第7話 空音の記 3 941年 盛夏


 どうやら私の名は「たちばなあきらけこ」で、世間では「たちばなのおひぃさま」とか、「にじょうのひめぎみ」と呼ばれているらしい。

 そう教えてくれたききょうは同時に厳しい顔で「あきらけこ」という実名を人に明かしてはなりませぬと釘を刺した。人に知られては困る名前なら意味がないじゃないのと言うと、ききょうは一瞬困ったような顔になったが、

「名を知られると呪いを掛けられてしまうかもしれませぬ」

と真面目な顔で答えた。この時代もプライバシーの保護があるらしい。それにしても呪いって・・・マジですか?

 でもききょうは

「名はいみなとも申して、忌むものでおじゃります。つまりは避けるということでおじゃりますよ」

 と更に生真面目きまじめな顔で諭してくれた。「おじゃる」んじゃしょうがないわね、と私は内心溜息をついた。どうも「おじゃる」っていうのは強制的な響きを持っている。

 「父上」は「しょうよんみのうえ」で「むつのあぜち」という役職についているけっこう偉い人らしい。「母上」は「ふじわら」の家の産まれでおじいさまは位を極めた「さきのおおきのおとど」なのだそうだ。

 私はそうやって少しずつ私自身のプロフィールとこの時代の言い回しを覚えていった。さすがに英語よりも早く慣れていく。

 問題は手習いと和歌。手習いと言うのは習字だ。お手本を書き写していくのだけど我ながらひどい。「あきらけこさま」の体はどういうわけか「筆遣い」は覚えていてくれなかったみたいだった。ききょうが横で

「以前はたいへんお上手であらせられた」

と残念そうに呟くのでますます緊張しちゃう。お手本というのがまた、みみずののたくったような字がつらなっているものなので、どこで字と字が分かれているのかさえ見当がつかない。

「これなんて書いてあるの?」

 私が問うたびにききょうは表情を曇らせた。「おひぃさま」は下手になったばかりでなくまともに字を読む事さえできなくなった、のだと心配しているのだろう。

「ありあけの つれなくみえし わかれより」

あ、それなら知っている。

「あかつきばかり うきものはなし」

私が一緒に口遊くちずさむと、ききょうは驚いたように私を見詰め、

「さようでございますよ」

と嬉しそうに手を叩いた。

「百人一首よね?」

「は?ひゃくにんいっしゅ、でおじゃりますか?」

せっかく明るくなったききょうの顔がまた曇る。百人一首ってこの時代(といってもどの時代なのか正確には分かっていないんだけど)にはまだないんだっけか?

「これは古今集こきんしゅうの御歌でございますよ」

ききょうによると古今集なんかを暗記していずれ自分で和歌を詠めるようにならないといけないらしいけど、それまでには何とか元の世界に戻らねばと真剣に思った。だって百人一首の歌でさえうろ覚えなのにききょうによれば、

「古今集には千百十一の御歌がございます」

 ということだ。ゾロ目ね、と思ったが、多分ゾロ目なんて御姫様に相応しくない単語に違いないから私は黙って頷いた。百人一首の十倍・・・。とても無理だ。

「そうやって歌を覚え、殿方から頂戴する御歌に詠んで返すのがおなごのたしなみと申すものでおじゃります」

簡単そうにききょうは言うけど、そんなんだったら学校のテストの方がよほどましだ、と私は項垂うなだれた。LINEなら速攻、返事をお返ししますが。とはいっても男の子からLINEが来たことはまだない。残念ながら。

 それにしても・・・ここへきてから半月以上が過ぎた。せっかく勇気を出して喋ってみたものの元の世界へ戻る何の手がかりもまだ得られていない。

 唯一思いついたのはもう一度木から落ちてみる事だけど、どう考えても可能性は低いし失敗したら目も当てられない。だいたいTシャツにジーンズならともかくこのかさばる着物を着たまま木になんか登れっこない。


そんな生活を送っていた或る日の事だった。見事な藤の咲いている庭を眺めている私の姿は他人が見れば、姫様が花を愛でている風雅な景色に見えたかもしれない。でも、実はこれからどうしようと当てもない考えに私はふけっていただけだった。その時目をふと遣った藤棚の向こう側にある木陰の奥で何かが動くのが見えた。

