第15話 空音の記 7 941年 晩夏

 教えられるがまま、手習の歌を書き終えると、私は「先生」に提出・・・、じゃなくて私の脇でじっと私の筆さばきをみつめていたききょうに手渡した。

 相も変わらずミミズののたくったような字ではあるが、こつさえ掴めばミミズもそれなりにきちんと整列してくれる。

 「だいぶ筆遣いも良くなられましたね」

ききょうが褒めてくれた。

 手本の上に書いてあった伊勢大輔という歌人の名前を見てひそかにわたしが「だいすけ」さんと呼んでいるその歌人の歌は、

あひにあひてもの思ふころのわが袖に

     宿る月さへ濡るる顔なる

という、習った中で私が一番好きな歌だ。月が泣き顔になるなんて考えた事もなかったけど、そんな風に言われるとつい月を見上げてみたくもなる。

 風流ってそういうことなのかしら?

 私も両親や友達を「あひにあひて」、つまり四六時中会っていたのに、会えなくなった今は涙に濡れた顔。「だいすけ」さん、気持ち分かります・・・。

 いや。今はそんな風流に浸っている時じゃない。何としてもみんなにもう一度会えるようにしなきゃ。

 それに・・・ききょうが教えてくれた、これは恋歌だ、と思うとなんとなく悔しくなる。誰もが一度はするはずの高校での恋愛経験もない私が、よりにもよってなんでこんな奇妙な体験をしなきゃならないの?

 そんな思いをいだきながら

「それで・・・こたび来られるその・・・陰陽道をなさる方と言うのはどのようなお方なのですか?」

 と呟いた私の声は微かな愁いを帯びていたのだろう。それを聞いて

「おひぃさまもずいぶんと女らしゅうなられましたこと。お声が今までと異なりになって、耳に心地ようおじゃります」

 ききょうは嬉しそうに顔を綻ばせると、言葉を続けた。

「陰陽頭のお弟子様との事でおじゃりますよ。たいそうしるしがあり勢いのある方との事でおじゃります。何といってもおひぃさまの病も治された方ですし、頼みのおける方。他の方々の願いは決してお受けなさらぬと聞いておりますが・・・。やはりききょうが見立てた通り、おひぃさまは特別な方なのでおじゃりましょう」

「そんな立派な御方が・・・。ところでねぇ、ききょう。私、そのお方と会う前に右馬の介にぜひお目にかかりたいのです」

右馬の介様はいったいどうやってあの蛇のおもちゃを手に入れたのだろう。その答えはもといた世界とこの世界を結ぶヒントに違いない。だが、ききょうはにわかに顔を曇らせると

「あのようなものを贈ってくるようなお方、いかがなものでおじゃりましょうかね」

と冷たい口調で答えた。

「でも・・・。父上もたいそう良い出来だと感心なさっておられましたよ。どうやって手に入れたのかしら」

 私の言葉に

「わたくしは良く見ておりませぬし、手に入れたいとなどとは一切思いませぬ」

ききょうはそっぽを向いた。

 右馬の介様に会って真相を聞き、元の世界に戻る手がかりを得る前にその陰陽師とやらが私がこの世界のものではないと見抜いたらどうしよう。

「ききょう」

「なんでございますか、おひぃさま」

「なんだか、わたくし、陰陽師の方と会うのが気乗りしなくなってきたわ」

「それは・・・姫様が実はけつねであられて、陰陽の方を怖れておられるからでしょうか?」

ききょうは近頃こんな冗談を言うようになっている。本当の姫が戻ってきたらこんな態度を取っていて大丈夫なのかしら?

