第4話 ききょうの回想 天慶3年 文月

 姫様がお熱を出されて床につかれたのは五日前でござりました。その頃、京では疫病はやりやまいが立て続けにござりまして、悲しいことに多くの者たちが命を落としたのです。

 大路を南に羅城門らしょうもん方角かたへ参りますと五条を境に行きたおれたり道端に打ち捨てられたりした者どものむくろが放り出されていて、犬やら烏やらが喰らったりついばんでいる始末。人肉を喰らう事を覚えました犬どもの中には生きている女子供を襲うものもおりまして、まことに物騒でござりました。常陸ひたちの国で、おそれ多くも帝に反旗を翻した「まさかど」と申す者がこの年の如月きさらぎに平らげられたのでござりますが、その頃から新たにはやり始めた病はその「まさかど」とやらのたたりと聞いております。

 姫様が罹ったのもまさにその「まさかど」の祟りのようででござりました。高いお熱にたいそう苦しまれ、四日目には助からぬものと思いきわめたのでござりましたが、二条東洞中納言様のご子息、右馬うまの介様のごえにしでお迎えした陰陽師おんみょうじの方の御祓おはらいしるしがあったのでござりましょう。あんなにこうじた熱が祈祷を受けるとあっという間に引き、ああこれで大丈夫、命は取り留めなさったのだと家の者はみなほっとしたのでござります。

その夜、看病の疲れでついうとうととしておりましたわたくしは、ふと姫様の溜息を聞いたような気がして目を覚ますと紙燭ししょくに火をともし姫様のもとへと参ったのでござります。見るとほの暗い闇の中で御姫様は床から身を起こし、こちらの方をじっと見てござりました。

「おひぃさま、おこたりましたので御座おじゃりますね。よう御座りました」

そう申し上げながら近づいたわたくしを灯り越しに見たおひぃさまは、突如、ましらえ声のような叫びをあげられ、その余りの凄まじさにわたくしは気を失ってしまったのでございます。

正気に戻りました時、わたくしはひさしの隅に横たえられておりました。女房たちを取り締まる太夫の君と仰る方が私が目覚めたのに直ぐ気づかれまして、大丈夫かとお尋ねになりましたので、はい、と頷きましてから恐るおそる

「姫さまは・・・」

尋ねますと太夫の君は

「お休みで御座りますよ。悪い夢でもご覧になったので御座りましょう。一昨日は庚申かのえさる。姫様はお休みしたから三尸さんしの虫が悪戯をしたのかもしれませぬ。明日もいつも通りお仕えなされ」

と仰ってから、少しばかりきつい眼で私をにらむと

「燭の火が落ちてもうすこしで火事になる所でありましたよ。も少し気をやりなされ」

 叱りつけたのでございました。恐縮して、はい、と頷いた私を太夫の君はもう一度睨むとんでおしまいになりました。


 明朝つとめてでございます。

 普段お目覚めになる刻の半刻ほど前から姫様の枕元に侍りますが、白々と夜が明け鳥の声も騒がしい程になられても姫様はいっこうに目をお覚ましになられませぬ。額にそっと触れてみますと熱はすっかり引いております。

 半刻ほどはそのままお待ち申し上げましたが、いつまでたっても目をお覚ましにならないのでそっと肩に手を掛けて揺すってみたのでござります。

 目をお開けになった姫様は、わたくしを見てお顔を強張こわばらされたように見ると直ぐに身を起こしあたりを見まわされました。その只ならぬご様子に、ああ、確かに姫様の身に何か良からぬ事が起きているのだとわたくしは確信したのでござります。

姫様は朝の行事をすっかりお忘れになっておられるようでござりましたが、このような時こそ神仏のご加護かごを欠かすわけには参りませぬ。一通りの行事をきちんと済ますと、お口を開こうとなさいませぬ姫に筆とすずりを用意申し上げました。お書きになられたのは達筆と御評判であった姫様の手と思えぬほどつたない書きざまで、しかも真名まな交じりで「わたしは誰」と書いてござりました。

 こは、なんと。姫様は自分が誰かを覚えておられないようでござります。震える手でその紙を持って下がりますと、そこにおられた太夫の君にかくかくしかじかと相談申し上げたのでござりました。

「どれ、お書きになられたものを見せてみよ」

仰るまま先ほどの紙を渡しますと太夫の君はまじまじとそれを御覧になられました。

「なるほど、これはひどい手だこと」

「殿に申し上げねば」

「先ずは北の方さまにお話しする方が良かろう」

ひそひそと女二人で相談しておりますうちに、私共は思いもよらず殿の御前に呼び出されたのでござりました。

「姫の様子はいかがじゃ」

殿も昨夜の出来事をお耳にされ姫様の身を案じておられたのでござりましょう。かようにおわします、とわたくしが事細かく申し上げます。殿は首をひねられますとわたくしに

 「姫は真名をまねぶような事があったのか」

とお尋ねになられました。

「いえ、わたくしの知る限りでは・・・」

「不思議じゃの。自らの事は覚えておらぬ、だが学んだことのない真名を書くとは」

けつねいたのではございませぬか」

太夫の君が仰いましたが、殿はその言葉にも首を傾げられ

「憑いた先の家で自分は何者かと尋ねる間抜けな狐もおるまい。ともかく後で見舞おう。されどこの事は暫くは固く秘するのじゃ。これからはききょうが一人で世話をせよ」

さよう仰せになられたのでござります。

 今一つ気になりますのは御召かえの時に姫のたもとからまろび出た、見たことのない今様いまよう白銀細工しろがねざいくでござります。一つは龍を、もう一つは虎をかたどってありいずれも大層素晴らしい出来でござりました。もしや物の怪が姫に懸想けそうして忍んで参り、姫に贈ったのではないかという疑いが心に浮かんで参りました。姫様のご様子もそうであれば説明がつく様に思われます。そんな恐ろしい考えを振り払いつつ戻りますと、姫様は御自らの手やら足やら物珍しげに眺めては首を傾げておられました。わたくしに気付くとすぐにおやめになったのですがそのご様子もどこか怪しげでござりました。まるで狐が憑りついた人間の体を確かめているようにも思えたのでござります。どちらにしても恐ろしい事、それでいながら姫様を見捨てるような気持ちには到底なれませぬ。心は惑うばかり。すぐと殿が御渡りになられ、

「いかがじゃ。何かわかったか」

とお尋ねになられました。

「いえ、何も覚えておられぬようで御座ります」

 私がいらえますと

「どこで真名を覚えたか尋ねたか」

「それはおいおい。今はお口も利かれませぬので」

「そうか・・・」

 殿は不思議そうな顔で自分をお見つめになられている姫様をじっとご覧になり

「不思議な事よ。確かに姫の姿をしておるがふとまるで別の者のようにも見える。さて、北の方にはどう申せばよいか」

 そう嘆息たんそくをつかれたのでござりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る