第24話 空音の記 11 941年 初秋

「時が満ちました」

 晴明は静かに言うと北の空に眩しい光を放つ星を指した。

「きれい・・・」

 夕闇を背景に宝石のように輝く星をみて私は呟いた。

「さあ、あそこへ向かうのです」

 晴明は私に命じた。 

 だが・・・、その意味を聞こうと私が晴明を見た時、ききょうがあげた魂切たまぎるような声があたりの空気を震わせた。振り向くと南の方から黒雲が疾風のように近づいて来るのがはっきりと見えた。その方向から生臭いにおいの混じった暖かな空気が吹きつけて来る。

「あれは何?」

私の問いに答える事もなく晴明は忌々いまいましそうに

「やはり来たか」

と舌打ちをして、

 「さあ、早くこの木に登ってください」

そびえ立っている一本榎を指し示した。

「どうやって?私には無理よ」

木の幹は私の腕周りの倍以上ある。一番下の枝でさえ、遥かに手が届かない。

「大丈夫です。手で木をあの星の方に向けて押してください」

こんな大きな木が動くわけないじゃない、と思いながらも私は祈るような思いでその木を力いっぱい押してみた。ふと、木の幹が柔らかく傾いだように感じた。まさか・・・私が急に力持ちになったわけじゃないよね?

「そのまま、じっと手を当てているだけでいいのです」

 木はみるみるうちに傾いていく。それに気づいたききょうが悲鳴を上げた。

「おひぃさま。あぶのうございます。木が倒れます」

 その声を聞いて私は晴明の顔を窺ったが、晴明は軽く首を振ってそのまま続けよと眼で語りかけてきた。

 ききょうが祈る様にひざまずいた。

「おひぃさま、ききょうはもう贅沢は申しません。いつまでも今のままのおひぃさまで宜しゅうございます。お戻りくださいませ。なにとど、なにとど」

その声を聞いて木の傾く速度が落ちた。

「どうしたのですか?」

晴明が鋭く問いかけてきた。

「早くせねば。奴らが近づいて来る」

もう一度掌を木に押し当てつつも私は泣いていた。あんなに必死になって私を止めようとしてくれている人がいるという事に。私を助けようと祈ってくれる人がいることに。私は混乱していた。ほんとうにここを去っていいのだろうか?

 木の傾く速度はゆっくりのままだった。

 だが、京の方から次第に大きくなってきた雷鳴に、私は涙を拭いて振り返った。すると、黒雲の下で必死の形相をした男や女や、魑魅魍魎ちみもうりょうたちが争うようにこっちへ向かってくるのが見えた。その先頭には、きつね落としにやって来た霊媒師とよりましが、私を指さしながら何かを叫んでいる。それに幾千もの妖怪が続いている。まるで・・・何かの本で見た百鬼夜行の絵図そのものだ。

あんなのに出会ったら・・・。どうみても選択肢は他にはなさそうだ。心を決め力を込めて幹を押すと木はぐっとかしいだが、突如、頂上が白く明るく輝いている星を指して止まった。

「さあ、もう登れます」

 晴明は私を促した。こんな重たい衣装を着たまま本当に上れるのだろうか。生茂った枝も邪魔だと思った時、ばさりばさりと音がして榎の枝が次々と地面に落ちてきた。まさか、この木も偽物?思わずすぐそばに落ちてきた小さな枝を折り取ってみたが枝自体は本物だった。いったいどうなっているんだろう。呆然と枝を手にしている私に向かって、

「さあ、早く」

晴明が再び鋭い声を発した。幹に手を掛けるとふっと体が浮いた。着物が榎の幹と反発する様に私の体を浮かしている。さっきとは比べ物にならない強い力だ。晴明が小さく頷いた。

 手で幹を掻くだけで体は上へ上へと登って行く。今まで味わったことのない感覚だった。本当は高所恐怖症だけど、そんな事は言っていられない。というか、迫ってくる妖怪たちの方が恐ろしかった。どんな他の死に方をするより・・・たぶん、妖怪に食われて死ぬというのは嫌だって・・・思いません?

 這うようにして10メートルほど登った時だ、青白い光が激しい音と共に煌めき私は幹にしがみついた。

 こわごわと振り返るとあたりを黒雲がすっかり空を覆っている。晴明の姿も見えない。

 何かの気配がして、見上げると黒雲の中にひときわ黒い影が立つようにして浮かんでいる。その形は・・・

「龍?」

 真っ黒の長い影の頂点で二つ赤い星のように輝いているのは眼だ。私を見据えている。妖怪も嫌だけど・・・龍も勘弁。なんで・・・こんなものを相手にしなきゃならないの?悪夢なら醒めてほしい・・・。

 だが、それが現実だった。その龍の前足の爪の間には火花のような光が瞬いている。にやりと酷薄な笑みを浮かべると、火花を散らしながら前足が振り上げられた。その振り上げた前足の向かっている先は明らかに私の体だった。

「もう、だめ・・・」

体を丸くして衝撃に耐えようとした私の周りで激しい音が轟き、閃光がきらめいた・・・。死ぬ・・・。お父さんお母さん、ごめんなさい。声も出せずに心の中でそう謝った私に・・・、だが、・・・なぜか衝撃は襲って来なかった

おそるおそる振り向くと一条の光が空に向かって消えて行くのが見えた。黒雲が破れるように退いた。いっそう輝きを増した星の光を受けて、私と黒龍の間にいつのまにか現出して黒龍に対峙しているのは銀色に輝く一枚の丸鏡だった。

 自ら放った雷鳴を反射した鏡の力で受け黒龍の前足は無くなっていた。そればかりか星の光を受けた鏡の輝きで黒龍が怯んだように後ずさった。下を見ると、榎に辿り着いた魑魅魍魎たちが懸命に上って来ようとしている。だが取りつく枝もなく一メートルほど登ってはずるずると堕ちて行く。

 そして・・・。

 晴明が抜いた剣が星の光を受けて一筋の光を放った。

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