「でも何か起こるような気がして・・・」

 私の言葉にききょうがあきれたような顔をした。

「もう散々、起こっておりますよ。これ以上起こらないようにするために陰陽の方をお呼びするのでおじゃります」

冗談を言うようになったものの、やっぱりききょうは冷静だ。

「ねぇ、ききょう」

居住いずまいを正して私はききょうを見た。

「何でおじゃりますか?」

「もし、もしもの事だけど・・・」

「はい」

「私が正気に戻ったとしたらね・・・」

「なんでおじゃりましょう」

ききょうはその何が悪いのだと言うように私を見詰めた。

「そうしたら、今の私はいなくなる訳でしょう?」

「どういうことでおじゃりましょうか?おひぃさまはおひぃさまのままで御変わりないと存じますが」

眉を顰めたききょうに

「だからね、つまり今の私。その、虫が好きでお母さまを二度も気絶させて手習いもへたくそな私が今はここにいるわけじゃない」

とへりくだりつつも私はききょうの方ににじりよった。

「はぁ・・・」

言いながらききょうはさっと体を引いた。どうも・・・最近のききょうは私に合わせて体の動きが素早くなってきたように思える。

「でも正気に戻ったら、虫なんか好きじゃなくて、父上にも母上にもかしずかれて育った、字の大変お上手なおひぃさまがそこにはいるわけじゃない」

「まあ、そうでおじゃりますね」

ききょうは微笑んだ。きっとそんな日が来ることをききょうは待ち望んでいるのだろう。でも、と私は俯いた。

「つまり、この今いる変な私はいなくなっちゃう訳じゃない?」

 そう言った途端に

「はあ」

ききょうは眼を宙に彷徨さまよわせた。

「困りましたね。そのようなこと、考えた事もおじゃりませんでした。わたくしは昔のおひぃさまをお慕い申しておりますが、今のおひぃさまも好きでおじゃりますし」

「でもねぇ、どちらか一方でしかないわけじゃない?まさか、日替わりで登場っていうわけにはいかないでしょ?」

 頷くとききょうは左のてのひらに字をなぞるような仕草をした。困った時のききょうの癖だ。

「さようで・・・おじゃりますね」

「私には深刻な問題なの。もしもおひぃさまが戻ってこられたら、この私はいったいどうなってしまうのよ」

まるで勝ち目のない椅子取りゲームだ。ゲームに勝ってこの体に残ったとしても、この世界に居残るのでは勝ちとは言えないし負ければあてどもなく彷徨う魂となってしまうかもしれない。私の悲しげな声にききょうは彷徨わせていた眼をふっと私に向けると、

「さような心配をなさらずに。世の中と言うのはたいてい何もかもが丸く収まる物でおじゃりますよ」

そう言って包むように私を抱いてくれた。白粉の微かな匂いがつんと私の鼻の奥に滲みた。


心構えもできず、右馬の介様にお会いする機会もないまま陰陽師が来る日がやって来た。私は一人白のひとえの姿で陰陽師を待っていた。縁起でもないけど経帷子きょうかたびらにも見えなくはない。死ぬ時は、一応悲しんでもらえるしお墓も立ててもらえるし、暫くの間は思い出して貰える。でも、この私の心がこの姿のまま消えてしまったとしても、

「元の御姫様が戻って来られた」

そう言って喜ぶ人がいるだけだ。そう思うと身震いする。

 外でがやがやと人の声がして暫くすると

「付き人やよりましなど必要御座いませぬ。却って邪魔」

遠くから若々しい声がした。うん?この声は?どこかで耳にした事のある声だ。誰だっけ?思い出せない内に戸ががらりと開いた。わっと、身構えたわたしだったけど

「おひぃさま・・・」

戸を開いたのはききょうだった。一瞬で体の力が抜けた。

「どうしたのです?」

ききょうはもじもじとしたまま何も言わない。

「陰陽師の方が参られたのでしょう?」

「困ったことになっておりまして」

「どうしたの」

「陰陽師の方が申されるには、けつねを退治するには、おひぃさまと二人きりにならねばならぬと・・・」

「うん?」

「ですが北の方さまがおひぃさまを・・・幾らなんでも若い殿方と二人きりにするのはいかがなものかと仰られておるのです」

なんだそんなこと?

「間違いが起こらぬかと、心配なされておられるのです。なぜ病の時のように人を侍らせてはならぬのかと申されまして」

やっぱり「母上」も、とんでもないじゃじゃ馬であっても、娘の事を心配してくれているんだ。

「大丈夫よ、変な事されそうになったら、やっつけちゃうから」

「それはそうなんでおじゃりますが・・・。まあ、そのことは心配しておりませんのですが」

ききょうは視線を落とした。どういうこと?

