第10話 ききょうの回想 4 天慶3年 葉月
姫様が大騒ぎを起こした次の日、殿から密かにお召しが御座りました、殿は
ですから、どのようなお叱りがあるものか、胸がはりさけそうな思いで殿の許へと参ったので御座ります。ですが、殿はお叱りになられることもなく
「姫の事じゃ」
お声はあたりを憚るように潜めて御座りました。
「はい」
私も小さな声でお答え申し上げました。
「病が癒えてからというもの、人が違うようだと皆申しておる」
「はい・・・」
それは確かな事で御座ります。
「女房どもがけつねが憑いておるのではないかと申しておるのは知っておろう」
「さような・・・」
抗うように申し上げましたが殿は首を振るような仕草をなされました。
「姫は虫を集めておろう。けつねは鼠や虫を喰らって生きる物という」
「まさか。おひぃさまはお出ししたものを朝夕、召しあがっておられます。虫をお召しになる事など決してございませぬ」
しかし、と殿は申されます。
「あの油菓子、かくなわと申すものを一度に幾つも作らせたとも聞いておる。けつねは油も好む生きものじゃ」
殿のお声には沈痛な響きが御座りました。
「あれは虫を集めた童共に褒美としてやったものでございます」
「そうか、なるほどの」
殿はそう仰ると暫く目を瞑り黙っておいででございました。
「ききょう、そなたは姫の一番近くにおる。そなたはどう思っておるか、
その問いに私は思ったままのことを申し上げました。
「はい・・・おひぃさまは昔の事をお忘れになっておられ、以前は当たり前になすっておられたこともできない事がおじゃります。なれど、ひとたびお教え申し上げれば、わけもなく成し遂げられます。けつねにさようなことはできますまい」
「ふむ」
殿は立派な御髯を片手でしごかれると考え込むように中空を見詰められます。
「大変なお熱でございましたから、昔の事をお忘れになったのも無理からぬことでございましょう。ただ・・・」
「ただ、何じゃ?」
「時々不思議な事を申されます。聞いた事もないような言葉をお使いになられることもございまして」
スマホとかパパとか、時折懐かしむような声で、ご本人もお気づきになられぬような密やかに呟かれたことを申し上げますと、殿は首を捻っておられました。龍と虎の白金細工の事もよほど申し上げようかとも思いましたが、万一取り上げられでもしてしまったら姫様の身に何やら良からぬことが起きそうな気がして、申し上げないことに致しました。
「真名の事も不思議じゃ。姫は男の手は知らぬ筈。知っておるべきものを知らず、知らぬはずのことを知っておる。さればけつねが憑いたとも強ちにも
「いえ、けしてそのような。姫は聡明におわします」
殿は得たりとばかりに頷かれました。
「あの眼じゃ。例え、人の言葉を操るけつねがおるとしてもしょせん獣は獣、あのような澄んだ眼をしているはずがない」
「さようでございますとも」
しばしの沈黙ののち、殿は静かにわたくしに仰られました。
「ききょうよ、万一けつねが憑いておろうとあれはわしの娘だ。わしが守ってやらねば誰が守ってやれる?お前を味方と思って頼りにしておる」
「北の方は早くけつねをおとさねばならぬ、居ついたら大ごとだと申してな。けつね落としの祓いをする事になった。なに、ついておらぬなら落ちもしまい。
「おひぃさまはその事を御存じで」
「うむ、聞いておらぬか」
「いいえ。おそらくはさほどの事とお考えではないのでございましょう」
「そうかもしれぬ」
けつね落としは決して楽なものでは御座りませぬ。苦しんだけつねのせいで憑りつかれた者が死んでしまう事もあると聞いて御座ります。憑いておらぬけつねは落ちもせぬと仰った殿の言葉を頼りにしつつも、わたくしは暗い気持ちで姫の許へと戻ったので御座りました。
そしてけつね落としの当日、わたくしもはらはらしながら見守っておりましたが殿はどんなお気持ちで御座りましたのでしょう。白い
それ以来姫様を見る皆の眼差しは変わったので御座りました。ただのけつねではなく魔物が住みついているのではないかという噂はあっという間に邸中に広まり、邸の内はただならぬ雰囲気へと変わって行ったので御座りました。
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