第3話 招かねざる客


  (3) 


 男がその光を見たのは偶然だった。秋の終わりにこの森へやってきた。愛犬のアッシュと何匹かの仲間を伴って、まずは生活するための基盤を作り、やがて訪れた厳しい冬の季節。ようやく冬の森にも慣れてきた。


 森で暮らすのは初めてではないにしろ、一人暮らし自体が初めてだ。最初は苦労したが、それも慣れてしまえばどうってことない。長居するつもりのなかったここに、腰を据えたのに特に理由はない。


 いつものように簡単な夕食を食べ、そろそろ寝る準備を始める頃に、めったに吠えないアッシュが激しく吠え始めた。その様子に彼の目線の先、窓の向こうに目をやると木々の向こうにまばゆいほどの光が見えたのだ。


「え?」


 瞬きする間にそれは消え失せていた。気のせいかとも思ったが、落ち着かないアッシュの様子に何かあると思い、夜の森へ踏み入った。一瞬だったが、見えた木々のシルエットからそれほど遠くではないと予測がついた。


 人を寄せ付けない夜の森のあまりの静けさに疑念が沸くものの、アッシュは迷いなくその足を進めていく。むしろ早く来いと言いたげなその素振りに、獣の感覚を信じて奥深くまで分け入った。



 真冬の雪降る夜の森の奥深くに、少女が居た。上を眺めてじっとしていた。ちょうど木々の切れ目なのか、彼女の立っている場所は男の場所よりずっと明るい。まるで少女が光っているようにも見えた。にわかに信じがたい光景には神々しさまであった。思わず妖精か精霊のたぐいかと男が思ったのも致し方あるまい。


 しばらく茫然と魅入っていた男は、ここがどこであるかを思い出し、警戒を強める。一番近い街道からでも、ここまで女の足で歩いて来られるような距離ではない。しかも今は夜だ。


 獣道まで知る男だからわかる。馬も馬車も使わずにここまで来ることは男の足でも無理がある。やりようによっては手段がない訳ではないが、この少女がその手段を使ったとは思えなかったからだ。


 余計に目の前の光景がにわかに信じがたく、やはり精霊の類か…?と首を傾げそうになった所で、しびれを切らしてアッシュが一声吠えた。慌てて思わず踏み出した一歩が、思いのほか雪を鳴らしてしまい、少女は弾かれたように男を振り返った。


 そこで少女だと思っていた相手は、年頃の娘に近い年齢で、見開かれた瞳が男の知るどんな宝石よりもきれいだったのだが、一切を飲み込んで男は重々しく口を開いたのだった。



 その後は、噛み合わない会話の果てに、薄着のまま雪の中を歩かせるという失態をおかし、ついには男の腕の中で意識をなくしてしまった娘を抱えて、男は愛犬と共に文字通り小屋へ駈け込んだ。


 さらにその後、現実は男を窮地きゅうちに落とし込むのだが、鋼の精神で濡れて凍った服を脱がし、大きすぎる男の洗いざらしのシャツを着せた。驚いた事に娘はワンピース一枚を素肌の上に着ていた。


 ミリアが落とされたこの世界より文明が進んでいた元の世界でも、下着をつけていない人形など山ほどある。履いていてもせいぜいかぼちゃパンツのような下履き一枚だ。


 上着を着ていないのをいぶかしんではいたが、まさか下着をつけていないなど、誰が予想しただろうか。脱がしたまま、数秒固まってしまった男を責められないだろう。その後、目にもとまらぬ早業はやわざでシャツを被せたので、よしとする。


 着替えで精神を摩耗させつつ、一つしかないベッドに寝かせようかとしたが、暖炉は居間兼食堂にしかない。普段なら男の高めの体温でじきに冷たい布団も温まるが、目の前の娘はなにせ体の芯まで冷え切っている。その証拠に濡れた服を脱がせても体の震えは止まらず、触れる指先は氷のように冷たいままだ。


「……」


 しばらく思案した男は娘をありったけの毛布で包み、ベッドの上掛けを剥がして暖炉の前の床に敷くと、娘を足の間に抱えて座り込んだ。せっかく暖炉の前を陣取ったのに、その娘の真ん前にアッシュがどっしり乗りかかる勢いで腰を下ろしたのには、男も閉口した。


「お前、誰が主人だと思っている? 本当に覚えてろよ」


 アッシュは素知らぬ振りでしっぽを振り、その頭を娘の上にポテリと乗せると目をつぶった。アッシュなりに小さな体を温めようとしているのかもしれない。確かに暖炉も温かいが、犬の体温もかなり高い。犬と男に挟まれた娘も、これなら寒さに震えることもあるまい、と男は自身を納得させた。