「北の方様は万が一にでも、おひぃさまの方から・・・」

「え、こっちから?・・・・まあ、ずいぶんと失礼ね。娘を信用できないのかしら」

 私はぶんむくれた。未だに恋愛経験のない私に向かって何を根拠に、そんな疑いを持つんだ?ききょうは恐縮したように

「今のおひぃさまは何を考えておられるのか全くお分かりにならないと仰いまして」

と言い訳をした。そりゃそうかもしれないけど・・・。

「まあ、どっちでもいいわ。別にけつねなんかついていないから、ご心配と仰るなら祈祷なぞしなくても私は一向に構いません。だいいち失礼じゃないですか。私がそんな淫乱な女だと思っているのかしら」

腹立ちまぎれに突き放すと、ききょうは

「せめて几帳で隔ててくださいませ」

小声で言うと几帳を私ととの間に動かし、項垂れたまま戻っていった。何よ、こっちからって。几帳をつんつんと指で突きながら動かしていると再び誰かが近づいて来る気配がした。

「ききょう、どうなったのかしら?もうやめますか」

声が尖っているのが自分でも分かる。答えはなく

「こほん」

男の咳ばらいと共にすっと戸が開いた。几帳に隔てられ、その姿は見えなかったが、私は

「あ」

思わず、単の合わせに手をやった。

「これはだいぶ大きなけつねの妖気が漂っていますな」

からかうような響きの混じった声はさっきと同じ人の声だった。

「あなたもだいぶこの時代に慣れてきたようですね」

「へ?」

私は間の抜けた声を上げた。

「お久しぶりですね」

几帳の上からこちらを覗き込んでいる顔は、奇妙な形の飾りを頭にのっけて眉のあたりをぼかして書いてあるけれど・・・。

 突然、あのバーであった奇妙な占い師の事を想いだし、思わず私は叫んだ。

「あなた、あの時の・・・安倍さん?」

「そうですよ。ですが・・・もう少しお静かに。希望通り唐衣装を着ることはできたようですね?」

悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑っている。

「じゃあ、これって手品?」

尋ねた私に向かって安倍さんは噴き出した。

「まさか・・・こんな大掛りな手品ができるわけないでしょう。いったい幾ら掛かると思うんですか?」

非現実的なこの状況の中で目の前の男は妙に現実的な事を言った。

「もちろん、今は平安の世ですよ。天慶4年・・・朱雀すざくの帝がお治めになられておられます。朱雀天皇、知っていますか?歴史で習ったでしょ」

「知らない。そんなことより、あなたが私をここに連れて来たの?だったらさっさと戻してちょうだい」

いきりたった私に安倍さんは静かに首を振った。

「まさか。自分一人でさえ大変なのにあなたまで時を遡行そこうさせるような力は僕にはありません」

 神妙な面持ちになった安倍さんを私は訝し気な目で見据えた。

「あなたは・・・その身も心も本物なの?」

「本物?ああ、あなたは魂だけがこちらに来られたのですね。いったいどういうメカニズムなんだろう?ええ、残念ながら僕は本物ですよ。体も含めて。つまり僕はタイムトラベルをしただけで、あなたのように幽体離脱とタイムトラベルをパラでやったわけじゃない。その点、あなたは凄いですねぇ」

のんびりとした口調で安倍さんは答えた。なんだか調子が狂う。

「ねぇ、いったい私はどうなるのかしら?このままこの世界に居続けなければならないの?」

「それはあなたご自身が決める事だと思います」

 あいも変わらず気楽そうに安倍さんは答えた。

「じゃあ早く帰りたい。きっとお父さんとお母さんが心配しているわ。それにいい加減ハンバーガーやラーメンも食べたいの。お寿司やてんぷらも。こんなところにいたらそのうち干からびちゃうの」

