第12話 右馬の介の談 1 天慶3年 長月


「右馬の介、お前の邸の隣に住んでおられるのは按察使大納言様でいらっしゃるよな」

突然そう尋ねられたのは、「あやつ」の家で二人で酒を酌み交わしておった時・・・、そう、今から二月ふたつきほど前の事でございました。

「うむ?」

 口にしていた蓴菜ぬなわの酢の物を飲み込むと「あやつ」の端正な横顔をしげしげと眺めてからわたしはおもむろに、

「いかにも」

いらえたのです。

 少し間をおいたわけといえば、「あやつ」が他人ひとの話を滅多にすることがなかったからでございます。話と言えば花鳥風月や弦楽の遊びの事ばかり、どうも人嫌いなのかと思い始めていたのですが、それにしてはしきりにわたしの家に参るのが不思議と言えば不思議で、その心のうちを推し量りつつ語り合うのが私の一つの愉しみでございました。

 そんな私の心を知ってか知らずか、

「あそこに姫がおられるな」

 あやつは素っ気なく話をすすめたのでございました。

「確か、お一人おられるはずだ」

答えたわたしの脳裏に、むかし見た美しい様子の子供の姿が浮かびました。おさないころ良く垣根越しに、まりをひたすらな目をしながら懸命に追い回す姫の姿を飽かず眺めておったのですが、いつのまにやらその姿は見ることができなくなり幼心にがっかりとしたものです。

 もしやすると、あれは私の初恋であったやも知れませぬ。

 「あやつ」はその心を読んだかの様に無作法にもにやりと笑い、深く頷くと、

「その娘御が『まさがどの病』にかかっておるのは知っているか」

「いや、聞いておらぬ。本当か?」

 わたしは箸をおき背筋を伸ばすと、聞き返しました。

「放っておけばあと三日と持たぬ。それを助けたい。右馬の介、頼まれてくれぬか?」

「何を、だ?」

「大納言様の邸に行って、が姫様の病を治すと伝えて欲しい」

「む?」

その申し出は更に私を驚かせました。「あやつ」は仕えるのは主上のみと公言し例え三品さんぽんと呼ばれる貴い方々の事も主上の御許しがない限り決して占いや祈祷など行わぬのを知っていたからです。

「何ゆえだ、訳を言え」

並んで庭を見ていたわたしは「あやつ」の顔に向き直ったのでございました。

「うん?」

「あやつ」は不可解そうにわたしを見つめ返しました。

「おぬし、世間の些少なことには関わらぬと言っておったではないか」

その頃、陰陽おんみょうは地位や金品を求めて大臣を始めとした権力者の個人的な頼みを引き受けるようになっておりました。

 しかしそもそも陰陽は国の大事をかんじるべき者、それを金や地位とと引き換える堕落した有様にわたしは苦々しい思いを抱いておりました。そんな中でどれほど金を積まれようと「あやつ」はやんごとなきお方からの頼みを「些少なこと」と言って次々とねつけていたのでございます。付き合いはその頃はありませんでしたが、清々しいその仕様を聞き及びわたしは内心、喝采を送っていたのでございます。

「近頃の陰陽は堕落しておる。その点、お主は偉いもんだ」

以前、そう褒めた時、

「なに、歴・天文が私の仕事。つまらぬ事にかかずらっておっては肝心のことが出来ぬ」

と「あやつ」は笑いながら答えたのでございます。頼まれても引き受けない者がなぜ、わざわざこちらから申し出るのか、とわたしが疑問を持ったのも当然の事でございましょう。

 ですが「あやつ」は唇の端に笑みを浮かべると

「それはな、肝心の事だからよ、右馬の介」

とあっさりと申したのでございます。

「そうか、ならば引き受けよう」

わたしもできるだけあっさりと答えました。あの姫が命の灯を今まさに消さんとなされている、その事に動揺しておりましたが、「あやつ」が心変わりするようなことのないよう動揺を悟られまいと思ったのです。それに対し「あやつ」は淡々と、