 教会の鐘の音が届かぬ森深いここでは、時間は正確にはわからないが、すでに深夜だろう。風が止み、雪だけが相変わらず静かに降り続いている。時々、木から雪の落ちる音と屋根の雪がきしむ音がする以外は、静かである。



 ――パチッ。


 まきのはぜる音にふいに男の意識が浮上した。いつの間にか男はまどろんでいた。窓の外は漆黒に覆われていて、夜明けはまだ遠そうだ。その時、彼の腕の中の温もりが微かに身じろぎした。


 ハッとして胸中の娘を見ると、色のなかった頬は赤みが差し、毛布の海の中の指先は、ほのかな体温が戻っていた。呼吸も落ち着いている。


 男は慎重に毛布を手繰り、足の指を確認する。幸いなことに軽度の凍傷で済んだようだ。これなら数日で赤みも取れるだろう。


 ふいに目線を上げ濡れそぼっていた娘の服を見た。簡単に雪を落とし、椅子にかけただけだが、朝には乾いているだろう。ただ、男が気になるのは乾き具合などではない。


 娘の着ていた服はよく言えば可愛らしい、現実的には酷く場違いだ。街へ買い物に行くにしても、この時期ならば街中の馬車での移動でも、毛皮のコートや、それか厚手の外套くらい羽織るのが普通だ。


 それが雪の降る夜の森に、突如現れたとしか思えない娘のいでたちは、薄手の膝丈ワンピース。長袖だから冬物と言えるかもしれないが、薄すぎる上、手袋や襟巻きの一枚も付けていなかった。(もちろん、下着は真夏でも付けるが)履いていたブーツは防寒靴ではなく街歩き用だろう。暖炉の前で乾かしているそれは、街からの距離の割には大した傷もついていない。


(それに…足跡がなかった)


 いくら雪が降っていたとはいえ、足跡が完全に消えるにはそれなりに時間がかかる。一歩も動かずそれを雪の中で待つのは、自殺行為だ。つまり森の奥深く、あの場所まで彼女が歩いてきたとは思えないのである。


(…やっぱり、妖精か精霊…とか? いや、そんな馬鹿なことがあるか? だったら誰かが転移魔法を…? いや、仮に転移魔法を使ったとしても時と場所くらい選ぶだろう)


 その上娘の言動もおかしな点だらけである。まるで初めて人に出会ったような…、と考えて男は緩く首を振った。


「明日、本人の口から確かめるしかないか」


 いくら考えてもこれ以上の答えは出ない。男は小さくつぶやくとしっかりと娘を抱えて立ち上がった。娘の膝上から落とされたアッシュが恨めしそうに顔を上げたが、無視をして寝室へ向かった。



 翌朝、男は固い長椅子の上で目を覚ました。暖炉に追加した薪は、すでに炭と化している。これまで苦楽を共にしてきた相棒のアッシュは、昨晩あっさりと主人を鞍替えしたらしい。一つしかない寝台に娘を横たえると、いつの間にか来ていたアッシュがそそくさと足元に乗り上がり、目を閉じたのだ。


 その変わり身の早さと、意外にも女好きなその行動に苛立ちを覚えたが、勝手にしろ、と言わんばかりに荒々しく扉を閉め、居間で一人ふて寝をしていたというわけである。あてにしていた温かい抱き枕もなく、ろくな被り物もない長椅子の上は、ひどく寝心地が悪く、ほとんど寝た気がしない。


 それでも今朝は雪も止み、日が差している。また天気が悪くならない内に昨日の場所へもう一度行ってみようかと考えていると、奥の部屋からアッシュの鳴き声がした。どの部屋も自力で開けられるアッシュは、めったに吠えない。


 いぶかしんだ男は寝室の扉をそっと開け、ベッドの脇に座っているアッシュを見た。その次に彼の目線の先に目を向けた。


「まだ、起きてないじゃないか」


 男は起こさぬようそっと近づき、顔を覗き込んだ。そこで異変に気が付く。頬がバラ色を通り越し赤く、汗ばんだ額には苦し気なシワが寄っている。慌てて額に手をやり、首元にも手をあてがい確かめた。


