第9話 空音の記 4  941年 盛夏


翌日、私は「母上」から呼びだしを受けた。

 その事を私に伝えたのはききょうだった。ききょうは言伝を太夫の君から伝えられ、私のところへ来た時、すでに目がうつろだった。よほど太夫の君に嫌味でも言われたのだろう。その上、また私が拒むのではないか、とおどおどしたようすで両の目に涙を滲ませているのをみて私は反省をした。少しはききょうの立場も分かってあげないと・・・、そう考えて私はききょうの言葉に頷いた。

 北の対へ向かう渡り廊下の先にお局三人衆が膝をついて私たちを待ち受けていた。昨日私の悪口をさんざん言っていた癖に三人ともそんな様子を毛ほどにも表情に出さずにかしこまって膝をつき頭を下げていた。京都の人間に表裏があるってときどき悪口を言われるのは。こういう人たちが粛々しゅくしゅくと築いてきた文化なんだろう。でもききょうみたいに素直で優しいひとだってもちろんいるのだ。だが・・・。残念ながら私もあんまりいい意味ではなく京都の血を引いている。思い切り無表情に、素っ気なくその傍を通り抜けた。

「母上」は一段高い床に厳しい顔をして座っていた。「母上」と言ってもずいぶんと若い。ちょっと歳の離れたお姉さんと言っても通りそうだ。私は黙って膝をついたまま深々とお辞儀をした。

「はしたないことをしておるようですね、太夫たちから聞いておりますよ」

「母上」は静かな調子で切り出した。

「虫を飼っているだけでございます」

「虫を飼う・・・女子おなご然様さようなことをするのは聞いた事がございませぬ。まともな女子は虫などとは関わりあわぬもの」

いつの時代も母親のいう事って変わらない。

「そのような振る舞いが世に知られては家の名に傷がつきます。殿方も近づいて参りませぬよ。それに歳を考えて眉もお剃りなさい。まるで眉刀自女のようではないですか。あなたの腰結こしゆひは権中納言様に頼んでございます。さて、髪上げをするのは、どなたかな、と権中納言様も楽しみにしておられますよ。さように皆があなたの事を考えておりますのに、何ですか、虫など」

少しずつ声のトーンが上がって来た「母上」の話を聞いているうちに私の頭のどこかでカチリとスイッチが入ってしまっていた。

「虫が気味が悪いなどというお方はこちらから願い下げでございます」

私が口答えをするなんて予想していなかったのだろう。じわじわと目を見開いたかと思うと、

「な、何を申すのですか」

甲高い声で叱りつけた「母上」に

「申しあげた通りでございます。では」

 そう言い捨てて帰ろうとした私を「母上」は不思議なものを見るような眼で追っていたが、あぁ、と声をあげるなり、そのまま横に倒れてしまった。

「あれ、北の方様が」

ききょうの叫び声を聞きつけてお局三人衆を先頭に外で成り行きを窺っていたお付きの女房達が雪崩なだれ込んできた。

「何をなさったのです」

太夫の君が怒気どきに満ちた目で私を睨んだ。

「いえ、何もしてないけど・・・」

こんなに簡単に「母上」が失神するとは思っていなかった。あの夜のききょうといい母上といい、メンタル弱すぎじゃない?メンタルポイントほぼゼロに二人に比べ、私の目の前で目を吊り上げているお局様はメンタルポイント千ぐらいありそう。でもこっちだって負けていない。メンタルポイント千同士の睨みあいに、

「ともかくも、北の方様を床へ」

兵衛が太夫の君の袖を手繰たぐり、太夫の君が

「御方さま、大丈夫でございますか」

北の方が薄目を開けたのを見てここは忠義心を見せねばと大袈裟な振りで太夫の君が寄り添ったその隙に

「ききょう、帰るわよ」

呆然としているききょうの手を私は取った。ここでは私の一言、一動作が、爆弾のように女たちを激怒させたり失神させる効果を持っているようだ。ききょうもこのままではお局三人衆と私の間で取っ組み合いでも始まりかねないと思ったのだろう。殆ど中腰のまま私たちは渡殿を通り抜けた。