「うむ、では頼む」

と頷いて相も変わらず庭を見ながら酒に手を伸ばし、ゆっくりと杯を飲み干しました。

「では、帰る事にしよう」

とわたしが立ち上がると、「あやつ」は意外と言うような表情でわたしの立ち姿を見上げました。

「早い方が良いのだろう」

 そう応えると、

「明日までは待てる。なにもそんなに慌てなくとも良い」

「あやつ」は笑みを浮かべました。

「いや、どうも落ち着かぬ。万一、明日になったら何が起こるかわからぬではないか。吾に慮外りょがいの事があるやもしれぬし、姫様が突然命を落とす事だってあろう?」

姫の事を想い内心焦りにもにた気持ちでそう答えますと、「あやつ」は

「だが、お主が今帰れば却って途中で賊に襲われるという事も考えられる。さすればお主も無駄死に、姫の命もそれまで、となる」

涼しげな顔で脅して参ったのでございます。

「そうなのか?」

浮かせた腰をおろし、私は「あやつ」の目を覗き込みましたが、「あやつ」は石清水のように澄んだ眼で私を見返すと、春の風のように笑ったのでございました。

「今日帰ろうと明日帰ろうとお前の身には何も起こらぬ。姫も命を落とさぬよ。まあ、せっかくのささだ。思うほどに呑んで行け」

結局その日は「あやつ」と共に夜が更けるまま呑み交わす事にしたのでございます。翌朝、別れ際に

「そうだ、右馬の介。良いものをお前にやろう。使いの礼とでも思ってくれ」

「あやつ」はそう言うとぽんぽんと手を叩いたのでございます。奥からいつもの清げなおなごが捧げ持って参ったのは一振りの剣でございました。

「ほう。なんだこれは」

 渡された剣は思ったより軽く、柄を抜くと刀身は鈍色がかっております。とても切れそうには見えませぬ。

「なんだ玩具か?」

「馬鹿にしてはいけない」

「あやつ」は剣をわたしから取ると、女子が一緒に持ってきた薪を空に投げ無雑作に切ったのでございました。音もせずに薪が真っ二つに割れたのを見て、

「またお主の妖術か」

と笑いますと、「あやつ」はにやりと笑い、

 「妖術などではない」

そう言うともう一本の薪をわたしに手渡したのでございます。同じようにわたし自身が試してみますとさしたる手ごたえもなくすぱりと薪が真っ二つになりました。

「これはすごい」

割られた薪の切り口は寸分の歪みもございません。

「お主の腕とこの剣があれば無敵だな」

「あやつ」は軽く手を打ちました。

「本当に貰っていいのか」

「いいとも、いずれその剣で助けて貰うこともあろうよ。だが人には言うな。下手な事をすれば主上に召し上げられてしまおう」

「あやつ」の言葉に、わたしはうむと頷いたのでございました。


邸に戻りすぐ隣に文を持たせますと、大納言ご自身の手で返答が参りまして、まさしく姫が病を得ておりすぐにでも診て欲しいと書かれております。それをわたしがまだ読み終わるか終らないうちに

「おいででござります」

家人けにんの言葉と共に、挨拶もないまま「あやつ」が現れたのでございました。

「なんだ、もう来たのか。今、遣いを出そうと思っていた所だ」

 いつもながらの唐突さに眉をひそめたわたしに向かってにやりと笑いかけ、

「うむ、そろそろかと思ってな。お主にこれ以上手を掛けさせては済まぬ」

そう答えるとゆっくりと文を手にしたわたしの前に腰かけますがその華奢な体に妙な威圧感を覚えてしまうのはいかなる訳でございましょう。

「すぐにおいで下されとの事だ」

「そうか、では参ろう」

「あやつ」は座位かのまま上半身を身動ぎもさせずにすっと立ち上がりました。どうも、時折人間離れをした動きを致すのです。では案内をしようと片膝を上げ立ち上がったわたしに「あやつ」は

