第19話 空音の記 9 941年 初秋

 翌日も右馬の介様からの便りはなく、朝から気を揉んでいたききょうの機嫌は次第に悪くなるばかりであった。弱った、と思ってつい吐いたため息を耳聡いききょうが聞き逃す筈がなかった。

「やはりおもろこいでおじゃりましたのですね」

 ききょうは頷くと、ずいと体を寄せて来た。のほほんとしている私を横に、自分一人が気を揉んでいるのが面白くなかったらしい。

「おもろこい?」

聞きなれない言葉だった。おもろい・・・ではない。首を捻った私を見てききょうは筆をとるとさらさらと動かして御諸恋と書いた。

「おひぃさまも右馬の介様に思いを寄せておられると言う事でございます」

ああ、両思いっていう事ね。うーん、そうではないのだけど、そうでないとも言い切れない微妙な感じ・・・。本物のヒロくんだったら、どうだったんだろう?自分の気持ちが正直良くわからなくなってきた。

「正直におっしゃいませな。本当はお嫌いではございませぬでしょう。それとも陰陽師の方が宜しいのでございましょうか?」

え?どうしてその選択を迫って来るのかしら?世の中には他にもたんと男が要る筈なのに・・・。

「もう真剣に考えねばならないお歳でございますよ。思いますに姫様はお二人と深い御縁があるのではないかと。いずれかの御方とご一緒になられるような気がしてなりませぬ」

「そうかしらね・・・」

私はいい加減に答えた。だが、ききょうは更に私ににじり寄って来た。なんだか、コイバナを仕掛けてくる同級生みたい。

「右馬の介様は御容姿がちょっととお思いでしょうが、あのような御方の方が女は幸せなのでおじゃりますよ」

 平安時代の同級生は「おじゃりますよ」って砂利運搬トラックみたいに砂利ばっかり運んでくる。

「そう?右馬の介様もなかなかハンサ・・・凛々しいお顔だと思うけど」

ききょうは、凛々しいとは、と呆れた顔をした。

「蓼食う虫も・・・」

 と言い差してから、さすがにはっと口を抑え

「いえ仰る通り御面相など実の所はどうでもよろしいのでございますよ。ぜひ右馬の介様になされれば宜しいかと。何せ競う相手も少のうございますし」

どうやら彼女の家政的・経済的判断では右馬の介様の方に分があるらしい。

「あの方は少々軽々しいところもございますが、性根はそれほど悪くはございませぬ。あのお方はおひぃさまを一途に思っておられますよ。男前ではございませぬし不器用であらせますが、やはり人と言うのは何よりも心映えというものが大切でございましょう」

しみじみとききょうは言った。あ、それはホントかも。

「そうねぇ」

「だからこそ、あのお方から文が参らぬ事が不思議でございます。私の見込み違いでしょうか」

たぶん右馬の介様は手紙を出す事も出来ないような状態なのだろう。だって松の枝は建物で言えば、二階と三階の間くらいの高さがあるんだから。

「怪我が重いのかも。そんなに気になるなら、こちらからお見舞に伺ったらどう?」

ききょうはきょとんとした顔をして、慌てて手を振った。

「さような事。何と申して見舞いに参るのでございましょう」

「そうねえ」

夜忍んで来ようとして築地から落ちた人を見舞いに行くと言うのもなんだか具合が悪そうだ。

「もう少しお待ち申し上げましょう」

 私の気持ちを確かめたような気分になったのだろう、何だかすっきりした表情になるとききょうは用事をしに出て行った。そう言えば待つと言えば晴明は何も言って来ないけど、あっちの方はどうなっているんだろう。私は少し心配になってきた。


