第23話 ききょうの回想 7 天慶3年 長月

 日の落ちるころ、わたくしと右馬の介さまはようやく船岡山の一本榎が見えるあたりに辿たどり着いたのでございます。右馬の介様の背と馬の綱につかまっている手はとうに痺れてきておりました。

 「ききょう殿、大丈夫ですか」

 馬の歩みを止め、そう尋ねた右馬の介様の殊の外優しい労りの言葉の響きにわたくしは、はい、と答えました。

「それよりも急がねば。もうそろそろ酉の刻でございましょう」

 わたくしがかしますと、

「さようですな、では、しっかりとお掴まりあれ」

横腹をくつで叩かれいきり立った馬の背にしがみつきながら、わたくしは姫様の御無事だけを一心にお祈りいたしておりました。

「あの一本榎には伝説があるのですよ。ご存知でしたか」

右馬の介様が背中越しにお尋ねになります。

「いえ」

「遥か昔、唐より一人のおきながやってきてあそこに木の苗を植えたのです。すめらぎの御代もまだ始まっていない頃だと言うが・・・」

「そんな昔の話で・・・」

 跳ねた馬のせいで、私は言葉が続きませぬ。ですがそこは右馬の介様は平生、馬に乗りなれておられるのでございましょう、平然と、

「ええ。木の前で翁が祈りますと、その苗がたちまちすくすくと天に昇るような早さで伸びたそうです。驚く人々の前で、『さてこれほど伸びれば他の木に負けることはなかろう』と呟くと『世が乱れた時にこの木がそなたらの子孫を助けてくれるであろう、決して切り倒してはならぬ。さようなことを試みればその者には呪いが掛かろう。こうわしが申したと必ず言い伝えるのだぞ』と告げるなり翁はふっと姿を消したそうです」

 と淀みなく申されたのでございます。

「まあ、さようなお話が・・・存じませなんだ」

「その後、教えを聞かず木を切ろうとした者たちもいたそうです。ですが斧に雷がおちたり、手が滑って足を落としたりと様々な怪異があってやがて木を切ろうとする者はいなくなったそうです。今は木の周りを神域としてぬさで囲ってあるそうですよ」

「まあ。恐ろしいお話ですこと」

 私は眉をひそめたのでございました。

「左様な場所で・・・晴明め、何を考えているのか」

やがて一本榎の姿が次第に大きくなり、暮れなずんでいく風景の中、佇む二人の姿がうっすらと見えて参ります。あちらも私どもに気が付いたようで姫様と思しき人影がこちらに向かって手を振っておられます。まあ、はしたないと思うと共に安堵あんどの思いが満ちて参りました。

「どうやらむりやりにとらわれているわけではないですな、まずは安心」

右馬の介様は私を振り向くとそう仰られました。更に馬の歩を進めますと、

「よう来たな、右馬の介」

安倍さまのお声が響きました。右馬の介様はそれには答えず馬から降り立ちますとわたくしに手を貸して下さりました。足許はふらふらと怪しゅうございましたが、

「おひぃさま」

と叫んで駆け寄ろうとしたわたくしに安倍さまは、手を前に、

「そこまで」

厳しく咎めたのでございます。棒立ちになったたわたくしを姫様は何とも言えぬ表情で眺めておられましたが、

「ききょう、会えてよかった」

と一言だけ仰ると眼に涙を浮かべられたのでございます。

「危害を加えようとしているのではない。そこより先には進めぬのだ」

落ち着いた良く通る声でそう仰ると、

「右馬の介、久しぶりだな。元気にしておったか」

と懐かしげに尋ねられます。右馬の介様は黙ったまま安倍さまを睨んでおられましたが、

「晴明、姫を返すのだ」

低い声で応えたのでございます。安倍さまは、

「おぬしには分からぬだろうな」

微かに首を振ると、わたくしに向かって

「ききょうどの、姫様はお返しいたしますぞ。安心なさい。ですがこの娘は私に預らせていただきます」

と仰ったのでございます。やはり・・・姫様は別の世界からやってきたお方なのかもしれぬ、と一瞬思いましたが、このままでは何が起こるか分からず、私は

「そこにおわされる姫様が本当の姫様でございます。幼き頃より見奉って参りました」

とわななく声で申しますしたのでございます。安倍さまが・・・まことの事を申されているのか、私共の味方なのかそうでないのか、分かりかねたのでございました。

「姫を返せと申しておろう」

右馬の介様といえば、姫様は目の前の御方と信じておられますので本気で大声をあげ、姫様に駆け寄ろうとなさいましたが、目に見えぬ壁のような物に打ち当たり撥ね返されます。

「おのれ」

声を更に張り上げ、右馬の介様は二度三度と突進なさいましたが勢いを増せば増すほど激しく撥ねかえされ、叩きつけられた地面に手をついたまま右馬の介様は悔しげに安倍さまを睨みつけたのでございました。

安倍さまは右馬の介様を眺めると、

「右馬の介、聞くのだ。姫は必ず返す。黙ってそこでこれから起きる事を見ていてくれ」

「何を言っておる。お前のふざけた話など聞く耳持たぬ」

そう言うと右馬の介様は、手にした刀でこちら側とあちら側を遮っている結界を叩き割ろうとなされます。

「ならぬ、右馬の介。その剣はさような事のためにお前に渡したのではない」

安倍さまの一喝いっかつに右馬の介様がたじろいだその時でした。まるで沈みかけていた日がいま一度昇って来たかのようにあたりが白々と輝き始めたのです。仰ぎ見ると北の空で妙見菩薩めうけんぼさつのお星が俄かに光を増しております。間をおかず京の町の方から全ての寺の鐘が鳴ったかのような音がして参りました。

 見遣ると京の空に黒い雲が立ち、その中に数多の稲光が縦に横にと走っております。

「あちらを、みやこの方から・・・」

 わたくしが叫ぶのと同時にくねる様にうごめいておりました黒雲がこちらをめがけてはしる様に近づいて参ったのでございました。

「なんじゃ、あれは」

そう叫ぶと右馬の介様は刀を構え直したのでございました。

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