「いや、大丈夫だ。一人で行かねばならぬ」

と手で制したのでわたしは仕方なく半端な格好で腰を降ろしました。

「ふん、お膳立てだけか」

と軽く不平を呟いたのはあの美しかった子供がいまどのような姫に成長しているのかわたし自身、この目で見てみたい気持ちがあったのでございます。


 じりじりと待つこと、一時ほどが経ちました。

「ええい、どうなったのだ?」

独り言ちした私の目の前に突然「あやつ」は音もなく、案内もなしに現れたのでございます。

「ぐわ」と口の中で驚きの声が漏れそうになったのを押し殺して、

「どうであった」

素っ気なく尋ねた私に

「うむ、病そのものはすぐに治る、いやもう治してきた」

「ほう、それは良かった。三日持たないと言っておったから心配していたのだ」

それはまことの気持ちでございました。すると「あやつ」はにやりと口の端で笑いました。

「なんだ?」

「お前、姫の御姿を見たかったのだろう?」

「さような事はない」

心を見抜かれるのは初めてではございませぬ。努めて平静を装って答えますと、

「そうか、姫の話を聞きたがると思ってわざわざ寄ったのだが。では帰る事とするか」

「なに、それほど急ぐこともあるまい」

引き止めたわたしに

「ははは、最初から素直になるがよい。姫はまだ裳着も済ませておられぬ。乙女でいらっしゃる。病もお姿に差し障りあるようなことはあるまい」

「そうか」

ほっとして頷いたわたしの顔を面白そうに眺め

「なかなか美しゅうあらせられたぞ」

と「あやつ」はからかうように申したのです。

「そうか?」

「そのうちに引き合わせよう」

「なら最初から会わせればよかろう」

むくれたわたしを

「まあ、怒るな」

と「あやつ」は手で制し、

「私のする事にはいちいち理由があるのだ」

と言い訳する様に呟きました

「何の理由かは知らぬがもう結構だ。どうせえにしなどないのだろうからな」

「ん?」

顔を覗き込んできた「あやつ」の視線に思わず目を逸らしたわたしでございました。

「承知しておろう、この顔ではなかなかに女には、な」


顔の真ん中にでんと居座っている鼻や削げた頬は他の公達きんだちの涼しげな顔立ちとずいぶんと違っておりました。とりわけ、人一倍大きなまなこは、

「五条の若は薬師の生まれ変わり、見れば長寿の利益がござる。二条の若は不動のなりかわり、まなこが合えば焼き殺される、あな恐ろしや」

歌にまでされているのでございます。五条の若とは右大臣の息、わたしと同い年でしたがとりわけ福々しいお顔立ちが京の女どもの間でも評判で、その優雅な立振舞もあって、主上にも愛されておられるお方で、それはそれで結構ですが、何もわたしまで引き合いに出して歌にすることはありますまい。

「母御が鬼と交わってできた子だそうだ」

以前、宿直をしていた時に他の者がそのようなひそひそ話をしている聞いた折には自分の事はともかく、母に対する悪口を腹に据えかね

「どこのどいつがそのような事を申したのじゃ」

と暴れために、しばらく謹慎の身となったのでございます。卑劣な陰口にもそれを聞いて暴れた自分にもくさくさとした気分で逼塞ひっそくしておりました時に、どこでその話を聞きつけたのか、わざわざ訪ねて来てくれたのが「あやつ」でございました。取り立てて親しくもなく、それまで口を利いたのも一度か二度に過ぎず、家人の取次に首を捻っておりましたわたしの前に案内あないもないままずかずかと上がり込み、

「だいぶ暴れたそうですな」

にこにことしながら現れたのが「あやつ」でした。そして、呆然と見上げているわたしに向かって

「なに、気になさる事はない。蔭口など叩く方が悪いに決まっている。殊に親の悪口などもってのほか」

そう申したのでございます。

「有難く申されるものでございますな」

 友とて少ないわたしにさようなことを申される方は少なく、真情をこめてわたしは頭を下げたものでございました。すると肩に手を置き、

「面つきなど気になさるな。千年の後にはお主のような顔が好かれましょう」

そう慰めてくれた「あやつ」に

「千年先に好ましゅう思われても一向甲斐がござらぬ」

さすがにそう不満を申すと、

「それはそうですな、ははは。いくらあなたでも千年生きることはさすがに叶いますまい」

「あやつ」のあげた気持ちよい笑い声につられついついわたしも大笑いをしたのでございました。

「きょうはささを持ってまいりました。さあ、共に呑みましょう」

「あやつ」が差し出した瓶子へいしの中の酒はたいそう美味うございまして呑み交わし酔う内に打ち解け合い、その夜の内に肩を叩きあう仲となったのでございます。すると翌日にはいつともしれぬと言われていた謹慎が突然に解けたのでございます。その節は「あやつ」が酒と共に運まで運んできたように思えたのでございした。とは申せ、かような面相でみやびを気取っても物笑いの種になろうという屈折した気持ちが変わるわけではございませんでしたが。

