第26話 空音の記 12 941年/2017年 境界
「ああ、おひぃさま、もう僅かでおじゃります」
悲痛なききょうの声が遥か下の方から聞こえて来た。その声に思わず
「何でこんな目に遭わなきゃいけないのよ」
歯を食いしばりまっすぐ前を見上げる。星は、今やまともに見ることが出来ないほど強く輝いている。その光の中に包まれた木の頂上までは、もうあと5メートルほどだった。
辿りついたらどうなるのかは分からないけれど、辿りつかないとどうにもならない事だけは分かった。
だが、その光を掻き消すように再び黒雲が辺りを包み、激しい音と共に雨が体を撃ってきた。嗅いだことのない悪臭がますます強くなって鼻をついた。その向こうで激しい息遣いと咆哮が聞こえてきた。あっ、という晴明の声がして、一段と激しい雷光が走った。
その光が背後から木を照らし出し、見下ろした私の眼に榎のもとで倒れている晴明の姿が見えた。
「晴明っ」
声を限りに叫んだ私に黒龍が向き直った。爛々と輝く赤い眼がひたと私を見詰め、長い髭がぶるりと満足げに震えた。
私は悲鳴を上げた。声の限りに。
黒龍の姿が闇の中に浮き上がる。青い光が昏く全身を包み、次第にそれが明るさを増していく。そしてその青い光がもはや龍の姿と見分ける事もできなくなったその時、光は身をくねらせるようにして私に襲いかかってきた。体を竦めた私の眼の片隅に地上から一筋の白い光が青い光めがけて突き上げるように
どん・・・・。激しい音と震動と共に共に数十メートルの青い光の柱が私の背後を掠めて墜ちた。榎の幹が激しく揺れた。かろうじて私は幹の上に留まっていられたが、どうやってそんな事ができたのか、今でも分からない。
再び気を取り戻した時、ポラリスの照らし出す光の下、黒龍の姿は掻き消えていた。下を見ると何百という光の珠が浮かんでいて一つ一つゆっくり空に昇って行くのが見える。その中に、あの魑魅魍魎どもが一つ一つ封じ込められている。私を襲った、あの「よりまし」が眠るように閉じ込められた珠が私の横を掠めて行った。
「きれい」
それが相応しい表現なのか分からなかったけれどその様子はこの世の物でないほど神聖な物に思えた。最後の一つが空の彼方へ消えて行くまで目を離す事さえできなかったが、見送り終わった時突然はっと正気に戻った。
みんなどうなったのだろう。木の上から見渡すと右馬の介様は榎の根元に倒れていた。ききょうが立ったまま空を茫然と眺めているのが見えた。晴明の姿はどこにもなかった。晴明っ、と叫んだ途端、暫くじっと動かなかった装束が再び私を持ち上げようとする感覚が伝わってきた。
「ききょう」
私の叫びにききょうがこちらを仰ぎ見た。胸元を探るとあの竜と虎を象った飾り物が手に触れた。必ず一つは身につけていてくださいと言った安倍さんの言葉を思い出し虎の飾りを胸元に戻した。龍は・・・もう悪さをしない、そう思ったのだ。
「これを右馬の介さまに」
声を限りに叫ぶと私は龍の飾りをききょうに放り投げた。反動で一瞬木から転げ落ちそうになったけど装束が柔らかく私を支えてくれた。そして、私は決然と上を向くと更なる高みに向かって這い上がっていった。
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