「どうなさるお積りですか」

さすがのききょうも腹を据えかねている様子だった、普段のほんわかとした雰囲気はどこへやら、青白い顔で私を見据えている。

「あんな事で気を失うなんて思わなかったのよ。何で簡単に失神とかするのかしら」

言い訳した私をききょうは手を腰に当て・・・、そんな姿を見たのは後にも先にもその時だけだったが、叱りつけてきた。

「冗談では済まされませぬ。あのようにぶしつけに仰られては北の方様が御加減を悪くするのも無理御座いませぬ」

ききょうは本気で怒っていた。

「ごめんなさい、確かに言い過ぎたわね。私が悪かったわ」

素直に謝る。ここでききょうにまで見放されてしまってはたまらない。ききょうは暫くじっとりとした目で私を見詰めていたがふっと力を抜くと

「しょうがございませぬね」

と諦めたように呟いた。

「ききょう・・・」

私の声は切実な響きを帯びていたのだろう、ききょうがはっとしたように私の顔を見た。

「私がこの家でうまくやっていけてないのは分かっているの。私自身のせいだというのも分かっている。でも、それにはわけがあるの。お母さまの仰るようにして差し上げれば良いのだろうけど。あなたにまで嫌われたら、わたし・・・」

ききょうに本当の事を話せたなら・・・。でも話したなら、私がお仕えしてきた「橘の姫君」とは別の誰かだという事を知ったならききょうはそのまま私の味方でいてくれるのだろうか?何よりもそんな話を信じてくれるのだろうか?

「しかたございませぬわね」

ききょうは微かに口許を綻ばせた。

「いずれにしても何とか致しせねばなりませぬ」

項垂れている私の傍にききょうは寄り添うとそっと私の髪を梳かしてくれた。それはまるで近所のお姉さんが猫の毛を梳かすかのような優しい仕草であった。

 だがそれで事が済む筈はなかった。何せ「母上」を失神させてしまったのである。出仕している「父上」へ北の方から使いが発ったという話をききょうが私に告げたのはそれから一刻ほど経ってからだった。「父上」は宮中での議が終わり次第、なるべく早く戻るとの事で、「父上」からの言伝をききょうは私の眼をしっかりと見据えながら告げたのだった。

「殿はおひぃさまにおひとりで殿の間で待つように申し付けられました。わたくしはご一緒するわけにはまいりませぬ。けして殿を怒らせてはなりませぬよ」

 そう何度も注意をするとききょうは「父上」の間に私を連れて行った。

「こちらでお待ちくださいませ」

そう言われて入った部屋は広く薄暗く、微かに埃っぽい匂いがした。あちらこちらに書物が積んであり、壁には古めかしい曼荼羅まんだらが掛かっている。奥の仏像が冷ややかな視線で私を見詰めて来た。夏だと言うのに空気は妙にひんやりとしていて、私は小さく身震いをした。

 しばらく待っていたのだけれど「父上」が戻ってくる気配はなかった。私は立ち上がると「父上」の文箱ふばこの上に積み重ねてあった綴を手に取った。仕事の書類らしい。だがめくっても捲っても漢字ばっかりでさっぱり意味が分からない。溜息をつきながら最後の紙を捲った時、私はそこに書かれている墨痕鮮やかな文字に引きこまれる様に見入ったのだった。

庚子文月、天慶三年

 それはこの時代に関する初めてのヒントだった。天慶というのは年号に違いない。でも西暦だといったい何年頃なのだろう。明治以前の年号に関する私の記憶はずいぶんとあやふやだった。

 天慶。どこかで聞いた事があるのだけど・・・そう思いながら紙を最初から見直してみる。四・五枚捲ったところで私の眼は良く知っている人物の名を捕えた。

 平将門。

 そうよ、天慶の乱・・・平将門の謀反だ。平安時代の半ば地方の豪族たちが中央に反旗を翻し始めた時代。そうだったんだ・・・一人で頷いた時背後で人の気配がした。

 振り向くと「父上」が立ったまま私を見詰めていた。綴を元に戻す事も出来ずそのまま膝をつき頭を下げた。

「構わぬ」

 落ち着いた声に頭を上げると「父上」は微笑みを浮かべゆっくりと近づいて来て私が読んでいた綴を手に取ると目を通した。

「まさかど、の」

その名を「父上」が口にするとなんだか出来の悪い甥っ子のことを話すように聞こえた。

「新帝などと名乗らねば、しようもあったのだが・・・気持ちの良い男であったがな」

「まさかどを・・・父上は平将門とお会いになったことがございますの?」

「うむ、一のお方つまりそなたのおじい様の使いで常陸の国に参った時にの。まつりごとの機微には疎い男であったが戦上手での、なかなか人望もあった。だからこそ国司こくし受領ずりょうどもに疎まれたのであろうが」