 縁などあるまい、とつい漏らしたわたしに、「あやつ」は、

「さて、それはどうかな」

 と謎のような言葉を放つと、では、帰らせてもらうぞ、と言って我が邸をさっさと後にしたのでございました。


「あやつ」が按察使大納言の姫様を治した二日後、礼の品々がわたしの邸に届きました。金や白銀の細工に風雅な扇などが納められてたいそう豪奢なものでございます。直に「あやつ」に届ければ日ごろそうした依頼を断っている「あやつ」に迷惑がかかるだろうという大納言様の細やかなお心遣いでございましょう。

「ご息女はお元気になられたのですね」

何気なく尋ねますと、使いの者は半笑いを浮かべて

「命だけは助かりました」

と妙な事を申します。

「命だけは、とは?」

と重ねて尋ねますと

「いえ、それ以上の事は御赦おゆるしくださいませ」

そう言うと、しどろもどろのていで使いは逃げ帰って行ったのでございます。

 「あいつは大丈夫と言っていたが、何か障りが残ったのであろうか。お若いのにあわれな」

と憮然としておりますと大納言様の使いと入れ替わるようにして「あやつ」からの使いが文を持って参りました。「あやつ」の家で仕えております「残花」と言う、さきにも申し上げた通り大層清げな女子でございます。

 どこからどうやって忍んでくるのか、案内も通さずにやってくるのは常の事、文を黙ってわたしに渡すと嫣然えんぜんとわたしを見詰めておりますが、わたしは仏頂面のまま「あやつ」からの文に目を通したのでございました。女の衣に焚き染めている香りがどこの物とも知れぬ良い匂いで妙な気分になるのですが、その女が式神であることは承知しております。以前ついついその気になって手を出したお蔭でみっともない姿を家人にさらしたことがございましてからというもの、女の挑発を無視することに心を決めております。

 文をひもとくと

「お主がとっておけ」

と一言書いてありました。ははあ、進物の事だなと悟り、

「あいわかりました。礼を申していたとお伝え下され」

女に告げますが、女は立ち去るでもなくじっとわたしを見詰めたままでした。その誘うような笑みに、

「桜の枝を抱いた裸姿を二度も家の者には見せるわけには参りませぬ。早うお帰りあれ」

と強く申しますと残念そうに流し目をくれ女はふっと姿を消したのでした。


 桜の枝を美しい女の姿に作り、使いとなすとは・・・。どうして下らない悪戯を仕掛けるのかと次に宮中で会った時に問い質したのですが「あやつ」は

「ははは、気にするな。ところで、やがてまた大納言様から話が来よう。その時も必ず承ってくれ」

そう言ってはぐらかしたのでした。


さて、それから一月と半ばほどが立ち「あやつ」の言葉を忘れかけていた頃、大納言様の邸から再び使いが参りました。娘御がけつねに憑りつかれたようで、ぜひもう一度陰陽の方に見て欲しいとの事にございます。ははあ、あの時の使いの様子はこの事だったのだなと合点し「あやつ」に言われた通り直ぐに承知をして使いを帰したのでございましたが、ふと

「わたし自身が姫のご様子を見ておかねばの。けつねがついた姫という珍らかなものを見損うのは惜しい。あいつは引き合わせると言っておったが、どうだか」

と思い立ったのでした。そればかりかどうしても望みを叶えたくなったのでございます。先だって姫様にお会いできなかった恨みが残っていたとしてもなぜそんな考えに突然憑りつかれたのかは今もって定かではありませぬ。

 ありのままの姿で忍んで行けば万一の時にけつねを抱えたままの姫様を押し付けられかねませぬ。いくら女に縁がない、姫に横恋慕しているとは申せ、けつねまで一緒と言うのは御免蒙りたいものでした。