「おひぃさま、陰陽の方よりの使いが参っておられます」

翌朝、私の思いを聞き届けたかのように晴明の使いが来たとききょうが報せに来た。

「ほんとうに?」

弾んだ声にききょうは怪訝けげんそうな眼をして

「おや、さように嬉しゅうございますか?」

と私に尋ねる。また、変な誤解をされそうで、取り澄ました顔で、

「いいえ。それで、何とおっしゃってきたの」

 と尋ねると、

「明日、未の刻にお見舞いに参上なされるそうでございます」

「そう」

 もしチャンスがあるなら・・・やっぱりもとの時代に戻る、私は内心そう決めていた。右馬の介様は面白い方だし、父上もききょうも今となっては離れがたい。厳しい母上も、あのお局三人衆も、きっとそんなに悪い人じゃないんだろう。そんな人々とお別れなのだなと思うと急に鼻の奥がつんとした。

「おひぃさま、いかがなされたのですか?」

「うぅん、何でもないわ」

そう言ってから私はききょうの頬を両手でそっと包むように触れた。ききょうはびっくりしたようだったけど物問いたげに私を覗き込んだきただけだった。


 晴明は私の前に座るとわざとらしく深々と頭を下げた。

「どうですか、その後・・・」

「どうって、特に変わったことはないわ」

 そう答えると晴明はにやりと口許を動かして

「何やら妙なものが空から降ってきませんでしたか?」

 悪戯いたずらっぽく尋ねた。

「ああ、あれね・・・知っているんだ。あなたの入れ知恵なの」

 私が睨みつけると、まさか、と晴明は大きく手を振って、

「そんな危ないアドバイスを私がする訳ないじゃないですか。放っておけば少しは落ち着いてじっとしているかと思ったのは見込み違いでした。見舞いに行ったらまだ臥せってましたよ。でも思ったより丈夫みたいだし、あと二、三日すれば床を払うことが出来るでしょう」

「重傷だったのね。ききょうにそう話しておきましょう。会いに来たくせにその後手紙が来ないって、彼女怒っているの」

「そうですか」

 ははは、と快活に晴明は笑った。

「どうします?この世界に残って右馬の介の面倒を見ますか?」

「ねえ、もしも私が元の世界に戻って、お姫様が・・・その正気を取り戻したら右馬の介様とお姫様はいったいどうなるの?」

晴明は道を尋ねられた外人のように手を軽く広げて首を傾げた。

「それは正直言って分かりませんね。でも、それは未来に何らかの影響を及ぼすことになるかもしれません」

「そう・・・。で、本当に私が戻る戻らないで世界は変わっていくの?そんな影響力が私にあるとはどうしても思えないのよ」

「ええ。最初のうちは目に見えないほどに、ですがその変化は時 代が下るほど大きくなっていくでしょう。あなたに目をつけたのは実はその変化の度合いがもっとも小さい家系で、周りの環境も殆ど同じだと、そう判断したからなのです」

 晴明はなんだかよく訳の分からないことを言った。

「何だか信じがたいんだけど」

「どんなに大きな石でも一旦流れ始めた川の向きを変える事は出来ない。ですが流れ初めではほんの小さな石の傾きで流れが決まることもある。そういうものです。どうなさいます?」

晴明は尋ねてきた。戻ると、決めた筈なのに・・・何をぐずぐず私は言っているのだろう。

「私は・・・本当に元の世界に戻れるの?」

私の問いに晴明はじっと私を見詰めた。

「そうですね。正確には戻ると言う事ではないかもしれません。ですがあなたの周囲はさっき申し上げた通り変化の差異デルタが極めて小さい。殆ど戻ると言っていいでしょう」

 晴明の済み切った眼差しの中には何の徴もない。でも「殆ど」という言葉は少し不吉に響いた。若しかすると「父上」やききょうを残して行くその先には今までいた世界よりもっと不幸せな世界が待っているのかもしれない、とふと思った。