突然食欲に目覚めたような私を安倍さんはじっと見詰めた。切れ長の澄んだ眼にはあの時と同じように吸い込まれるような不思議な輝きがある。

「ええ、お望みならば。でもそれは今ではないのです。その時まであなたが御帰りになると言う気持ちを持っていれば、僕の予想であればほぼご希望の通りになるでしょう」

「ほぼ?どういうこと?」

安倍さんは眼を少し細めて笑うと、

「言った通りですよ」

囁くような声だ。

「いつなの?いつ帰れるの?」

「その時が近くなったらお教えします」

肝心な事ははぐらかされる。

「いったいあなたは何者なの?」

「私?この世界では陰陽師。もと居た世界では手品師でした」

「そんな事分かっているわよ」

じっとりとした目で睨みつけると、だって本当なのですから、と安倍さんは弁解する様に呟いた。

「陰陽師とか手品師とか、師ってつく人は怪しいのよ。詐欺師とか山師とか教師と同じ」

「教師もですか」

安倍さんは首を傾げた。

 その表情を見た瞬間ピンと音がして何かが私の頭の中で繋がった。安倍さん、陰陽師、平安時代・・・

「もしかして・・・あなた、安倍晴明?」

 お、というような顔をして安倍さんはにっこりと笑った。

「その通りですよ。よく分かりましたね。もっとも京都の女性なら誰も一条戻り話橋を渡ったことがあるから、当然かな」

「う・・・そ」

あんぐりと口を開けて私は安倍さんを見詰めた。このペテン師みたいな男が安倍晴明?

「嘘をついても仕方ないでしょう」

微かに笑うと安倍さんは

「あなたは私がここにあなたを連れて来たと考えておられたようですが全く逆です。あなたを追って私はここに来たのですから。といっても、分からないですよね」

微笑が苦笑に変わる。

「どうしてそんな事が起きるのよ」

「例えとしてはどうかと思うけど・・・ゲームの途中でしくじった時に元に戻す事ができる機能があるでしょう?」

「ええ」

「あなたはそのゲームにおける『元に戻す』っていう機能みたいなのです」

「元に戻す?機能?」

元に戻りたがっている私が、元に戻すって?その上人に向かって機能?ぽかんとしている私に向かって

「まあ難しいことはおいおいと。先ずはあなたにきつねがついているという疑いを晴らさないとね。御両親には・・・今の御両親ですけどね、病気のせいで記憶を失くしているけれどいずれ治るとでも言っておきます。口裏を合わせて下さいね。それにしても人と人との意識が時空を超えて遷移するというのは確かに珍しい。僕も知らないことが世の中にはたくさんあるんですね」

と安倍さんはからかうように言った。珍しいって、人の気も知らないで。私が睨みつけると、こほん、と咳をして

「この晴明の占いを申し上げましょう。星を読む限りではもうすぐチャンスが来ます」

晴明は重々しく告げた。チャンス?陰陽師に相応しくない単語だったがその響きに私は縋りつくように晴明を見た。

「それまで静かにお待ち下さい。できれば面倒を起こさずにね」

そんなことを言われても・・・面倒の方が列をなして向こうから勝手にやって来るんだから仕方ないでしょう?

「ところでききょうさんが、あなたが右馬の介殿に会いたがっていると言っていましたが?」

「うん、でもそれはもういいような・・・」

だってあの蛇のおもちゃの秘密はもう分かっちゃったんだもの。どうせこの目の前の男が持ってきたおもちゃなんだ。なんで蛇なんか持ってくるかなぁ?

「蛇の出所をしりたかっただけ」

安倍さんは微かに笑って頷くと、

「蛇のおもちゃはね、こっちでも使えるんです。今回はばれちゃったけど、信じる人もいるんですよ。ところであなたはいいようなことを言っておられますが・・・右馬の介もあなたに会いたがっていますよ。あなたを見て一目で恋に落ちたようです。あなただって満更じゃないでしょ?」

 唇の端に笑いを浮かべて晴明は言った。

「恋は女性の決心を変えるのに十分な出来事ですから」

 つまり、右馬の介に私が恋して・・・もとの世界に戻らないって思っているの?私はぷるぷると首を振った。ばさばさと揺れる長い髪がうっとうしい。恋愛なら元に戻って自分のいた世界で経験したい。いや、そこでしなければならない。