 ちらりと見遣ると真っ黒に日焼けした痩せこけた子供が大きな瞳を瞬かせてしきりにこっちを覗いていた。つんつるてんの着物から細い足がにょっきりと伸びている。

 それにしても迷い犬が入りこんで来たり鳥が飛び込んで来たりすると何のお告げかと邸中が大騒ぎになるのに浮浪者のように邸のうちをうろつく子供は放っておくと言うのはどうしたわけなのだろう。腹を空かした犬が庭先をうろつくより他所の子供が入って来る方が余程問題だと思うけど。

その子はどうやら私の様子をうかがっているようだった。悪戯いたずらを仕掛けようとしているに違いない。いつの時代でもこの歳の男の子たちは女の子が悲鳴を上げるのが三度の飯より楽しいらしい・・・あ、ここは昼飯抜きだから二度か。

 素知らぬふりを続けていると、案の定その子は藤棚の陰を伝って少しずつ私の方ににじり寄って来た。そして十分に近づいたと思ったのか、手にした物を私の顔めがけて

 「えいっ」

 と叫んで放って来た。こっちがとっくの昔に気付いているよ、と心の中で舌を出し袖でさっと避けると袿に乾いた音を立て何かが床に落ちた。見ると黒い虫が四・五匹、体をくねらせて身に起きたわが身に降りかかった理不尽な悲劇を嘆いている。ますます私は鼻の先で笑ってしまった。

 「こんなん、私が怖がるわけないでしょう」

 そう思いながら私は足許でうごめいている虫をもう一度よく見た。

 うん?どこかでこれと同じ物を見た事がある。これを見たのは・・・もしかして。

 躍り上がりそうになるのを堪えて観察すると確かにギフチョウの四齢幼虫だ。慌てて入れ物を探す。櫛をしまっておく御匣みくしげがあったので、取り敢えず手習い用の紙で虫たちをすくうとていねいに仕舞いこんだ。

虫を投げつけた男の子はそんな私の行動を当てが外れたかのように呆然と見ていた。

「ほら、おいで。かくなわをあげるから」

脇に置いてあったかくなわの残りを指して手招きすると一瞬逃げかけた男の子は、私の摘まんでいるかくなわに魅せられたように目を輝かせて近づいてきた。それでも餌を目の前にした野良猫のようにいざとなったら逃げられる距離をちゃっかりと残している。つくづく汚いなりの上にちんまりとした小さな鼻からは洟を垂らしている。差し出した手は汚れて爪の間が真っ黒だ。

「汚い手ねぇ、池の水で洗ってらっしゃい」

この手で食べ物を触らせるのはちょっと・・・とかくなわをひっこめると男の子は傷ついたような眼をして

「なんだ、くれんのか。しわいの」

叫ぶなり私の着物に手を擦りつけ駆け出した男の子の走っていく先には同じような年頃の子供たちが手を振って手招いている。

「ちょっと待った!」

いつもの大人しい「橘の御姫様」だと思って舐めていたのだろう、後ろを振り向いてアッカンベーをしようとした男の子の眼に映ったのは大声を上げ裾をからげて迫って来る私の姿だった。腰砕けになって座り込んだ男の子の首をむんずと捕まえると私はその手にかくなわを押し付けた。