 ならば女の姿をして行けば・・・冷静に考えれば実に愚かな思いつきでございますが、その時は良い考えだと思わず手を打ったのでございます。

さすがにひとりで行くのは恥ずかしいと、すぐに権の介という者を呼びつけます。

「権の介」

「なんでございましょうか」

権の介は女のように細い体つきでございます。

「おぬし、女の衣装を着た事があるか」

その問いに権の介は眼を泳がすと

「ございませぬ」

うつむいて硬い口調で呟いたのでございます。

「そうか、一度試してみないか」

そう申すと、権の介は小刻みに体を震わせ絞り出すような声で

「いやでございます」

と答えました。

「頼む。お主しか頼める者がおらぬのじゃ」

「若様・・・あさましゅうございます」

「なに?」

「いかに女どもがお相手せぬとは言え、わたしに女の格好をさせ、手籠めになさろうとは・・・情けのうございます。以前は桜の木、今度は私でございますか?」

どうやらとんでもない勘違いをしているとは分かりましたが、女が相手せぬなどと言われたのに腹が立ち

「馬鹿を言うではない。なんでお前など手籠めにするものか。まだ桜の木の方がましじゃ」

思わず足で蹴りつけますとよろよろと転がったので、からかい交じりに抱きつきますと

「あ・・・」

と、体を強張らせた権の介はじっと動きませぬ。馬鹿馬鹿しいので、ごつんと肘を腹に食らわせて立ち上がり

「そうではない。そなたも聞いておったであろう。大納言様の娘御がけつねに憑かれたそうな。一度見てみたいものだがさすがに面と向かっては言い出しかねた。さりとて尋常の格好で忍んで行けば誤解されよう。お前も一緒について来いと申しておる」

「は?・・・それでは、若様のお相手をしろということではございませぬのか?」

転がったまま頭をもたげると権の介はじっとりとした目で私を見ます。

「そうして欲しいのか?」

「いえいえ・・・とは言え一度は覚悟をしたのでございますが」

何だか残念そうにぽんぽんと裾を払って立ち上がった権の介を

「つまらぬ覚悟などせんで良い」

と私は叱りつけたのでございました。女房共の古着を集め、いくつか着せてみますと権の介にはすぐにぴったりとしたものが見つかります。

「似合うておるぞ」

憮然としている権の介にそう申しますと泣きそうな顔になって

「はよう、若様もお召しくださいませ。一人では恥ずかしゅうございます」

そう申したのですが、わたしは柄が大きいせいか引き替え取り替えしてみたものの、合うものがございません。

「権の介、この家で一番大きい女は誰だ」

と、問いますと権の介は即座に

「樋すましの千代でございましょう」

と答えました。

「樋すましか・・・千代に樋すましというは哀れであるの」

答えたわたしの口はへの字に曲がっておったに相違ありませぬ。

「さようの者が口汚く食ろうて肥えておるか。末法じゃの」

「はあ」

権の介は要領を得ぬように私の顔を見上げました。

「お主もまた末法の者よな」

「なぜでございましょうか」

「私に樋すましの姿をさせて、自分は女房装束を着るとお主はいうておるのじゃ」

「さようなつもりはございませぬ」

心外とでもいうように首を振った権の介にわたしはきつく申し渡したのでございます

「いや、つもりがあろうとなかろうとお主の言うておる事はそういう事だ。罰としてわしに似合う装束がみつかるまでそのままの姿でおれ」

翌日、女房姿で現れた権の介は

「染殿の衣装を直せば何とか合いそうです。さっそくお試し下され」

と縋りついて参りました。女房どもにさんざんいじられたのでございましょう、体から白粉の匂いがぷんと立ち昇り、顔に化粧のあとがまだらに残っております。

「よかろう。権の介、お前の女房姿、なかなか似合っておるぞ」

そうからかうと権の介は涙目になって

「ひどうござります」

恨みがましくわたしを睨むその眼はどこか妙になまめかかしゅうございます。

 染殿の衣装を担いできたのは権の介をからかった女房達で、さすがにわたしにはさような無作法な真似などは致しませぬが、互いにつっつきあいさざめいております。

「衣装が私に合わなければ新たに仕立てねばならぬ。仕立てあがるまではお前はいつまでもその姿でおるのだ」

「そんな・・・」

女どもの華やいだ笑い声に打ちひしがれている権の介を脇に追いやると女房達に命じて壺衣装を身につけさせたのでございました。直しをせぬと多少きつくはございましたがわたしも気が急いておりましたので、

