第17話 空音の記 941年 晩夏
何か重いものが落ちる音と男の叫び声を聞いたような気がして、くっきりと目が覚めた。あたりは真っ暗。闇の中で
それっきり物音はしてこない。夢?いや、それにしてはリアルな音だった。改めて耳を澄ますと、どこからか微かないびきの音が聞こえてくる。ききょうのいびきのようだ。
「ききょう?」
声を掛けたが答えはない。廂に寝ているききょうの方が音に近かった筈なのにと思いながら寝ている辺りに這って行き、揺り起こした。
「なんでおじゃりますか」
寝ぼけ声でききょうが答えた。
「外で音がしたの。悲鳴も聞こえたわ」
「左様な事があれば殿居の者が気付きましょう。夢でおじゃりましょ」
ききょうは少し機嫌の悪そうな声を出した。
「でも確かに音がしたのよ。盗人でも入ったのではないかしら」
「しかたがおじゃりませんね。火を貰って参りましょう」
めんどくさそうにそう言うと、むくりと起き上がってききょうは出て行った。何か物音が聞こえないか耳を澄ましてみる。クサヒバリの鳴く優しい音色に混じって、スイッチョの凛々しい声やクツワムシのがちゃがちゃと騒々しい音色が遠く近くで重なって聞こえて来る。
やがて戻ってきたききょうは手に灯りを持って、
「殿居が居眠りをしておりました。叱りつけてきましたが、何かそれからは?」
と少し緊張した声で私に尋ねた。
「何も聞こえてこなかったけれど・・・」
「では、庭を少し見て参りましょう」
「私も行くわ」
「いえ、おひぃさまはここにおいでくださいませ」
そう言われたものの、私は明りを頼りにききょうの後をそっとついて行った。ききょうは立ち止まると明りを掲げ庭を照らし出して右に左にと振っていたが、
「何もないわねえ」
と呟いた。その時私の眼にふと庭の片隅に赤い布のようなものが映った。
「あ、あれ」
その声にききょうは慌てて振り向くと
「な、なな・・・」
と声を上げて腰砕けになった。
「おひぃさま、待っていてくださいと申し上げましたのに」
声は半泣きだった。
「いいから。あそこに何か赤いものが見えるでしょう。照らしてみて」
「そうでおじゃりますか?」
答えはしたものの腰を抜かしたまま立ち上がれないききょうから明りを取ってさっき物が見えたあたりを照らし出す。
「ほら、あそこ」
赤と白の装束らしい物から不恰好に竹ひごのような物が突きだしているのが見える。
「たしかに何かおじゃりますね」
じっとその方向を二人で見守ったが、それはぴくりとも動こうとしなかった。
「何かしら」
「見た事のないものでおじゃりますね」
と言いつつ、ききょうは根を生やしたように動こうとしなかった。業を煮やして肘でつつくと、ききょうは仕方なさそうにおそるおそる声を張り上げ
「誰かおるのか」
と震える声で問いかけたが答えは返って来ない。ききょうと私は顔を見合わせた。
「誰か呼びましょうか」
ききょうの呟きに、
「そうね、そうした方が良さそうね」
私が答えた時、うううと短く唸る声が聞こえた。この声は・・・
「ちょっと待って。見てくる」
灯りを手に進もうとすると
「おひぃさま、あぶのうおじゃります」
ききょうが私の手を掴んだ。それをしっと制し私は庭の隅の得体のしれない赤い
あ。ヒロくん・・・、じゃなかった。
「右馬の介さま?」
呼びかけた声が耳に届いたのか、右馬の介様は薄く眼を見開いて慌てたように袖で顔を隠した。
「何をなさっておられるのです?」
袖で隠したまま右馬の介様はただ頭を振っている。
「大丈夫、右馬の介様よ」
呼んだ私の声に
「え、またでございますか?」
呆れたような声を出したききょうを手招きし邪魔な竹ひごを外すと二人で肩を貸して右馬の介様を何とか簀子まで運んで行った。部屋の灯りでよくよく見ると、今度は女の衣装を截ち切ったようなものを背負っている。女装癖でもあるのかしら、この人?