「いつ・・・戻れるの?」

「もうすぐですが正確なことは言えません。あの者たちがどうやら感付いているらしい。万一正確な日時が漏れたら困りますからね」

口元を引き締めて晴明はそう言った。

「いざと言う時に迷っては命を落としかねません。あなたも私も」

「分かった・・・。あの者たちって誰?」

「私たちを邪魔しようとする者たちですよ」

 晴明はあっさりと応えた。

「邪魔?」

「ええ、文字通りの『邪魔』たちです」

それ以上、邪魔について晴明が詳しく語ろうとしなかった。

「それにしても、なんで?」

「なんでとは?」

晴明は目を瞬かせた。

「なぜ私がこんな目に遭わなければならないの」

ああ、と晴明は頷く。

「それをひもとくとなるとけっこう長くなる話なんですがね」

晴明は顎の下を掻いた。

「ですがせっかくですから教えて差し上げましょう。知っていた方がこれから何かの助けになるかもしれません。長くて複雑な話になりますから覚悟してください」

私が頷くと晴明は語り始めた。


 「あなたの先祖に大生部多と言う方がいらっしゃいました。お父上の血筋ですね」

初めて聞く名前だ。

「皇極の帝の御代にその大生部多がある幼虫を拝めば冨が得られると説いて人心を集めたことは良く知られています。彼は駿河、もといた世界で言えば静岡県の人ですが、この教えはみやこをたちまちまたいであっという間に日本中に流行したのです」

「ふうん」

 先祖がそんな人だったなんて父も全く知らないに違いない。知っていたら黙っている訳がないのだ。

「怪しげな新興宗教みたいな話ね」

「そうですか?」

心外だと言う表情で晴明は私を見詰める。

いにしえの人々はあらゆる自然を敬ってきたのですよ。山や岩や滝だけではなく狼や熊などの動物や草木、昆虫に至るまで」

「虫は好きだけど、拝むって言うのはちょっと違う感じだな。狼とか熊だったらまだ分かるけど。だって強そうじゃない」

晴明は静かに頭を振った。

「物理的な強さだけではなく、生命力を感じさせるもの、富をもたらすもの、いろいろな強さをそれぞれに見出して昔の人々は自然を敬っていたのです。まあ、本筋に戻しましょう。多は京から派遣された秦河勝はたのかわかつの率いる兵に討伐されます。日本書紀には多の口車に乗って散財した人が続出して社会が不穏になったためにこれを討ったと書かれています」

討たれちゃったんだ私の先祖・・・。あっという間に。

「っていうことは詐欺だったのね」

日本書紀くらいは私だって知っている。自分の先祖が日本最古の歴史書に詐欺師として描かれていたなんて・・・

「ちょっとショックだな」

「そうですか?」

「だって日本書紀に書いてある以上ほんとなんでしょう?」

「歴史書に描かれているからと言って事実という訳ではありませんよ。歴史なんていうものは当時の権力者の意向でどうにでも書ける訳ですからむしろ一方的な見解の方が多いんです。まあ嘘とまでは言わなくても彼らにとって都合の悪い事実は隠蔽いんぺいされているし、都合のいい事実は話が盛られているものです」

 ああ、それは確かに、私がもといた世界でもたいして違いないかもしれない。

「そうなの?じゃあ、事実は違うっていう事?」

晴明は置いてあった笏を手に取り教師のように差し上げた。

「この話には三つの疑問があります。一つ目はその教えがもしもデマであったならなぜそんなに急速に広まったのかと言う事です。虫が成長するのはさほど時間がかかりませんからね。あっという間に結果は出るでしょう。実際に何らかの御利益を享受した人がいてそのために広まったと考える方が妥当だと思うんですよ。次の疑問はなぜその討伐に秦河勝が出向いたのかと言う事です。秦河勝は渡来人で朝鮮や中国からの技術を日本に持ってきた技術者です。軍事を担当していた訳ではありません。彼は厩戸皇子と共に物部守屋を撃ったと言う話も伝わっていますが実際に戦闘に参加したとは思えません」

「はあ」

自分で尋ねておいてなんだけど、殆どちんぷんかんぷん。

「秦河勝がわざわざ静岡まで出向いたのには訳がある筈です」

ちゃんと日本史を勉強していればもう少し話が分かるのかもしれないのに・・・。私は溜息を吐いた。やっぱり勉強って大切なんだなぁ。そんな私の心中にお構いなく、晴明は話を続けた。

「最後の一つは多が祀った虫が本当は何の虫であったのかという事です。歴史書に拠れば、その虫は橘や山椒につく虫だと書かれています。だとすると?」

「ナミアゲハ?」

「その通り。一般的にはアゲハチョウではないかと言われています。ですがもう一つ候補があります」

「蝶にはいないなぁ・・・。橘っていうと・・・。じゃあシンジュサンかしら」

晴明はポンと手を打った

「歴史には疎くても虫には強い。さすがですね。シンジュサンというヤママユガの一種の食草です」

褒められているのかしら、それともけなされているの?