「将門の首は空を飛んだと聞いております。恐ろしい事」

そう言うと、「父上」は私の顔をまじまじと見た。

「そのような噂も聞いておるのか。しかしさよう事がある筈がなかろう。東の市に晒さした首はまさかどを崇拝する者たちに盗まれたのじゃ。それがいつしか空を飛んで坂東へ帰ったという話になってしまってな」

なんだ、そうだったの?怒りに満ちた将門の首が自分の体を探して空を飛んでいくなんて、ちょっと想像力をかきたてられるのに。

「そなた、やはりそなた、真名を読む事が出来るのだな」

はっとして、私は思わず目を逸らした。「父上」はじっと私を見詰めていたが、それ以上その事に触れることなく

「ずいぶん礼を失した事を母上に申したそうだな」

「申し訳ございません」

私は素直に謝った。

「母上の縁者たちはお前にけつねがついておるのではないかと申しておる」

私は頭を垂れた。憑いているのは確かだ。でもそれは「けつね」ではなくて私なんだけど・・・。

「以前けつね憑きを見た事があるが、あれは錯乱じゃ。見るに堪えぬ。だがそなたの言う事には一通り筋がある。けつねが憑いておるとは思えぬ」

「はい、ありがとうございます」

「だがの」

 と「父上」は続けた。

 「皆はそう思っておらぬ、ただのけつねではなく唐渡の白狐じゃ、尾裂おささのけつねではないかとますます事が大袈裟になる。何より母上がけつねが憑いているなら早く落とさねばなりませぬ、それがそなたの為じゃと強く申しての。承知せざるを得なかった。分かってくれるの」

これ以上「父上」を困らせたくなかったので「はい」と頷いた私を見詰めている眼差しは娘を不憫ふびんに思っている父親の優しげな眼だった。


しかし・・・。情に流されて「けつね」落としを受け入れたのは大失敗だった。

 邸に呼ばれたのは薄汚れた白鬚を伸ばした顔色が悪い癖に妙に目がぎらついた老人だった。左手には黒水晶の飾りを持ち右手で杖を突いて現れた老人は霊験あらたかな祈祷師と言うよりインチキ霊媒師にしかみえない。「よりまし」というけつねを落とすのに使う子供は普通ならこちらで選ぶはずなのに、どうしても先方で選んだ者を使いたいと言う事でございます、とききょうは不安そうに言っていた。「よりまし」にしては年が行き過ぎているとも言っていたが、一緒にやって来たのは確かに怪しげな雰囲気の少年・・・というよりチンピラの目付きをした小太りの若者だった。悪い憑き物を良く取りますと言っているらしいが、洗ってない台所のスポンジみたいに落とした筈の憑き物たちが全部取りついたままなんじゃないかしら。

 私は単を二枚重ねただけの心許ない姿だった。けつね落としの装束はそれが普通だと言われたのだけど・・・。

 私を取り巻くようにして座った「父上」と「母上」、太夫の君やききょうが見守る前で祈祷が始まった。

 最初の内は何ということもなかった。男の唱える祈祷は眠気を覚える程単調で声を上げたり下げたり、突然ヒヨーッというような高い声を出したりする。あんまり馬鹿馬鹿しいので思わずくすりと笑ってしまったその瞬間、祈祷師は私をはったと見詰め

「正体を現しおったな、けつねめ、どこからやってきたのじゃ」

と怒鳴りつけるなりぬさを私に振り立てた。慌てて笑いを消したけど、私の手を取っている「よりまし」が太い中指を私の指の間押し込んできて無理な方向に逸らした。

「いたい、いたい」

思わず私は叫んだ。

「けつねが痛がっておりますぞ」

祈祷師は得意げに周りを見回すと声を励ました。いや、痛いのはあんたの連れて来たこのバカガキのせいだって。そのバカガキの左手が私の胸を触って来る。睨みつけるとバカガキはにやりと笑い開きかけている単の間から私の胸元を覗き込もうとした。

 「やめてよ」

 小さく叫んだのに構わず今度は空いている方の手が裾から腿のあたりを探ってきた。これじゃあ公開の痴漢、いや強姦だ。性犯罪だ。ジェンダー平等に絶対反する行為だっ。痴漢に遭った時は・・・。