「くれてやるわよ。それよりどこにいたの、あの虫たち」

ぽかんとした表情をしていた男の子の眼は次第におののきの色に染まっていった。必死に指を指して

「あっち」

と言いながら何とかのがれようとするけどいかんせん男の子の癖に力が弱い。きっとろくなものを食べていないんだろう。男の子の視線の先にいた子供たちが

「御馬草取り飼え眉刀自女まゆとじめ、眉刀自女、眉刀自女」

はやし立てるのを

「うるさいっ」

一喝すると、子供たちはわっと叫んで雲の子を散らすように逃げていく。自分が仲間に見棄てられたのを目の当たりにして男の子はがっくりとあごを落とした。

「よし、さっきの虫を見つけた所へ私を連れて行くのよ」

逃げ出さないように右手で男の子の首根っこを抑え左手で裾をからげたまま、私は男の子の案内する方へと歩いて行った。

「ここらへん・・・です」

藤棚の奥にある築山つきやまのあたりを見回すと芋の葉っぱに似た形の植物がそこここに生えている。

「きやぁ、カンアオイじゃない。昔はこんなところにも生えていたんだ」

男の子ははしゃいでいる私の事を奇妙なものを見るような眼で眺めそれから手にしているかくなわに気付くと急いで頬張り出した。

ギフチョウの幼虫はまだ何頭か残っていた。彼らの邪魔にならぬように葉を数枚摘む。

「あなたの名はなんていうの?」

尋ねるとかくなわを食べ終わった男の子は油じみた指を惜しそうに眺めながら

「藤太」

とぼそりと答えた。その両肩を掴むと藤太は驚いたように体を仰け反らせた。その眼をじっと見詰め、私はゆっくりと命令した。

「藤太。良くお聞きなさい。他にも虫を見つけてきてほしいの。珍しいのを見つけてきたら、またかくなわを上げますからね」

目をぷいと逸らした藤太だったが、かくなわの魅力に抗しきれなかったらしい。暫くすると私を見上げ

「お姫さん、昔とは様変わりじゃ。前は虫を投げつければぴぃぴぃと泣いておったのに、どうなったんじゃ」

「あら、前もそんな事をしてたのね。今度からは許しませんからね。虫が可哀想じゃない」

叱りつけると、藤太はおびえたように視線を落とした。

 私が来た世界では絶滅していたり、あるいは絶滅しかかっている虫たちがここではまだ元気に飛び回っているのかもしれない。暗くなるばかりだった私の気持ちに光が差しこんだような気がした。

藤太を解放してから、さっき隠しておいた幼虫たちに摘んだばかりのカンアオイの葉を与え、少し考えてからききょうを呼んだ。

「この位の大きさの木箱と薄い布を十ほど欲しいの。あとひもをね」

両手で箱の大きさを示すと

「何に使うのでございますか」

ききょうは細い眼をして私に尋ねた。

「いいもの。すぐにお願いね」

質問には答えたくない。だって、虫を飼うなんて答えたらきっと止めようとするに違いないんだもの。子供の頃の母と同じ眼をしていたききょうは暫く黙っていたが諦めたように答えた。

「では爺に作らせましょう。布は虫の垂衣ひたたれで宜しいでしょうか」

「虫の垂衣?」

「からむしの織物でございますよ。今持ってまいりましょう」

桔梗はそう言うと白っぽい布を持ってきて私に手渡した。肌触りはさらさらとしていて薄く向こうが透けて見える。

「これでいい。名前も気に入ったわ。ねえ、ききょう」

「なんでございましょう、おひぃさま」

「この世も捨てたものじゃないわね」

「はぁ?」

訝しげに目を瞬いたききょうに右目でウィンクをするとききょうはぽっと顔を赤らめて怒ったような声で

「なんでございます。はしたのうございますよ」

と言ってそそくさと逃げるように去って行ったのだった。


あいにく翌日は雨だった。庭を眺めながら待っていたけど、いくら待っても藤太は現れなかった。簀子すのこの上には仕上がった虫籠が十並んでいてその一つには厚めに敷き詰めた藁の上にギフチョウの幼虫が入居している。最初戸惑っていたた虫たちも今は落ち着いて元気にカンアオイの葉を食べている。その様子を眺めているうちにあっという間に一日が過ぎて行った。萎れた草と糞を庭に捨て、ききょうにカンアオイを摘んで来るように頼むと、ききょうは躊躇いがちに

「何に使うのでございましょうか」

とまた尋ねてきた。

「とっても大切な事よ。取って来てくれないなら私が行くわ」

そう脅すとききょうはしぶしぶ女童を呼んで葉を摘ませてきたのだった。雨に濡れた葉にはカンアオイでないものも混じっていて、選り分け丁寧に拭いて少し乾かすとききょうがいなくなった隙に虫箱に入れる。

「なかなかの食欲ね」

ギフチョウは蛹になってから一冬を過ごすので羽化は次の春まで待たねばならないが、他にも珍しい虫を見つけられるかもしれない。心は浮きたった。

翌日は快晴だった。庭を見渡せる簀子で待っていると御昼前頃に藤太が三人の男の子を引き連れてやってきた。一昨日藤太と一緒にいたのと同じ子たちだ。たぶん藤太から誘われてやって来たのだろう。手数が多いのは望むところ。ききょうにかくなわを四つ用意する様に頼むとききょうは男の子たちを怪しむように眺めてから私を振り向いた。