「ええ」

「多が説いたのがシンジュサンやヤママユガの幼虫を飼え、と言う事だとしたらどうでしょう?話の裏が見えてきませんか」

「どういうこと?」

「秦氏は渡来系の技術者です。彼らが日本に持ち込んだもの、土木技術、窯業ようぎょう、繊維・・」

晴明は答えを待つ教師のように私をじっと見つめた。

「絹糸?」

その通り、と晴明は大きく頷いた。

 「多が集めよと言ったのは実際には蝶ではなくヤママユガの幼虫だと考えられます。正確にはヤママユガ、シンジュサンやクスサンなど繭を作るいくつかの種類の蛾の幼虫だったのでしょう。ですが多の集団に入り込み、多の眼の届かない地方でアゲハの幼虫を拝めと歪曲して民衆に伝え、それを理由に大生部氏を討伐したのが秦河勝の一味だとすればその意図は明白です」

「山繭の糸を作らせたくなかった」

その通り、と晴明は頷いた。

「ヤママユガ・・・」

 あの綺麗な月の夜「父上」と私の目の前で、羽化したばかりのヤママユガは月にひらりと蔭を映すと、月桂樹をめざすかのように飛び去って行ったのだ。

「ヤママユガの飼育は難しいはずよ。数だって集まらないでしょうし、病気もしやすい」

晴明は小さく頷いた。

「確かに。ですが秦氏と同じ帰化系民族であった大生部の一族がその技術を身につけていたらどうでしょう?そもそも蚕そのものは自然界に存在しない特異な虫です。それと同じようにヤママユを飼育する技術を開発し、農民たちから幼虫を買い付けていたなら」

「蚕から絹糸を作っている人たちと競争になる」

「その通りです」

晴明は頷いた。

「ヤママユガの糸はその風合いを好む人も多い高級品です。皇室や貴族の間ではそ珍重する人も多かった。そして農民たちにも大きな利益になった」

だとしたら私の先祖は詐欺師に仕立てられた被害者だ。ちゃんとした実業家じゃない?

「秦氏一族にとっては重大な脅威でした。蚕というのは古代における一種のバイオテクノロジーです。秦氏は技術を独占する事によって大きな富を得たでしょうから技術を盗用されたと考えたのかもしれませんね」

「でも、その事と私がこの時代にやってきた事とどう関係があるの?飛鳥時代に戻ったんだったら少しは分かるけど」

晴明はゆっくりと頷いた。

「多はもう一つの顔を持っていたのです。彼は私の大先輩、陰陽の者だったのです。秦氏にも多くの有能な陰陽師が付いていたために敗れはしましたがそんな中で彼は一つの仕掛けをしたのですよ」

「仕掛け?」

式盤しきばんというものをご存知ですか?」

「いいえ」

「式盤というのは天を表す円盤と地を表す方盤を組み合わせて占うものです。それぞれ天盤、地盤と呼ばれて数の組み合わせで占うものです。一つの式盤では64から256の組み合わせができるのですが、それを幾つか組み合われば無数の組み合わせを作る事が可能になります」

「はあ?」

私はまぬけのような声を出した。コンピューターの話みたい。

「龍から奪った二つの珠玉を王の息子たちに渡してはいけない」

 突然、晴明は役者のような声を上げた?

「へ?」

龍?珠玉?王の息子?

