第3話 空音の記 941年 初夏
映画やドラマで不慮の事故に巻き込まれた主人公が、目覚めた時に戸惑ったような表情で「私、死んだのかしら?」って呟く場面を見た事はないだろうか?たいていその人は生きているか幽霊として存在している訳で・・・でないと話はそこでおしまいだものね。
でも、私も目が覚めた時やっぱり「私、死んじゃったんだ」と思った。
目の前に広がっていたのは深い闇だった。最後に記憶に残っている風景は
もし、病院に担ぎ込まれて治療してもらっていたなら機械のデジタル表示がベッドの周りで点滅している筈だし、家に運び込まれたのなら窓際のベッドからは街灯や目覚まし時計の蛍光塗料の文字盤が見えない筈がない。でもそっとあたりを見回しても灯りひとつみえなかった。
つまりここは病院でも家でもない。かといってユキとノンコが私を山の中に置き去りにして帰っちゃう筈がないし・・・。第一、私の寝ている所は地面じゃなかった。私はゆっくりと立ち上がってみた。足元には布の感触がある。でも家のベッドのシーツではなく肌触りがずっとごわごわとしている。
「ここ、どこ?私、どうしたのかしら?」
独り言を呟いた時、微かな風が揺れた髪の隙間から、耳に虫の鳴く声が聞こえて来た。リィーリィーと心細げな音で鳴いている。
「キンヒバリだ」
私は呟いた。春の終わり頃から鳴き始める気の早いコオロギ。死後の世界にキンヒバリがいるなんていう事があるのだろうか。或いは私の墜落に不幸にも巻き込まれた不運なキンヒバリの亡霊なのかしら・・・?
深呼吸をして気を静めてみる。涼しい空気から木の香りが鼻孔いっぱいに広がる。袖がすぅすぅとするので
私は少しごわごわする生地を触った。これが
「はぁ」
思わず盛大に洩らした溜息を聞きつけたように、闇の奥にぼんやりと明りが灯った。
「うわ」
思わず私はのけ
ここは・・・やっぱりこの世じゃない。
いや!
私は
「おひぃさま。・・・・・・・」
という、どこか優しげな響きを籠めた女性の声だった。一瞬ほっとした私は、だが灯りに浮かび上がった見知らぬ白い女の
「きゃーっ」
と思わず大きな叫び声を上げてしまっていた。女は真白と言って差し支えないほどの顔色で、眉がなかった。その上、薄く開いた女の唇から見えた歯は闇を吸い込んだかのように真っ黒だった。絶対に闇の中で見えてはいけないお顔。
私の叫び声に驚いたのかあっ、と言う声と共に女の手から灯りが落ちてけたたましい音が鳴り渡り、落ちた灯りがふっと消えた。一瞬鎮まりかえった闇の中で、すぐにざわざわと別の何かが動き始める音がした。
わらわらと声を上げつつさっきと同じような灯りが二つ三つと揺れながら近づいて来て
亡霊の集団だっ。冷たい汗が背筋を伝い思わず後ずさった時、敷布に足を取られて私は思い切りひっくり返ってしまった。あ、絶体絶命・・・。
私が倒れた音を聞いてますます慌ただしく、怒声と何か椅子を
だが亡霊の集団は私を襲う事はなく、何やら私のそばでがやがやと小声で語り始め、やがてそっと、気遣わし気に私の背中を
私は気付かれないように薄目をそっと開け様子を窺った。ぼんやりと幾つかの灯りが揺れている。その灯りの一つに映っていたのは奇妙な形の小さな帽子を被った男の顔だった。背後には白い着物を着た女たちが驚きと不安がごっちゃになったような顔で私を見つめている。ふと横に目を遣ると最初に私に声を掛けてきた女が気を失って倒れていた。私は
「ひめ、だいじのうござりますか」
そう言って男が私を助け起こそうとしたけれど、私は再び固く目を
とはいえ私を助け起こしたのは妖怪でも死霊でもなく確かに人間・・・温かい体温が伝わってくる。でも、でもでも、ここは私の住んでいた世界ではない。
い・っ・た・い・ど・う・し・た・ん・だ・ろ・う?
