、体にあった物を着た方が暖かい」

「でも、良い匂いなのに」

「――ちょっと待て。それは臭いって言うんだ! またの名を体臭だ! いいからそれ、こっち寄越せ!」


 着古した己の上着を、目の前でクンカクンカされては堪らない。ダグラスは慌ててミリアから上着をはぎ取って、真新しい外套を頭から被せた。


「良い匂いだよ?」

「頼むから忘れろ」

「家の中なら良い?」

「ダメだっ」


 ミリアは名残り惜し気にダグラスに奪われた上着を見てから、しぶしぶ華奢な上着に袖を通した。


(いちいち反応が斜め上すぎる…!)


 ようやく諦めたのか新しい外套を着て、アッシュに見せているミリアを視界の端にとらえながら、そっと手の中の上着の匂いを確かめてみるダグラスだった。


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