「いったい、何をなさるお積りですか」

「この子たちと遊ぶのよ」

私は微笑んで見せる。

「でも、おひぃさま。もうそんなお年でもございませぬ。手習いをなさいませぬと」

ぶつぶつ文句を言っているききょうを明日からはちゃんとするから、となだめすかすと男の子たちには

「虫を取る時は草ごともって来てね」

と命じる。うん、と八つの眼が頷いた。藤太は体を洗ったのか妙に小ざっぱりとしていて着ている物も一昨日よりはだいぶましだ。

男の子たちは庭に散り次から次へと毛虫を私の許へと持ってきた。珍しくない幼虫はそのまま元の草木に戻らせたが、半刻もすると十個の平安風虫籠は全て埋まった。オオウラギンヒョウモンの幼虫がスミレの茎についているのを見た時はちょっと感動した。

「もう、いいわ」

ききょうがかくなわを入れて持ってきた綺麗な破子は男の子たちの乱暴な手でたちまちぼろぼろになってしまった。

「ああ、うめぇ」

一番背の高い男の子が一番大きなかくなわを食べながら満足げな声を上げた。どうやらこの集団のボスらしい

「あなたの名はなんていうの?」

「おらか?おらは犬丸じゃ。これが藤太、それに権佐ごんざ太郎丸たろまる

呼ばれた子たちが次々に頭を下げてから恥ずかしそうに眼を見交わしている。

「じゃあ、みんな今日はもう終わりにするけれど、珍しい虫を見つけたらいつでも持ってきてね」

「分かった。その代り、ちゃんとこれを食わせてくれよ」

指で摘むほどにしか残っていないかくなわの最後の一欠片を大きく開けた口に放り込むと指を舐めまわしてから犬丸がにっと笑い、他の三人も白い歯を見せて頷いた。

子供たちが去っていくのを見届けたききょうが近づいて来て、

「何をなさっていたのですか」

と私に尋ねた。

「虫を集めさせていたのよ」

一通り虫籠も埋まったし、どうせ隠し通す事なんかできないから私は素直に白状した。

「むし、でございますか?」

「そう、見てみる?」

尋ねるとききょうは激しく首を振った。長い髪が弧を描いてふんわりと宙を舞う。

「結構でございます。それよりもさような事、他の方々に気取られてはなりませぬよ、籠もどこかへお隠し下さいませ」

「だめよ。ちゃんとお日様や空気がないところじゃなきゃ」

言い争っていると突然ききょうが声を潜めた。振り向いてみると滅多にこちらにはやって来ない太夫の君という女房が几帳の向こうからこちらを覗いていた。

「だいぶにお騒がしいことですね」

平板な口調で言うと私たちをじろりと見た。この太夫の君は女房の中でも随分と威張っている。「母上」に付いて邸にやって来て、「母上」の実家をバックに一大勢力を築いているのだ。末っ子の「母上」は実家のおじい様に可愛がられ荘、つまり土地をずいぶんと残して貰ったらしい。その管理を任されているのが太夫の君なのだ。兵衛ひょうえ小大輔こたいふという二人の女房と共にこの家に引き移って来て、もとからいる女房や家人に煙たがられている。みんな年は三十を少し超えたくらいのリアルお局様たちだ。

「おや、まあ珍しい箱だこと」

太夫の君は簀子に並んでる虫籠を見るとするすると前に進んでその一つを手に取った。

「あ、それは」

慌てて止めに入ったききょうを無視して太夫の君は籠の中を覗き込んだ。

「何が入っているのでしょう。おや草ね」

そう言いつつ箱を左右に揺らしながら中を熱心に覗き込んでいた太夫の君は、突然動きを止めると座ったまま一寸ほど飛び上がった。一寸と言うのは三センチくらい。お局様に秘められたエネルギーはオオスカシバの幼虫くらい凄い。

「かわむしっ、きゃー」

あ、この時代でもやっぱり悲鳴はきゃーなのね。太夫の君は腰が抜けたらしく床に落ちた箱を指さしながら

「かわむしが、かわむしが」

と息絶え絶えに叫んでいた。

 慌ててやってきたのは彼女の忠実な部下たちだった。よせばいいのに兵衛が一つの箱を持ち上げて中を覗きこんだがあいにくその箱に入っていたのは小指の太さほどある成熟したヤママユガの幼虫だった。無言で眼を見開いた兵衛の手から箱がこぼれ落ちた。縛ってあった布が解け薄黄色の幼虫がコナラの葉っぱに掴まったまま飛び出してきて、手荒い扱いに腹を立てたのか毛を逆立て立て兵衛を威嚇している。他の女房達や家人たちが騒ぎを聞きつけぞろぞろと集まって来る中「父上」の物とすぐ分かる高い足音が近づいてきた。