「熱が…かなり高いな」


 娘の身元確認はひとまず脇に置くしかないようだ。男は汗をかいている額を乱暴に拭うと毛布を一枚はがした。これだけ熱が高いと温めるのはもう逆効果だ。


「まいったな。ろくな薬がない」


 元より頑丈な男の一人住まいである。薬草の類で事足りるので、薬という薬を持ち合わせていない。今から町まで馬を走らせるのも無理がある。何よりこんな状態では一人にできない。さすがのアッシュにも町へ買い出しに行かせるのは少々荷が重すぎる。


「……仕方ない」


 男は眉根をよせてしばらく腕組みして考えこんだ後、小さな紙片に何かを書きつけるとそれを手に部屋を出て行った。




 男は名をダグラス・ゲーリック・ケントと言った。本来ならこのような深い森の奥で一人過ごすような立場ではないのだが、国の元首直々の命で、半ば強引に休暇を過ごす為ここへ来た。


 古い記憶を頼りにたどり着いた古家は、記憶よりずいぶんと小さく、長年放置されたままで、正直建っているのが不思議なくらいだった。足を踏み入れた室内は、意外にもあまり傷みはなく、そのままひと月ほど過ごしている。


 良い記憶と悪い記憶が混在するこの場所に、長居するつもりは毛頭なかったが、誰にも会わず、厳しい自然を相手にする生活は思いのほか彼に安息をもたらしてくれた。


 特に目的がなかった彼は、このまま一人で静かに過ごすのも悪くないと思うようになっていた。だが、早々に彼の思惑から外れていくことになる。


 ダグラスは少し氷ついている戸を蹴り開けると、きりっと冷えた外へ足を踏み出した。わずかに吐く息が細く白い尾をひいてたなびいた。数歩進み少し開けた場所で指笛を吹いた。



 ――ぴぃー…。


 長く細く吹いたそれは、朝の森に静かに響き渡る。音の最後まで澄み切った空気に吸い込まれると、森の奥で葉擦れの音がした。遠くに浮かび上がった小さな影は、見る見るうちに大きな影となり、まっすぐこちらへ迫ってくる。翼を開いた大きさは、軽く大人の両手を広げたくらいある大鷹である。すっと出した男の左腕にふわりと舞い降りた鷹は、ダグラスがズボンから出した餌を啄ばむと、姿勢を正した。



「悪いな、ハリー。しばらく休暇をやると言ったが一旦取りやめだ。あの人のところまで頼む。また埋め合わせしてやるから、頼んだぞ」


 ハリーと呼んだ鷹の足元に文をしっかりと結びつけると、頭を一撫でしてから大きく空へ放った。ハリーは空の王者らしく、一声高く鳴くと男の上を旋回してから、飛び去って行った。



「さてと、招かれざる客人はナイト気取りのアッシュに任せて。まずは……何はともあれ薬草か」


 ダグラスは一度小屋に入ると、外套を羽織って出てきた。小屋の周りは刈り取ってしまって生えていないが、本来いくらでも薬草は手に入る。町では手に入りにくい貴重な薬草もここでは群生しているのをよく見かけた。



「ルリジシャは季節的に無理か。ニワトコでもあればなんとかなるか…?」


 積もった雪に多少苦戦はしたが、目星をつけて掘るとわりとすぐに目的の物が見つかった。運のいいことに二日前に仕掛けておいた罠にきじがかかっていた。


「お、こりゃいい」


 雉のスープは風邪にはもってこいの食材だ。雉の丸焼きも男の好物だが、今回はスープに譲る。他の薬草は乾燥したものがいくつか常備している。薬草は薬としてはもちろん、ハーブとしても使えるものが数点。


 ただし、純粋に薬効目当ての薬草はせいぜい腹痛や傷薬といったもの。剣を握るようになってからは寝込んだ記憶のない男に、熱さましや風邪薬など鼻から頭になかったのである。


 昨晩の夜の散歩が原因なら数日で熱も下がるだろうが、年若い女の体力がどれほどのものかも、そもそも病人の世話などしたことがないのでまったくわからない。


 ハリーを送ったのは、悪化した場合を用心してのことだ。もちろん、素性の知れない女の出自や目的も気になるが、それは娘に話をきける状態になってからと割り切った。場合によっては街まで出ることも考えないといけないが、人となるべく関わりたくない人間としては頭の痛い話だった。



「まずは体調が戻ってからか。……しまった! ついでに寝具も頼めばよかった」


 今朝の寝起きの悪さを思い出したダグラスは、乱暴に頭をかきむしると、ハリーの消えた空を振り返り、大きく息を吐いた。


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