「うむ、これでよかろう。そろそろあやつにも話さねばならぬ。おっつけ大納言様の家からも急かしに来るに違いあるまい。その前に一目姫を見ねば」

そう言うと権の介を引き連れ、さっそく隣の邸の様子を確かめに出たのでございます。

「かような姿を邸の者以外に見られたらなんとします。邸の者たちにさえ、手ひどくからかわれておりますのに」

泣きべそをかきながら付いてくる権の介を

「なに、心配するな。世の中には男か女か化け物かわからないようなやつはたんとおる」

そう励まし、小路に出てあたりをうろうろとしておりますと見知らぬ童どもが按察使大納言様の築地ついじの前に集っております。

「お前たち、何をしておるのだ」

童共は私たちを見ると目を丸くして後退あとずさりました。

「なんじゃ、答えぬか」

と叱りつけますとその中で年長らしい者が

「この辺りにはたがの外れた御方ばかりが住んでおるのじゃな」

生意気な事を申します。

「何を言うか。われらは中納言の家の者であるぞ」

愚かにも女の格好をしている事も忘れて自ら名乗りまであげ、童を打擲ちょうちゃくしようとする権の介を押しとどめ

「箍の外れた御方とは誰の事を申しておるのだ?」

と尋ねますと先ほどの者は

「このお邸のお姫様よ。前は普通だったんだけど、この頃変になっちゃてさ。おいらたちに虫を集めて来いなんて言うんだ。あんたたちも形は女なのに声は男じゃ。似たようなもの。箍がはずれておろうが」

と答えたのでした。

「おお、そうか。姫を知っておるとは何より・・・。とは申せ、虫を愛でておられるとは確かにたいそう変わっておられるの。わたしもひと目見てみたいものだ。あないしてくれぬか」

頭を下げて頼みますが、その童はわたしを頭のてっぺんからつま先までじっくりと眺めた挙句、

「だめだ。姫様からはかくなわを頂戴した。恩のあるお人を裏切る事は出来ぬ」

偉そうにもきっぱりと断って来たのでございます。いかにも忠義ぶっておりますが所詮しょせんかくなわごときに釣られる浅ましい性根です。

「そうか、かくなわをの・・・ではあないしてくれれば芋粥を進ぜよう。それでどうじゃ」

猫なで声で申しますと童共はいっせいに

「芋粥かぁ」

と感嘆の声をあげ、頭を寄せ集めて何やらこそこそと話し合いだしたのでございました。

「わかりました、それではあないして差し上げましょう」

先程の童が言葉遣いまであらためて、勿体もったいぶった様子で連れていった先は築地の崩れでございました。いったいに築地は地震があれば崩れ、火事があればひび割れ、牛車がぶつかればこぼたれるという面倒なものです。直すにもそれなりの掛りがありますが・・・姫がおられることを考えれば不用心と言えば不用心。

