第5話 空音の記 2 941年 初夏

 咄嗟とっさに口の利けない振りをしてはみたものの、十日ほど経つと私は考えを変えざるを得ないという結論に至った。

 確かにホームシックっぽい感情が心に満ちた事はある。でも、それよりもこの事態をどうにか解決しなければならない、という方向に私は考えを向けた。泣いて済むなら、泣けばいい。でも問題は解決しない。私が考えていたのはただ一つ。行くことができたなら帰ることもできるはず。

 物事は単純に考えなければいけない。そして信じなければならない。

 話しさえしなければ迂闊うかつなことを口走って馬脚ばきゃくを現さずには済むが、このままでは元の世界に戻る手がかりを得る事もできないに違いない。どこかにヒントがある筈だ。コミュニケーションを取らなければ、そのヒントを見逃してしまうかもしれない。それにききょうが私を気遣って絶えず話しかけてくれていたおかげで少しずつ言葉が聞き取れるようになっていた。片言かたことならば何とか会話が成り立つかも知れない。


 それともう一つ考えたことがある。私が乗り移ったこの体の持ち主はいったいどんな人なんだろう。

 庭の池に顔を映してみる。さざ波に揺れる池の表に映った顔は長い髪の毛を別にすると驚くほど本当の私に似ている。にっと唇の端を上げて笑ってみると池の中の私も笑い返してきた。それにしても・・・この体の本来の持ち主の「橘の御姫様」の意識は今どこにあるのだろう。この体のどこかで眠っているのだろうか。それとも入れ替わりに元の私の体に宿っているのだろうか?もし彼女の意識が私の時代へワープしていたならその驚きは私どころではないだろう。。

もしそれは事実だとしたら?そんな娘を見て母はどうするだろう。ただでさえ変わり者と思っていた娘が今度は平安時代のお姫様だと言いだすのだ。そう考えただけで頭が痛くなった。母は半狂乱になっているかもしれない。父は・・・?

「平安時代に産まれたと言い張るからって、犯罪者という訳でもないだろう」

なんて、しれっと言っている図が脳裏に浮かんで思わず私は苦笑した。それはそれでどうかとは思うけど。

 いずれにしろ彼女も困っている筈だ。彼女のためにも私は元通りにならなければならない。そして・・・そのためには私の方が頑張らなければならない。なぜなら、時代が後の方に産まれた私の方が問題解決に絶対有利なんだから。そう強く思った。


日がなそんな事を考えていたおかげでなかなか寝付けず、その次の朝もききょうに起こされるまで私はぐっすりと寝ていた。体を揺すられ目を覚ますといつものようにききょうが私を覗きこんでいた。

「ききょう・・・さん」

最後の方は尻切れトンボになったが、思い切ってその名前を呼ぶと、ききょうの顔がパッと輝いた。

「おひぃさま、お口を利くことができるようになったのでおじゃりますね。ようおじゃりました」

嬉しそうに温かな手で私の頬を撫でてくれたが、急ぐでもなく、いつもと同じように

「ぶきょくせい、ぶきょくせい・・・」

五遍ごへん唱えさせられる行事でその朝も始まった。私が声を出して唱えるのをききょうは嬉しそうに見ていた。声に出すとなんだか本当に功徳くどくがありそうな気になる。

朝御飯を前に私は一人で箸の先で摘んだ御浸しを見つめながら考えていた。病気は治ったが、過去の事は何も覚えていないし、言葉もよく喋れない、そんな記憶喪失を果たして私はうまく演じきれるだろうかと考えると、ちょっと心細くなった。

 しばらくすると「両親」に報告に行ったききょうが明るい表情で戻ってきた。

「殿も北の方も大層お喜びでございます。さっそくおでましになられるようにとの事でおじゃります」

「ききょうさま」

彼女を呼んだ私をききょうは目を丸くして見返した。

「なんと仰せで・・・。ききょうと呼び捨ててくださいませ」

 私は彼女の言葉に従うことにした。なんといっても私は御姫様なのだ。そして、ここは民主主義の世の中じゃないんだ。

「それでは、ききょう。まことの事を申せばわたしは昔の事を何も覚えていないのです。父母の事も、そなたの事も」

「まあ、やはりさようでございますか」

ききょうは眉を曇らせた。

「それにこうして口を利けるようになったと言っても、思うように言葉が出てまいりません」

「おいたわしゅう御座ります」

 ききょうは目に涙を浮かべた。

「父上にも母上にもお目にかかりたいとは思いますが、このような様子を御見せしたら何と思われましょう」

袖に眼を押し当てたけど、もちろん私の方は涙が出ているわけではない。善良なこの女性をだましているような罪悪感に襲われたけど、この際芝居するのも仕方ない、と割り切って空涙そらなみだを拭いた袖を外すと私は精一杯心細そうな目をして彼女を見た。

「御心配召されますな。ききょうがおります。少しずつ思い出されていけば宜しいので御座りますよ」

ききょうは自分自身に言い聞かせるように強く頷くと、

「殿と北の方さまにさように申しあげましょう。それでもあながちに、ということでございますればお許しくださいませ」

 再び去っていくのを見送りながら、いくらなんでもあの立派そうな「父上」が記憶を失くした娘をただちに放り出しはすまいと私は考えていた。あながちに、とは何を意味するんだろう?なんだか不安になったが、ききょうという女性だけは私がお姫様だと思っているうちは私の味方をしてくれそうだ。

 問題は私が実は娘ではないと分かってしまった時に起きるに違いない。だから、萌した心細さをかなぐり捨て、事態が解決する見通しがたつまではなんとしても上手に記憶喪失を演じ続けねばならない、私はそう決意したのだった。

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