「彼の遺した式盤の一つ、彼を祀った多神社に大切に残されていたもののですけどね・・・その式盤箱の蓋の裏に書かれていたのですよ。とても不思議でしょう?」

晴明は眉を細めじっと宙に何かを見ているかのように考えに沈んで行った。

「不思議って・・・」

私が呟くと、夢から醒めた様な眼で私を見詰めると晴明は質問してきた。

「どうして多は龍や王と知っていたのでしょう」

「さっぱりわからない。あなたの言っていること」

「ですかね」

 安倍さんは溜息をついた。

「龍は龍座の事だと思われます。これはみようで誰にも龍と見えなくもない」

今度はいきなり星座の話だ。龍座は確か周極星座のひとつだ。

「だが、彼はケフェウスが王である事を何故知っていたのでしょう。それはトレミー48星座と言うローマ人たちの星座の見立てなのです」

ケフェウス座というのも星座のひとつ、やはり周極星座である。でも・・・。晴明の話は支離滅裂にしか聞こえない。

「ちゃんと説明して」

「空音さんは北極星が一つの星の名ではないと言う事を御存知ですか」

晴明は逆に質問を重ねてきた。

「え?北極星って二つあるの」

星座の名前を聞き齧ってはいるけど天文学にさほど詳しい訳ではない。晴明は静かに首を振った。

「北極星と言うのは地球にとっての北極の方角に最も近い場所にある星を指すのです。いつも同じ星とは限らない」

「へえ」

さすがに占星術を司っているだけの事はある。ちっとも知らなかった。

「なぜそんなことが起こるのかといえば黄道から導かれる北極と天の北極が一致しないからです。天の北極は独楽のように円運動をする。その運動によって地球の北極にもっとも近い星が変化する。天文学では歳差さいさと呼んでいるのですがね」

「そうなんだ」

「歳差は地球が歪んだ球形のために生じるのです。以前は龍座のトゥバンという星が北極星でした。それがこぐま座のベータ星であるコカブに移る頃人類は急激な発展し始めます。コカブはトゥバンに比べてはるかに明るい星でした」

私は何も言わず、ただ晴明の口許をじっと見つめていた。

「コカブから同じこぐま座にあるポラリスに北極星が移ったのが紀元前五百年頃の事。そしてポラリスはあなたのやって来た時代から百年後に尤も極に近づきそのままにしておくとやがて北極星の座を譲る事になります。そしてケフェウス座の星が三代にわたって北極星となるのです」

そのままにしておくと・・・?

「それがどうしたの?それが宇宙の動きなら仕方ないじゃない」

晴明は吸い込まれそうな瞳で私を見詰めた。

「コカブとポラリスは天皇大帝の星、それを極に留め置く事が必要だと多は告げています」

「そんなこと、できっこないじゃない」

私は呆れた。どう考えたって、地球か星のどっちかを動かさなきゃならないんだもの。晴明は溜息をついた。

「そう思いますよね。しかしポラリスが最も北極に近づく百年後、地球は衰微の相に入り急速に衰えていくのです。それは私自身が知っています。そのままにしておけば人類だけが滅びると言う事に留まらないかもしれない」

晴明の眼は真剣だった。

「でもどうやって?軸の歪みを治すなんてできっこない」

「ですが多は可能だと言っている」

「でも・・・いったい世界ってどうなっているの?時間を戻して新しい世界を作るってそんなことが出来るわけ?そんな事が出来るなら世界がたくさんあるっていう事になるじゃない」

「パラレルワールドっていう考え方もあります。ですが私がイメージしているのは木の枝のようなものです」

「木の枝?」

「木の枝・・・ですね。成長した木の枝が傷をつけられたりして枯れると別の所から芽を出す、そんな感じです。そして僕自身は枝の先が枯れたことを伝える伝達物資なのではないかと。変に思うでしょうが世界というものを生命のアナロジーで捉える事も可能なんじゃないかと思うんですよ」

私は黙って晴明を見詰めた。自分の身に何も起きていなかったらきっとこの人は精神を病んでしまった若者と思っただろう。

「それを告げた多は黄帝の意思を継いでいるのではないかと僕は考えています」

「こうてい?」

 また別の話が出てきた。話していることがいちいち分からないし、繋がりはもっと分からない。

「中国に伝わる天地を司る王です。黄色の黄に帝と書くのですよ」

 「じゃあ聞くけど、その大生部さんはなんでヤママユガの繭なんてマイナーな物に力を入れたの?王の流れを引く人なんでしょう?」

 私は話を戻した。とにかく私の先祖の話だけは明確にしておきたい、と思ったのだ。

「それは不思議と言えば不思議なんですけどね。彼は時が満ちていないと知って足跡を残しておこうと考えたのではないかと思います。それも相手に功を立てさせることで歴史に刻んでおこうと」