「馬鹿な事を言わないで。元の世界には親がいるんですからね」

私は親を引き合いに出して抗戦した。きっとこの人は右馬の介様が私にラブレターを贈って来た事も知っているんだろう。そして私ヒロくんを好きなことも。

 でも残念ながら・・・私は・・・顔がどんなにヒロくんに似ていたって・・・。ふと揺れた私の心のうちを察したかのように、

「いずれにしろきちんとあなた自身で良く考えてください。それに私はあなたにどうしろと言う事ができないのです」

急に真面目な顔をして私を見詰めると晴明は立ち上がった。

「さて私はご両親に報告をしなければならないので」

肩透かしを食らわせて去っていく晴明の背中に私は思わず

「おのれ、晴明」

と唸った。確か映画でそんなセリフを聞いた事があったのだ。映画の中できっと蘆屋道満が言ったのであろうその言葉を聞いて、晴明は振り返ると不敵な表情でふっと軽く笑った。


「けつねが憑いたのでもなければ重い病気でもございませぬとの事でおじゃります。そのうち元に戻るでしょう、との見立てで、まことにようおじゃりました」

ききょうはそう言って袖で涙を拭った。晴明の見立てに「父上」も「母上」も一安心だったらしい。


その数日後、月が満ちた夜、兵衛を失神させたヤママユガが繭を割ってはたはたと音を立てて闇の中へ飛び立っていった。「父上」は月へ向かって羽ばたいていく彼女を私たちと一緒に見送った。

「美しい物であるな。梅に雪、桜に霞、菊に霜、世に高名な物ばかりではなくこうした生き物にも違った美しさがあるのだな」

飛立って行ったヤママユガの後姿を見送った「父上」の横で、

「安倍さまの御見立てもおじゃりますしこれでおひぃさまが喰らうために虫を集めたのでないと皆も納得するでしょう」

とききょうが呟く。

「そうであるの」

しみじみと「父上」は頷いてから私に向き直ると

「ところでその安倍殿が今ひとたび見舞いたいとの事であった。良いか?」

尋ねた「父上」に私は、はいと勢いよく頷いた。早くもその時がやって来たのだろうか。

 でも・・・。「父上」と過ごしているこの僅かな時間が急に重く貴重な物に思えたのは去りゆく者の感傷だけではなかった。この世界に馴染んでいこうとした私の気持ちを少しでも支えたものがあるとしたら、それはききょうと「父上」だった。

 ヤママユガの飛び去る姿を一緒に見守ってくれた「父上」。でも、元の世界に戻ったら、ききょうとも「父上」とも会えなくなる。


晴明が従者一人を伴って邸にやって来たのはその二日後の事だった。

「お加減はいかがでございますか」

几帳の向こうで晴明が気取った口調で尋ねて来た。

「だいぶに良うございます」

私も澄まして答えた。

「ご記憶は、取り戻せましたかな」

「いいえ、残念ながらまだ」

ちらりとききょうを見遣ってそう答える。

「本日は供の者を連れて参りました。この男はたいへん上手の按摩で、典薬寮くすりのつかさ按摩生あんまのしょうでございます」

「はい・・・は?」

按摩を連れて来るとは聞いてない。ききょうも怪訝そうな顔をしている。晴明は几帳の向こうから、澄ました声のまま

「病のもとは血の流れの滞り、本日はご様子をこの者に診せて血のとどこおりがないかを確かめたいと思いましてな。また熱でも出る事があれば御本復ごほんぷくも遅れる事になりましょうから」

と続けた。

「それは困ります」

ききょうがきっぱりと断った。

「按摩と言えば体に触るのでおじゃりましょう。おひぃさまにそのような事をなされるとは伺っておりませぬ」

「いや、なに」

いざと言う時に晴明が出す声はなかなか重々しい。

「この者はご様子を見るだけで血の滞りを診たてることが出来るので連れて参ったのです。障りがあれば、まずは薬で治らぬものかを見させましょう」

「ですが・・・」

渋っているききょうに

「ほんの少しの間でございますよ。万一でも思わぬ障りが残っていたらどうなさいます。それに姫様はなまなかな者であれば投げ飛ばしてしまわれるそうではございませぬか」

憎たらしいことを淡々と言う晴明を私は睨んだが、ききょうがふと振り向いたので慌てて素知らぬ顔に戻した。

「いかがなさいます?」

 私はこくりと首を縦に振った・

「では障りがないかご覧になるだけでございますよ」

私が頷いたのを見てききょうが几帳を引き遣った。晴明は坐したまま、こちらを直と見て笑みを浮かべている。隣の男は這いつくばうようにして顔が見えない。その時、晴明がすっと小さく手を振った。柔らかな風がききょうの裾をふんわりと揺らした。その途端ききょうはふっと目を閉じ何か言いかけた唇を開いたまま眠る様に動かなくなってしまった。