 バカガキの手を逆さにつかみ肘を決めると男は驚いたような顔で私を見た。構わず体重を移動しながら投げを放つ。

「ぎゃっ」

「よりまし」はもんどりうって床の上を滑り、「うわっ」と叫んで横に飛びのいた祈祷師をかすめ柱にしたたかに頭を打ちつけた。祈祷師の頭に被っていた灰色の烏帽子えぼしがころげおち、禿げた頭頂が露わになっている。地元の道場で受けた痴漢対策の講習がこんなところで役に立つなんて・・・。

 と、得意げにあたりを見回した私だったが一瞬響どよめいた皆は、しんと静まって私をぽかんと見上げているだけだった。まるでプロレスで絶対負けるはずのプロレスラーがチャンピオンにフォール勝ちした瞬間をあっけにとられて見ているような表情。

 祈祷師は慌てて「よりまし」の所に駆け寄っていった。「よりまし」は頭を抱えて呻っている。生きているらしいと見て取ると祈祷師は私を指さしながら震える声で、

「この娘御には大変に強い霊が付いておりますぞ。唐渡りの九尾の狐、いや、それ以上かもしれぬ」

と言いだした。

「何よ、あんたの連れて来たそのド変態がスケベな事をしようとするからよ。超むかつく。ふざけないで」

どなりつけた私に祈祷師は目をぱちくりさせると指を力無げに落として、膝をついた。

「おお、けつねの言葉でございます。何を言っておるのか・・・」

いけない。ド変態とか、超むかつくって、禁止用語じゃない。

思わず口を押えた私を見ながら祈祷師は

「かように強きけつねは私ではとても落とせませぬ。ご勘弁を」

髻に烏帽子を戻し、うんうん唸っている「よりまし」を抱きかかえるようにして逃げ帰って行った。皆があっけに取られて男たちを見送る中「父上」だけが瞳の奥に複雑な笑みを湛えながら私を見ていた。「母上」はまた失神してしまったのか瞼を閉じて浅い息をしていた。

「いかがいたしましょう、との」

ぐったりとしている「母上」を介抱しながら太夫の君が低い声で「父上」に尋ねた。

「よう、面倒を見てたもれ。女のことは分からぬでな」

そう言って出て行く「父上」の後姿を呆れたような面持ちで眺めた太夫の君は

「皆、助けておくれ。北のお方さまがたいへんです。ここは妖気が漂っておる。すぐに外へ」

助けを呼び寄せると私の方を振り向きもせずに出て行った。

「おひぃさま」

残ったのは私とききょうの二人きりだった。ききょうは泣きそうな顔をしている。

「まことにおひぃ様はけつねに憑かれたのでございますか?あのような恐ろしいわざをお使いになるとは・・・」

後の言葉が続かないききょうに向かって

「まさか。けつねなど憑くはずがありませんよ。あの者は私の体に触って来たのです。ですからとっちめてやっただけ」

「でもあのような・・・男の方をあのように投げるような事、おひぃさまは決してなさらなかったですし、そもそもどのようにしてあのような業を・・・」

うーん、それをあなたが納得のいくように説明するのは難しい。

「いつの世にもああいういやらしい男はいるのよ。私たち女も立ち向かわなきゃ」

答えになっていない事を呟いて

「よいしょ」

 と言って立ち上がろうとした私をききょうは押しとどめると、怖い顔でぷるぷると首を振って私を睨んだ。唐渡りの、九尾の白けつねでも怯えそうな怖い眼だった。


あっという間に噂が邸中に広まってしまったのは言うまでもないだろう。

「御姫様が虫を集めているのは食らうために違いない。けつねというものは虫を食らうそうだ」

などという噂を流しているのは太夫の君たちに違いない。ききょうの話では「母上」に

「いっそ、里にお戻りになってはいかがでしょう。北の方さまにけつねの祟りがあってはお里の大殿さま、大北の方さまに申し訳が立ちませぬ」

そうそそのかしているらしい。「母上」は「よりまし」を柔術で放り投げた私を目の当たりにして本当に私にけつねが憑いたと信じてしまったものの、その事が里に知られてしまうのを悩んでいるみたいだ。

だが私がけつねに全く縁がないかというとそうでもなかったのだ。この騒動の裏にいた「あいつ」は狐から生まれたという話があるのだから。そしてその「あいつ」に目を付けたのは・・・なんと「父上」だった。

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