「足跡?」

「そうです。いわばヒントですね。彼を討った秦河勝は自ら始皇帝の生まれ変わりだと称しています」

「始皇帝・・・」

「焚書坑儒を行い、永遠の命を願った秦の皇帝です。彼は黄帝と戦って敗れた蚩尤しゆうの末裔。その生まれ変わりと称していた秦河勝も蚩尤と関係しているのかもしれません」

 やっぱ、黄帝に戻ってしまった。そのうえ蚩尤・・・。

「頭がこんがらがっちゃう。で、なぜ私はこんな事に巻き込まれたの?」

「それははっきりとしているんです」

え?まじまじと晴明の顔を見詰めてしまった。晴明はこほんと咳を一つした。

「多の残した幾つかの式盤の一つに秘密が隠されていたのです。そこにはもし蚩尤が復活する兆しがあれば数えて七の七、即ち自分の四十九代目にあたる者が正しい道を示すべき時に遡って来ると書いてあったのです」

「なに、それ?」

晴明は静かに私を指さした。

「私がその四十九代目だっていうの?正しい道を示すなんて私にそんなことが出来る訳ないじゃない」

自分のあげた大声にはっとして口に手を当てた。その仕草を見て晴明は微かに笑った。

「大丈夫ですよ、ここには結界を張っていますから。音も動きも外には分からないようになっています」

私は頷いた。晴明は時代を超える力を持って奇跡を起こしたに違いない。結界とかいうけど・・・それもきっと音を消すなんかのテクノロジーを使っているんだ。

「確かに辛い役目だと思います。ですが、あなたには選ばないという選択肢はない。いや選ばないと言う選択そのものが選択肢の一つなのです」

それを聞いて、周りの空気が急に重く感じられ吐き気がした。選ばないというのも一つの選択肢・・・?それは思ったよりも重い言葉だ。

「あなたは知っているのね、どっちが正しい道か」

「いいえ」

 晴明は険しい目をした私に向かって晴明は宥めるように手を下げた。

「でも・・・。あなたは以前にも幾つもの選択をしてきた筈です。そしてそれによって幸福になった人もいれば、不幸になった人もいる。それが現実です」

「そんなこと・・・」

「思い出してください。あなたはあなたのお母さんが望んでいたような女の子らしい稽古事ではなく昆虫採集を選んだ。それはお母さんを少し不幸にしたかもしれない。あなたはある高校を受験することを選んだ。そしてあなたが受験した事でその高校を落ちた人がいる。あなたは生きて行くうえで数々の選択をしてきたし、これからも選択をしていかねばならないのです」

「それとこれとは話が違うじゃない」

「どう違うのです?選択をしている自覚があるかどうかの違いだけでしょう」

知らず知らず自分が選択した選択によって人が不幸になったりする事があるなどと考えた事がなかった。でもだからと言って・・・

「私の選択って言うけど、それはお互いの事じゃない。誰かがある選択をして私が不幸になる事があるかもしれない。でもそれを私は自分で乗り越えることが出来る。少なくとも努力することはできる。それに逆に言えば、誰かの選択で私が幸福になったり、不幸になったりするかもしれない。それってお互い様っていうことでしょ?でも今私が迫られている選択ってそういう事じゃない」

「そうですね。あなたは右馬の介よりずいぶんと賢いようだ」

晴明は感心したように私を見詰めた。

「ですが、誰かが選択しなければならない。そうした運命の人がいるのです。天命ということですね」

地面がぐずぐずと崩れていくような気がした。そういう決断をしてくれるために大人はいるんじゃないの?総理大臣とか大統領とか偉そうにしている人が?床に手をついた私の肩に手を掛けて晴明は囁いた。