「ここから入るのか」

中納言の長子たるものがと、さすがに気が咎め見回しますが幸いな事にあたりに誰もおりません。

「うん、簡単だよ」

明るい声を出した一人の小柄な童がするすると穴に入り込むとすぐに築地の向かい側の上から顔を出し手を振ってみせます。

「お主たちには楽であろうがの」

溜息をつき、

 「権の介、試して見よ」

命じますと権の介は

「私めがでございますか?」

心底嫌そうな声で口答えを致しました。

「何を言うか。そのためにお前を連れて来たのじゃ。ついでにようく穴を広げるのだぞ」

頬をぷっと膨らませた権の介ですが、つまらぬ意地を張るより覚えをめでたくした方がましだと考え直したのでしょう、存外素直に穴の中に這い入ったのでございます。

「少々きつくございますな・・・ですが、何とか」

暫くじたばたしておりましたが

「若様、通り抜けられました」

築地の向こうから声が致しました。

「そうか、では参るぞ」

そう言ってわたしも築地の穴に体を突っ込んだのでございます。


それから小半刻・・・

「若様、腕は動きませぬか。肩は抜けませぬか」

 権の介が必死の声をあげております。穴の向こうに額に汗をかいた権の介の顔が見えてはおりますが、不覚にも穴に嵌ったままわたしは身動きが取れません。

「いや、無理だ」

「やはり、この家の者を呼びましょう」

 諦めたような声を上げた権の介に

「馬鹿を申すな。かような姿を見られたら末代までの恥。姫にも知られてしまうではないか。お前が先につかえてしまえばよかったのじゃ。この不心得者め」

 と今度はわたしが必死の声を上げました。

「何をおっしゃります。ではわたくしが密かに邸に戻って助けを呼びましょう」

「だめだ。誰か通りかかったらなんとする。それにお前はどうやって出る積りだ。穴はふたがっておるのじゃぞ」

「それはそうでございますな・・・ではいかがなされます?もろこしではさような御姿で石に変じた僧侶がおったと聞きますぞ」

 その話は私も聞いたことがございます。

「何を不吉な・・・しかし弱ったの」

最初大笑いしていた童どもさすがに心配になったのか

「おじさん、大丈夫?」

と尋ねて参ります。

「おじさんとはなんだ。失敬な・・・大丈夫でないことくらい見ればわかるであろう」

ついつい尖った声に静まった童どもがやがてひそひそと話し始めたのが聞こえて参りました。やがて何やら話がまとまったらしく一人の童が駆けだして行く足音が聞こえました。まもなく、足音が戻って来て息せき切った声で

「御許しあれ」

という声が足の方から聞こえてきました。

「何を許せと?」

問いかける間もなく、わたしの股間にかつて味わったことのない激痛が走ったのです。

「うぁがっ」

言い表せぬ声を上げて身を捩った私でございました。

「若様、肩が抜けましたぞ。もう一息にございます。ようございました」

苦痛に歪んだわたしの顔に向かって権の介は嬉しそうに声を掛けて参ったのでございました。何とか穴を通り抜けてから小半刻、築地の内側で立ち上がる気力もなく、無様な恰好を人に見られなかった事だけをしみじみと幸せに思っていたのでしたがやがて痛みが引くと何とか気力も戻って参りました。

「権の介、かような目に会った以上、ぜひとも姫の姿をしかと見ねばなるまいぞ」

痛む尻を左手で庇いながら権の介に言いますと

「さようですな。が、帰りは如何致しましょう。果たして若殿の股が持ちこたえますか」

真面目な顔で言う権の介の額を一つはたいて

「何、一度通る事の出来た穴だ。広がっておろう。とはいえ、何とか尋常に帰りたいものだな」

 といに詰まったごみでもあるまいに、棒でつついて押し出すとはと童を恨みましたが、結局そのおかげで穴から出られたわけで、このままではごみと大して変わらぬではないかという思いが募ります。

立ち上がって我が身を検めますと装束のところどころが解けて歪んでおり、泥や枯葉がこびりついています。このままでは正にごみ、それをはたいたり直しておりますと、童の一人が

「あ、姫様があそこに」

指で指し示した方を見遣りますと熱心に草花を見ている若い女の姿が見えました。

「ほう・・・なるほど。噂通り眉も剃ってございませぬな。あのようにあけすけにお笑いになるとは何ともはや」

呆れたような声で呟く権の介の横で、わたしは雷に打たれたように身を強張らせていたのでございます。

 それは股に喰らった打撃よりも痛烈な一撃でした。同じ花を見て愛でる者もあれば何も感じぬ者もおります。れ者の目にはあの匂うような気高さが観て取れぬのでございましょう。

「若様、いかがなされました」

痴れ者が尋ねて参ります。

「麗しい、何と麗しい姫であろうか」

袿に映える頬は柔らかな桃に似て匂い立ち、弓のような眉は冬の冴えた空に昇る三日月のようでございます。

「は?」

と尋ね返した痴れ者の額をピシリと叩き

「かように麗しい御方を見た事がない。お前にはわからぬのか」

質したわたしに目をぱちくりとさせ

「何を申されます。眉刀自女のようではございませぬか」

そう言いながら痴れ者は後退りました。

「馬鹿なことを言うな。何としてもあの姫を貰い受けたいものじゃ」

赤くなった額を抑えながらあんぐりと口を開けております権の介を放ったまま姫の御姿を今少し間近に見ようと身を乗り出したその時、ひさしに座っているもう一人の女と眼が合ってしまったのでした。

「御姫様、あそこに誰かが・・こちらを覗いております」

その声に慌てて身を隠します。

「まことに?」

答えた声も鈴の鳴るような麗しい声でございました。





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