 あちゃあ・・・。仕方なくヤママユガの幼虫を摘みあげて元の通り箱の中に戻すのを、皆、あってはならないものを見るような眼つきで眺めていた。

「何の騒ぎじゃ」

響き渡った一声でざわめきが一挙に静まり返った。

「おひぃさまが、かわむしを」

小大輔が虫籠を指して声を振り絞った。

「む?」

「父上」は虫籠を一つ取り上げると中を覗きこむと怪訝な顔で

「ふむ、確かにかわむしじゃ。姫、これはどうしたのじゃ」

と言うと私に向き直った。

「子供たちに集めさせたのでございます」

仕方なしに私は答えた。

「なぜじゃ」

「このような物を着ていたら、自分では虫が集められないから」

着物を指した私に「父上」は眉を顰めると

「そうではない。どういうわけで虫など集めたのかを聞いておる」

と言った。あ、そりゃあそうね・・・。

「蝶や蛾になるのを見たいのでございます」

「ふうむ」

「父上」は困惑したような声を出した。

「蝶そのものを愛でるならわかるが・・・なぜまたかわむしから育てねばならぬ?さような話は聞いた事がないぞ」

「ですが、父上。蝶もかわむしも同じもの。かわむしが蝶になるものでございます。どのような草を食べ、どのように大きくなっていくのかを知るにはかわむしから見るしかないのでございます」

「父上」は目を眇めながらかわむしが箱の中で蠢いているのを覗いていたが、やがて、呆れたような口調で

「かようなものを見て面白いか」

 と尋ねてきた。

「面白うございますよ。例えば、これなんか」

私はさっき兵部が落としたヤママユガの幼虫が入っている虫籠を指さすと、

まゆを作るのです。たくさん集めれば絹も作れるのでございますよ。でも大きくなって蛾になってしまえば、繭は使い物になりませぬ。これなんかはかわむしや繭の方が価値があるのでございます」

ききょうは私と「父上」とを青白い顔でかわりばんこに眺めていた。「姫」にこんな事をさせておるのか、と叱られると思っているに違いない。だが、「父上」は、ふぅむ。なるほどのう、と唸り声を上げただけだった。そんな「父上」を恨めし気に見ていた太夫の君は

「ともかくも、このような物のある所では私どもはお世話致しかねます」

と金切り声を上げると目を虚ろに彷徨わせたまま座り込んでいた兵衛を小太輔に助け起こさせ、さっさと出て行ってしまった。

「弱ったものじゃのう」

太夫の君たちの後姿を眺めつつ、「父上」は小声で呟くと、私を振り向いた。

「お前にも困ったものだ。他の姫のように手習いやら歌などをしておれば良いものを」

ため息交じりに小言を言う。

「それは後できちんとやりますゆえ、お許しくださいませ」

「しかし、このような事をしておったら、嫁ぐこともなるまい。母上を嘆かせる積りか」

え?嫁ぐ?この歳でもうそんな事を考えなければいけないの?

「お前の年ともなればもはやおおかたの姫はもぎを済ませておるのじゃ。お前もそろそろ用意せねばならぬ。母上も里の家にも相談しておると言っておるぞ」

もぎ?私の頭には「模擬」という漢字しか浮かばなかった。模擬試験?んなわけはない。じゃあ模擬結婚?まさか・・・ねぇ。


「もぎって何の事?」

「父上」が嘆息をつきながら出ていった後、私はききょうに尋ねた。

「裳着でございますか?女の方が一人前になるための儀でございますよ」

ききょうが疲れたような目を向け低い声で私に答えた。成人式のようなものなのだろうか?私の顔に疑問符が浮かんだままなのを見てききょうが仕方ない、といった口調で補足してくれる。

「裳をおつけになり眉をお剃りになって、髪上げをして、かねをつけるのでございます」

「かね?」

今度は「金」という文字しか浮かんでこない。私の頭の中にあるのはかなり貧弱な古語辞典らしい。

「鉄漿でございますよ」

そう言うとちらりと口元を開け、黒く塗った歯を見せた。

 う、これだけは例えききょうでも不気味・・・。

もういいから、と手で伝え心の中で私はきっぱりと決めた。この体に私が宿っている限り裳着はなし。成人式も中止っ。祝辞の最中に壇上で卵を投げつけられた市長の様に私は心に固く誓った。

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