「さあ、手をお上げなさい。せっかくですから少し黄帝と蚩尤のお話を申し上げましょう。それはトゥバンという龍座の星がもっとも北に近づいた頃の事です。すなわち昏い星が衰微して次の北極星であるコカブに遷位するタイミングで起きた事でした」

今から三千五百千年前(それは平安時代から数えての事だけど)、黄帝は兄の炎帝と争い勝利した。晴明の話では、その兄弟の争いは後にコカブからポラリスへ北極星が遷り最終的にポラリスが北の天に輝くべきであった事を指し示しているのだそうだ。すなわちポラリスは黄帝の象徴と言う事らしい。

 その争いの後、今度は蚩尤という化け物が魑魅魍魎を仲間に引き入れ黄帝に戦いを挑んだ。蚩尤は戦いの最中に霧や闇を作り出し黄帝は苦戦を強いられたが、指南車という常に南を目指す器械を発明して闇や霧に迷う事が無くなりついに蚩尤は捕えられた。蚩尤は殺されたが、蚩尤の親族や仲間の一部には逃げおおせた者がいた。

「指南車と北極星には関わりがあったのです」

指南車は北極星を基準に常に南を目指すように造られた。その頃の北極星はトゥバンでしかも最も北極に近づいていた。しかしそれでも正確に北極を指していた訳ではないし、第一星が暗すぎて調整するのが困難だったのだ

 「用意された指南車は百台、それを崑崙の麓から南へ向かって押し出して、徹底的に残党を探したそうです。ですが南へ向かうに従って狂いは大きくなりある地域では重なりある場所では抜け落ちた。蚩尤の残党たちの一部はそのおかげで南域の山の中に逃げおおせたのでしょう」

 時がたち蚩尤の残党たちは少しずつ力を蓄えていった。

「あなたがやって来た時代では彼らは既に様々な形で世界中で蠢いています」

晴明は静かに語り終えると。

「時は満ちつつあります」

一言を残して、晴明はすっと立ち上がり部屋を出た。その途端、鳥の鳴く声や人の気配、そんなざわめきが溢れるように戻ってきた。

「変なプレッシャーかけないでほしいわ」

呟いた私に、晴明と入れ替わりに入ってきたききょうが

「は?」

 と聞き返した。


 その日、一日中私は晴明の語った話を反芻はんすうしていた。

 もといた世界。

 父や母と穏やかに暮らしていた世界、御園先輩やユキたちと遊んだ楽しい世界。私にとってかけがえのない世界だ。その世界は蚩尤と言う化け物によって恐ろしい世界へと変わってしまうのだろうか。もといた世界を肯定するならば、私はここに留まるべきなのだろうか。

もといた世界。

 それはどんな世界だったのだろう。父と母、友達に囲まれて私自身にとっては幸せな世界だった。だが、そこに暗い影は見えなかっただろうか。忘れかけていたことが少しずつ思い出されてくる。理由のない暴力や殺人、いじめ、格差、宗教や国家の対立。新聞に毎日のように載っていた暗いニューズ。

父が昔、戦争について呟いた事があったのを思い出した。昔から人間は対立していた、と父は言った。食べるもの、異性、水や森などの資源。対立が強まったり弱まったりしながら次第に抜き差しならないものになっていったのはなぜか分かるかい?それは技術の進化が起きて相手からこうむるダメージが許したり忘れたりできないほど大きくなってきたからなんだ。取っ組み合いだけだったものが、棒を使い、刃物を使い、銃を使い、大砲を使い、今では地球を何度も破壊できるほどの爆弾を抱えて人類は生きている。僕らは破滅のトバ口に立っているのかもしれないね。