「だいじょうぶでございますか」
顔を隠したままで右馬の介様は、顔を隠したまま、うんうんと頷いた。
「どう致しましょう、御隣から人を呼びましょうか」
尋ねても右馬の介様は首を横に振るだけだった。むかし家で飼っていた雑種の駄犬が機嫌を損ねた時に毛布に隠れ、していた仕草とそっくりだった。
「どうなさりたいのですか、右馬の介様?」
きつい声を出すと漸く蚊の鳴くような声で右馬の介様は答えた。
「さほどの事ではございませぬ。暫く休んでおれば大丈夫」
「築地を越えて来られたのでしょうか」
ききょうが顔を顰める
「でもいったい何でこんな格好をしてるのでしょう」
「築地を乗り越えるには邪魔でございましょうにねぇ」
怪訝そうに呟いたききょうに
「もしかしたら空を飛ぼうとしたのではないかしら。ほら御隣の松の枝から」
私が言った途端に右馬の介様がぴくりと体を硬直させた。
「そのような馬鹿馬鹿しい」
ききょうは笑うがこの右馬の介様の様子を見ている限り図星に違いない。まあ、何て無茶な事を。
「ここは痛みませぬか、こちらはいかが?」
とあちこち手で押して尋ねてみたが、どうやら骨は折れていなさそうだった。
「それにしてもかような夜中に・・・いったいどういう積りでございます?」
顔を隠している袖を
「姫様に一目お会いしたくて」
しぶしぶと答えた右馬の介様の一言に私はぷっと吹いてしまったけど、ききょうは右馬の介様の頭にでた瘤をぽんと軽くはたいた。普段なら隣家の長子、そのような真似は決してしないのだろうが、よほど腹に据えかねたらしい。
「いたいっ」
右馬の介様が上げた悲鳴に
「静かにしなされ、真夜中でございます」
とききょうは容赦がない。
「姫様はまだ裳着も済ませておられぬのですよ。そのような所に通おうとなされるとは」
「わたしは、今のままの姫を貰い受けたいのです。ですから裳着などせずとも」
え、貰い受けたいって。こんな時間にこんな格好でプロポーズ?
「なんと、まあ・・・」
ききょうも呆れたような声を出して私に鋭い視線を向ける。私は慌てて、違う違うと手を振る。確かに裳着は拒否しているけど、それは右馬の介様の為ではない。ききょうは暫くの間沈黙していたが真夜中に言い争っても仕方がないと言う穏当な結論に辿り着いたらしく、
「ともかくも今夜のところはお帰り下さいませ」
と右馬の介様を突き放した。
「しかし、まだあたりは暗い。暫くここに置いて頂けませぬか」
右馬の介様は憐れっぽい声を出す。
「夏の夜は早いもの、明るくなってはそのようななりで外を歩けますまい。こちらは姫様とお話がありますので、とくとお帰り下さいませ」
ききょうの言葉に項垂れた右馬の介様は
「仕方ございませぬ。されど姫お手ずからの介抱を頂け嬉しゅうございました」
と深々と頭を下げた。随分とポジティブな人だな。思わず頬を緩めた私を右馬の介様に付き添って裏の木戸へ行きかけたききょうが凄い眼で睨んできた。
「あの方とは本当に何もないのよ。確かに陰陽師の方とご一緒に来られたけど。でもほんの僅かな間だったし」
戻って来たききょうは怖い顔をして私を睨んだ。
「やはり、あの怪しい按摩生は右馬の介さまでおじゃりましたのですね」
あ、
「でも・・・あの時はあなただって一緒だったじゃない。寝ていたけど」
それを言われると弱いらしくききょうは目を伏せた。
「ですが、あれは変でございました。突然眠くなるなんて」
「変て言われてもねぇ、わたしのせいじゃないし、ききょうが居眠りしなければ良かっただけ」
私がしらを切ると、ききょうは何やら考え込んだ。何か攻撃材料がないのか、考えていたらしいが、はた、と手を打つと、
「ではお伺いしますが、姫様は龍と虎の珠をお持ちでございますよね、あれは右馬の介様から贈られた物ではございませぬか?」
「あ、あれ?違うわ」
私は速攻で答えた。すると、
「ではどなたから頂いたものでございましょうか?」
としつこく尋ねてきた。う、ちょっと・・・。
「あれは元から・・・持っていたのですよ」
「嘘を御つきになるのはおやめくださいませ。おひぃさまのお持ちの物はすべてわたくしは存じ上げております。あのような物、以前はお持ちでございませんでした」
「あれは・・・実は安倍さんが」
「安倍さま?ではあの陰陽師の方からでございますか?いつ?」
畳みかけるようにききょうは攻撃の手を緩めずに問い質してきた。
「ええと・・・」
貰った時は手品師だったんだけど。どう言い訳してもうまく説明はつきそうになかった。でもききょうは贈られた経緯より目的の方が重要みたいだった。