「ききょう?」

ききょうに近寄ろうとした私を晴明が手で押しとどめ、

「ききょうどのはお疲れのようです。そっとしておやりなさい」

と囁いた。

「でも・・・」

「ききょう殿は右馬の介を見知っておるので、やむなく。おい、もうよいぞ」

にっこりと笑った晴明の横で這いつくばっていた男が、その声に面を上げ私を眩しそうに見つめた。あ、やっぱしヒロくんだ。ヒロくんが烏帽子を被って着物を着ている。私は思わずうっとりした。そのヒロくんが、思い詰めたような声で訥々とつとつと言った。

「姫さま。先だってお見かけしてからというもの、夜昼を分かつこともなく姫様の事を思い続けておりました」

 それを聞いて頬に血が昇ってくる。これって・・・夢にまで見た男の人からの初めての告白?

 「かように顔こそむくつけくはございますが、姫様を思う気持ちは人一倍でございます」

「右馬の介はご自分の顔が気に入らないようでしてね。私は良いと思うのですが」

晴明の言葉に右馬の介様は小さく手を振って

「上つ方にわたしのようなものは一人としておりませぬ」

と身を縮こませる。

「そんなに卑下することはないでしょう。ねぇ、姫様?」

「ええ、そうですね」

私はちらりとその彫りの深い顔を眺めた。眼が合ってしまい、互いに顔を赤く染めて目を逸らす。

「はるあきらはそう慰めてくれるのですが」

真っ赤な顔で右馬の介様はもごもごと口籠る。私が以前いた世界では、とってももてると思いますよ、と心の中で慰めてあげた。

「さて、右馬の介。お前への義理も果たせたし、ききょうどのもそろそろ眠りから覚める頃。ここらでおいとまするぞ」

晴明はすっと立ち上がると几帳を引き直し右馬の介様を促した。

「え、もう帰るの?じゃあ、あの事は?元の・・・」

晴明は人差し指を差し出して「元の世界」と言いかけた私を制すると

「右馬の介がいるのををききょう殿に見られたらまたひと騒動起きるに相違ありませぬ。では」

慌てて立ち上がったものの右馬の介様は未練がましく私を見詰めていた。晴明も意地が悪い。もっと長い時間、ききょうを眠らせておくことだって出来ただろうに。

「さ、行くぞ」

右馬の介様を急かす晴明の声にききょうが

「ううん・・・」

と微かな唸り声を上げた。晴明と右馬の介様が立ち去るのと同時にききょうは目を覚ました。きょろきょろとあたりを見回して

「あれ、わたくしは・・・いかが致したのでおじゃりましょう」

訝しげに私を見たききょうに向かい

「あなたは疲れているのよ、ききょう。きっと私のせいね、ごめんなさい」

そう答えた私にききょうは疑わしげに視線を這わせると、

「このような事、これまでおじゃりませんでしたのに・・・。ところであの方々はいかがなされましたので?」

そう尋ねた。

「さっき帰りました」

「按摩生も、でございますか?」

「ええ」

「わたくし、どれほど寝ていたのでおじゃりましょうか」

「ほんのちょっと。心配しないで。按摩生のお方は私の姿を見ただけですよ。全然問題ないって」

「まことでおじゃりますか。ですがどうもあの按摩生の様子は妙でおじゃりました」

 ききょうの勘はなかなか鋭い。

「そう?・・・でも本当に何もなかったわ」

ききょうはなおも疑わしげな眼差しでどこかに誰かが隠れているのではないかとでも言うようにあたりを見回している。

「ききょう。さように疑うのであれば、そなたがねねばよい事でしょう」

私が そう指摘すると、さすがのききょうも恐縮して身を竦めたのだった。

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