「陰陽師の方と会ってからの姫はおかしゅうございますよ。顔色もお悪うございます」

ききょうが心配そうな顔を向けてきた。

「いかがされたのですか?何か心を悩ませておられるような事があれば私に仰いませ」

「ありがとう、でも何でもないわ」

「右馬の介様の事でございますか?それでございましたらお好きになられても他のどなたかが不幸になると言う事はございませぬよ、たぶん」

ひどい言われ様だ。でも恋の悩みだったらどんなに気楽だろう。

「ききょう」

私はききょうの手を取った。

「もし、私が何かを決めて、それが他の人たちの運命を変える事になってしまうなら・・・。右馬の介様の事ではないけどね、私はどうすればいいと思う?」

「左様でございますね」

私の様子が深刻だったから驚いのだろう、ききょうは暫く考えてからはっきりとした口調で答えた。

「おひぃさまがお望みになる様になさいませ。そして決められたことを最後まで御信じなさいませ」

思えばききょうにそう言われた瞬間、私の決心が固まったのかもしれない。何かを決めた時、そこから産まれ出るすべての結果を私はすくい取る事は出来ない。それは誰かを幸福にし、誰かを不幸にするのかもしれない。そしてその事で私は心の傷を背負わなければならないのだろう。それならば私が最大限に努力して考えて自分自身が納得した方を選択するしかないのだ。私自身を守るためにも。

翌日、右馬の介様から届いた文を手に

「文が参りました。誠に遅うございます」

ぶつぶつ言いながらもききょうは晴れやかな顔で私に文を渡してくれた。

「ありがとう」

私もできるだけ明るい声でそれを受け取った。

「陰陽師の方が仰っていましたけど右馬の介様の御具合はだいぶ悪かったようですよ」

ききょうは、まあ、と目を丸くしたけど

「丈夫だけが取り柄の癖に頼み甲斐のないお方でございますこと」

と相変わらず手厳しい。

文をききょうが読み上げる。

「お久しゅうございます。早く文をと思いつつ、今も臥せております。漸く筆を取ることが出来るようになりましたので、真っ先に姫様にお文をとわななく筆でしたためている次第でございます」

ききょうは、はぁ、と溜息をついた。

「何とも艶気のないわななき方でございますこと」

「そう?神経を痛めたのじゃないかしら」

「何でございますか、そのシンケイとか申すものは・・・?」

「いいの。読み進めて」

「それでも以前御一緒しました陰陽師、安倍晴明というものによればすぐに良くなると申しております・・・、と」

ききょうはあてつけるようにわたしをちらりと睨む。それからいかに自分が姫様を・・・つまり私の事を慕っているのかが綿々と書き綴られていて、聞いているだけで顔が火照って来た。ききょうはそんな私をちらりちらりと覗き見しながら、

「さて」

と声を高めた。

「『晴明は不思議な力を持っておりますが、果たして姫様のお味方なのかどうなのか、わたしには少々疑わしゅうございます』、と。なにやらご自分だけがおひぃさまのお味方のような書きようでございますこと」

ききょうはちくりと皮肉を加える。

「『何やら企んでおるようでございます。ご注意あれ』との事でございます。やはり陰陽師様とおひぃさまの仲をお疑いのようですね」

ききょうはさっさと手紙を文箱の中に仕舞いこむ。

「陰陽師のお方のほうが目許も涼しげ、物言いもきりっとされております。右馬の介様はさぞかし気を揉んでおられましょう」

「そうかしらねぇ」

確かに晴明は目立たないけど、どの時代でもそれなりに通用する顔立ちだ。

「さて、お返事はいかがなさいましょう」

「え、返事をしないといけないの?別に恋文じゃないでしょ?それにいちいち返事していたらやり取りがいつまでも終わらないじゃない」

「何を仰います。延々と終わらぬからこそ縁ではございませぬか。返事をなさらないと言う事はその方との縁を切りたいと言う事でございますよ。なるべく早くお返事をせねば」

ききょうは至って真面目にそう言う。

「それじゃラインとおんなじ・・・」

言いかけて慌てて口を閉じた。溜息を一つついてききょうに代筆をお願いした。まだまだ私の手では

「申し訳ございませんが、まだおひぃさまの筆遣いでは百年の恋も冷めてしまいましょう」

という訳だ。お怪我は大丈夫ですか、とかお気遣い有難うございますとか、差し支えない言葉を並べ、最後に

「晴明さまはさほど悪い方のようには思えませぬ、せっかくのお友達を大切になされませ」

そう書いておいてね、と頼むとききょうは首を傾げ暫く躊躇うように私を見てからその言葉を筆にしたのだった。


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