第2話 雪の中の出会い
(2)
―――クスクス…ねえ、うまくいったよ?
(え…?)
ささやく声に導かれて、うっすら開けた瞼の先に見えたのは、白一色の世界だった。自然と俯いていた視線の先には、すらりと伸びた二本の足。細い足にはモヘアのついた白い長靴下と、茶色いロングブーツ。膝丈ほどのふわりとしたワンピースは、裾に靴下と同じモヘアがくるりと裾を縁取っている。
(…何…が、起こっているの?)
ミリアは、恐る恐る手を持ち上げる。すっと伸びた腕の先にはやはりモヘアの飾りのついた袖口と、細くて長い白い指が見えた。指の先にはピンク色をした爪までちゃんと付いている。どんなに目を凝らして見ても古ぼけた人形には見えない。そもそも大きさが違いすぎる。そう、まるで人間にしか見えないのだ。
(…指、動く)
未だ夢心地の様子で、ミリアは指で顔に触れてみる。自由に動く手は触れた物の感触もちゃんと伝えてくる。
(私の顔、なの? 温かい…)
音もないまま降りつづける雪のせいなのか、彼女の指先が震えている。ここがどこなのか、ということより、彼女自身の変化に頭がついていかない。
頬を包む手にじわりと広がる温度が酷く優しい。深夜だけ動けていた頃にも自身の体温を感じたことはない。人形なのだから当然体温はない。
柔らかい頬を手で包み、そのまま上を向いた。真っ暗な空から白く光輝く粒が数えきれないほど舞い降りては風にあおられ浮かび上がる。ひらり、ひらりと小さな雪粒がミリアの額に、瞼に、鼻先に落ちてくる。
(…冷たい。けど、なんて綺麗なの)
空高く両手を伸ばして、降りて来る雪を手の平で受け止める。深い森の中、ミリアは自分の足で立っていた。その周りに飛ぶ光の粒の存在には気が付いていない。夢とも現実とも思えないふわふわした心地のまま、長い時間雪の中に立っていたミリアは、強く吹いた雪風に思わず目をつぶった。
――― 迎えがきたみたい。…またね。
わずかに空気を震わせていた微かな声は、風と共に跡形もなくきえた。
(さっきの声、どこかで…)
スカートの裾をはためかせた風は過ぎ去り、切るような冷たさが和らいだ時、彼女の後ろで犬の吠える声と、雪を踏む音がした。
「……っ!」
反射的に振り向いたミリアは、大きな目をさらに大きく見開いた。そこには彼女より頭二つは大きな人影と、その人影の腰辺りまである大きな犬がいたからだ。思わず一歩後ずさったミリアは、雪に隠れた石にかかとをひっかけてしまう。
「あっ」
(今の、私の声?)
自分が転びそうになっていることよりも、思わず口から出た声に驚いてしまったミリアは、まっすぐ後ろに倒れこんでいく。
「っと」
自然と上がったミリアの手を、目の前の人影から伸びた長い手がつかんだ。大きな手だ。何もかもが現実離れした状況の中、彼女がまず感じたこと。
「…人の手って、温かいのね」
気づけば、言葉がするりと出ていた。人影は奇妙なことを言うミリアを、自分の足で立たせるとすっと手を離し、一歩下がった。そのまま用心深くミリアの周囲を警戒するように見まわしてから、彼女に視線を向ける。大きな犬はしっぽを揺らしてミリアの周りをうろついている。
「アッシュ、こっちへ来い。勝手に動くな。……お前は、何者だ? なぜこんな夜の森にいる。どこから来た?」
前半は彼の愛犬だろう犬に向かって、後半はミリアに向けて。いぶかしむその声は低く、落ち着いているがまだ若い男だとわかる。アッシュと呼ばれた犬は男の声に、なぜかミリアの横に足を揃えて座り、ふさふさしたしっぽをせわしなく振っている。その様子に舌打ちした男は睨むように犬を見た後、ミリアにそのまま目を向ける。
ミリアは離された手を追っていた視線を、目の前の男に向けた。辺りは暗く、雪がほのかに発光したように見えるだけで、ミリアからは男の人相すらよく見えない。
「森? ここはあなたの森なの?」
「質問の答えになっていない」
「あなた、人間よね? 生きているのよね?」
「―――お前、何者だ?」
噛み合わない会話を打ち切り、男が警戒を強めた声色で再度問うたが、ミリアに答えられる訳がない。彼女自身、この世界に実在している現実を受け止め切れていないのだ。
――びゅうっ。
その時、ひと際強い風が二人の間の雪を巻き上げた。思わずよろけたミリアの腕を男は再び掴んだ。
「…とにかく、お前が何者であっても、このままでは二人ともあっと言う間にカチンコチンだ。来い。――アッシュ、あとで覚えてろよ」
男はミリアに脅威となる武器がないのをすばやく確認すると、再び腕を取ったまま歩き出した。アッシュはまるでミリアが主人だと言わんばかりに、彼女のそばから離れない。
ウィンドウ越しに犬を見たことがあるミリアは、近くに寄り添うように歩くアッシュにうっすら笑みを浮かべた。いつか近くで見てみたいと思っていたからだ。隣を歩くアッシュは町でみかけた犬より随分と大きいが、ふわふわした毛はさわり心地がよさそうだ。ミリアはアッシュに微笑んでから、目の前を歩く男の背中を見つめた。
(私、歩いているわ。今度こそ自分の足で)