「あれは・・・おひぃさまへの求婚の贈り物ではございませぬか?」
「いいえ、まさか・・・。病を防ぐためのお守りみたいなものだって仰っていたわ」
ききょうは疑わしそうに暫く私を見詰めていたが、突然
「それでおひぃさまはどちらの殿がお好きでございますの」
と尋ねてきた。
「えっ?」
意外な問いにたじろいだ私に
「おひぃさまがどなたとご一緒になるかは私どもにとって大切な事でございます。良き殿と結ばれれば私どもも後々安心して暮らして行けますので」
と妙にリアリスティックな事を言い出す。
「・・・」
無言で見詰めた私に、
「右馬の介様と言えばあのような方でございますが中納言様の長子でございます。他のお子は皆女でございますから家を継ぐのは右馬の介様。氏の長者としては心許ないところもございますが世に出る事もございましょう」
ききょうは滔々と自論を述べた。
「はあ・・・」
お姫様も大変だ。自由気ままに生きていけるわけじゃなくて、侍女の暮らしまで考えて生きていかねばならぬらしい。
「とはいっても、ふじわらの家のお生まれではございませぬので母君が反対なさるかもしれませぬ」
ききょうは多少悩ましげに顔を顰める。何を一人で盛り上がっているんだか・・・
「陰陽師の御方はたいへん勢いのあるお方と聞いては居りますが、殿上におあがりになるのは難しゅうございましょう。陰陽の頭となられても五位が精々。見栄えはだいぶ優っておられますがやはりご身分が低いのが難でございますね」
「そうなの・・・ですか」
淀みなく意見を語るききょうに私は小声でそう答えた。
「さあ、いずれの御方?」
きっとした目でききょうは答えを迫った。私はただ、首を振るしかなかった。
「なら、右馬の介様ということでよろしゅうおじゃりますね?だとしたら、あのような愚かな真似を即刻やめさせるために、文をいただいたらお受けになってくださいまし。そうすれば北の方もおそらくは反対なさらぬでしょう。殿方と一緒になればおひぃさまの奇行も止むとお考えになられましょうし」
翌日。大胆極まる行為をした癖に文一つ寄越さないとはどういう積りでございましょうとききょうが文句を言い始めた。そんな事私に言われても困るんですけど。
「あのお方には
怪我だらけの右馬の介様をこてんこてんにやっつけた癖に・・・。何を言っているんだか。
「意外とひどい怪我だったのかも」
そう言うとききょうはじろりと私を見て
「いえ、ちゃんとお立ちになってお一人で歩いて行かれました」
と反論した。
「でも、後遺症もあるだろうし」
「なんでございますか、そのコウイショウというのは?」
「なんでもない。ほらその時は大丈夫でも後で痛んで来るっていう事があるじゃない」
「あの方に限って。お名前の通り体だけは馬のように頑丈でございます」
「まあ、ひどい」
「ひどいのは右馬の介様の方でございます」
憤懣やるかたないという風情なのは私の代りに怒ってくれているのかもしれないけど愚痴を私に向けるのはやめてくれないかな。
ききょうは文句を言っているが右馬の介様は悪い人ではなさそうだ。多少、いやずいぶん変な所があるし、女装癖が本当にあるようじゃ困るけど、誠実そうに見える。まあ、ききょうの目には破れ鍋に綴じ蓋みたいに映っているのかもしれないけれど、ありのままの私が好きと言ってくれたのも嬉しかった。万一、私がこの世界にとどまらずを得ないんだったら、あんな人と暮らすのも悪くないかも知れない。
でも元の世界に戻ることが出来るなら・・・。私は戻る方を選ぶだろう。ここにいるのはなんだかんだと言ってみんな根は良さそうな人達だけど。
本物のお姫様がこの体に戻ったら右馬の介様とお姫様はどうなるんだろうか?ききょうから聞いたお姫様はずいぶんと大人しい人みたいだし。破れ鍋の方は割れたままで綴じ蓋の方がお上品、というのは無理かもしれないなぁ。
私なら右馬の介様を好きになるかもしれないけど、とふと頬を赤らめ。
ほととぎす鳴けや皐月のあやめ草あやめも知らずするが恋かな
と口ずさんでみた。
ほととぎす鳴くや皐月のあやめ草あやめも知らぬ恋をするかな
有名な歌を変えてみただけ。でも、本歌取りっていう高等技だ。「ほととぎすよ、いくらでもないてごらん、そなたが鳴く五月に咲くあやめという花の名の、その
あやめ(道理)というのがないのが、恋と言うものですよ」という意味。われながらあっぱれ、と思ったのだが
「まあ、さような・・・貫之さまが何と仰せになられますか」
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