チラチラと後ろを振り返る男に対し、まるで現実感のないミリアは、ただ男に手を引かれるまま、機械的に足を動かした。言われるがまま従うミリアに男はますます訝しむのだが、この雪降る夜にこんな深い森の奥に置き去りにはできない。確実に翌朝には冷たくなっているからだ。
妙な女を拾ってしまった、と思いつつも、冬の森に慣れてきた男ですら堪える寒さだ。何より男以外に一切懐かないアッシュが何故か彼女から離れようとしない。これまで一度もなかった行動だ。
アッシュはただの犬ではない。狼の血を引く山犬だ。子犬の頃に男が拾い、ずっと一緒に生きてきた。その並外れた頭脳と獣らしい本能に従った行動は信用できた。
その点だけでも、彼女に害意なしと一応の納得をして男は考えた。掴んだ腕に感じる温もりが消えない内に、小屋にたどりつくべく足を速めようとした時だった。
「ねえっ! あれってもしかして!」
「は?」
引いていたはずの腕を逆に引っ張り返されて、彼女が指さす先を反射的に見上げる。
「あれって、宿り木でしょ? おじいさんが言っていたのと同じだもの!」
「………」
返す言葉を失う男の眉間に深い皺が刻まれる。骨まで堪えるような寒風が容赦なく吹き付けてくるが、ミリアの頬はバラ色に染まっている。
「聞いていたのと同じだわ。まん丸だもの…、そこだけ緑なのね。素敵…。あら、でもおかしいわ。そういえば、まだ雪の季節じゃなかったのに…どうして…」
ミリアは自由な片手を頬に当てて首を傾げた。さきほどよりひどくなった雪がまるで見えていないのか、男は舌打ちしたいのを堪えて言った。
「気が済んだのなら、先を急ぎたいんだが」
「もう少し見ていたいわ」
「凍死体になりたいのなら止めないが、俺は勘弁だ」
「…とうし…なに? 死体って言ったの? 死ぬってこと? なぜ?」
ミリアは首を傾げて聞き返していると、ようやく自覚したように急に大きく体を震わせた。耐えきれず結局舌打ちした男は有無を言わさずミリアをグイっと引き寄せ、腰を落として目線を合わせると、鼻先に指を突き立てた。
「いいか、死にたくなければ俺の言うことを聞け。あと半時もここにいれば、足の指の一本や二本、凍って失うことになるぞ。お前さんの頭の中については後で色々確認したいことがあるが、今は何も見るな、止まるな、考えるな。前だけ見て歩くんだ」
「考えるのも、ダメなの?」
すでに歯の根が噛み合わず、ガチガチ震えながらミリアは反論するが、男は赤くなった彼女の鼻を摘まんで言った。
「口答えも却下だ。返事は『はい』これしか認めない。わかったか」
「……わかったわ」
はいと答えないミリアに男はまた舌打ちすると、背を向けて歩き出した。
(この人、また舌打ちしたわ。おじいさんがそういうことはむやみにしちゃいけないって子どもに言っていたのに、大人になったらいいのかしら? それとも単にこの人のお行儀が悪いだけなの?)
腕をつかまれたままなので、ミリアもついていくしかない。彼女が歩くとアッシュもその横にぴったり寄り添っている。その様子も無性に男をイラつかせているのだが、ミリアにわかるはずもない。
彼女はそっと後ろを振り返り、木の上の宿り木をもう一度見ようとしたが、白い雪風ですでに木がどこにあったのかもわからなかった。
(これは、本当にすごい雪なのかも)
背中をぞくりと震わせたミリアは、目の前の大きな背中だけを見つめて懸命に足を動かした。
「ワォン!」
「なんだ、アッシュ。…おい、止まるなと言っただろう」
再び足を止めたミリアを振り返った男は、ギョッと目を見開いた。一声上げたアッシュは、しっぽをだらりと下げてミリアを見上げている。
「ごめ、なさい…。もう、足、動かな…」
少し前にバラ色をしていた頬は血の気を失い、艶やかだった唇は紫色に変わり、掴んだ手は震えが止まる気配もない。改めてミリアを見た男は、己の失敗に気がついた。
ひらひらとしたワンピースは雪が張り付いて凍っている上、膝丈しかない。かろうじてブーツを履いているが、どうみても街歩き用だ。水を吸った皮は下半分が黒く変色し、この分だと中まで水がしみ込んでいるに違いない。
「なんでそんな恰好で雪山に…、いや、今はそんな場合じゃないか。くそっ」
すでに喋ることもできず、ガチガチ震えているミリアに自分の外套の下に巻いていた襟巻を引き抜き、頭からすっぽり覆い首に巻いて結んでやる。氷のような両手はどうにか合わせて胸の前に組ませると、膝下からすくい上げるように男が抱え上げた。ほっそりとしたミリアは、大型犬のアッシュの半分もないように軽かった。
「そのまま顔を伏せていろ。あと、絶対に寝るな。本当に二度と朝日を拝めなくなるぞ」
むき出しの足ごと、男の外套の中に抱き込むと、ミリアを担ぎ上げたまま速足で歩き始めた。アッシュは今後こそ男の前を先導して歩き始めた。
(…温かい。人ってこんなに温かいのね…)
薄れていく意識の中で彼女が考えていたのは、そんなこと。未だ、現状が何一つわからないまま、彼女は意識を手放した。
「おい、寝るな。おいっ。くそったれ!」
反応のなくなった彼女をしっかりと抱えなおすと、男は大股で走りだした。その視線の先に、小さな光が見えた。
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