私の横で失神していた女は男たちに担ぎ出され、その代りに別の女と男が一人ずつ残り、男は十分おきくらいに弓の弦を指で震わせていた。不思議な音色だった。なんでこんなことをするんだろう?いったいここはどこなんだろう?その音を聞きつつ気を失いそうになりながら私は必死に考えていた。だが考えれば考えるほど、頭は重く、意識は遠のいていった。
目覚めたのは翌日の朝だった。
うん、目を覚ましたっていう事はつまり・・・私はそのまま寝てしまったのだ。
昨晩私の周りに集まってきた人々は私をそのまま寝かしつけておくしかないと考えたらしい。
あの弦の音が子守唄代わりになって、つい、うとうとと・・・というのは言い訳です。本当のところはきっと私は
あ、「いぎたなく」って言っちゃった。そう、あの時代では「いぎたなく」というのは正にその時の私の様子そのもの、だらしなく眠るという事なんだ。そしてあの弦の音色は悪霊を追い払うためのものだった。
それはともかくとして・・・ 優しく揺り起こされて目覚めた時思わず
「お母さん?」
と尋ねた私の眼に映ったのは木の天井板だった。そして
「おひぃさま」
昨日の聞いたのと同じ声だ。見上げるとちょこんと枕元に若い女の子が座っている。おちょぼ口に紅を差し、切れ煮に添った眉、肩から髪を後ろに長く垂らし朝の光に頬の産毛が白く光を纏っている。重たげに垂れた眼は優しげに私を見つめていた。私には見覚えはないが向こうは私を良く知っている、そんな雰囲気だった。
おそるおそる身を起こし引き取られたばかりの子猫のようにあたりを見回した。ここはどこなんだろう?目の前に広がっていたのは高校の教室を二つくらい合わせた程に広い木造の部屋だった。全然知らない場所だった。夢かと思ったのはとんだ勘違い、これが現実なんだ。そう思って私は顔を手の中に埋めた。
打ちひしがれている私の腕を女性が優しく触れた。顔を上げると女性の黒く染めてある歯がちらりと見えた。昨夜、歯がないと思ったのは黒く染めていたせいだったのだ。これって
気が付いてみたらやっぱり悪い夢の中の事でした、というオチ希望だったのに・・・良い夢から醒めた時にはがっかりする。悪い夢から覚めた時はほっとする。でもこんな時は・・・どうすればいいの?だが、ここは多分間違えなく昔の日本なのだ。
木から落ちただけで、時代を超えるなんて聞いた事がない。大工さんや植木屋さんはそんなに危ない仕事なの?猿は木から落ちたら・・・違う時代に来たって事に気が付くのかしら?取りとめのない、かつ、しょうもない考えが
そんな私に女性は静かに語りかけてきた。
?
!
更なる
響きは日本語だった。でも、彼女の口から発せられた言葉は知らない土地の田舎のおばあさんの話す言葉と同じくらい分からなかった。テレビならテロップが出てこないとだめなやつ。同じ時代にいても世代が違うと話がうまく通じない事があるのだから、何百年も時代が離れていたらそれは当たり前なのかもしれない。だがその時の私は完全に混乱した。なんで言葉が分からないんだろう?タイムスリップをした事実でさえ衝撃なのに、その上言葉まで通じないなんて・・・。
瞬きもせずに見つめている私に女の子はゆっくりとお辞儀をすると優雅にぽんぽんと頭の後ろを叩いた。どうやら謝っているらしい。顔を引き
気持ちが通じたのかほっとしたように女の子は微笑んだ。
微笑んだまま女の子は私を見つめている。何かを待っているようだったが暫くすると堪えきれなくなったように私の袖を引くと
「ぶきょくせいと唱えられませ」
と促した。あ、今度はちょっとだけ分かった。何かを唱えればいいんだ。でも「ぶきょくせい」って何?
手本を見せるかのように「ぶきょくせい」と小さな声で唱えつつ拝む女の子に倣って私も静かに手を合わせた。口を開かない私に気付いた女の子はまあ、というように眼を見開いたが、騒ぐこともなく小さく頷くと土器のようなものに入れた水を私に差し出した。
今度はどうすればいいの?
どうも目が覚めると、決まったルーティンのような行事があるらしい。でもそのルーティン、私は知らないんですけど・・・。
そんな私に、彼女は器を唇に当て口を
促されるままに立ちあがると、まずは白い布を肩から外される。どうやら女の子が着替えさせてくれるらしい。本当に御姫様みたい、と思ったその時、とんでもない事に気が付いた。白い布は体を包んでいるだけで、その下はまるっきりのすっぽんぽんなのだ。慌てて胸を右手で押え、左手で大事な所を隠す。すると女の子は何を気にしているのですかとでも言うようにくすくす笑いだした。
早く着せてよ、と手で急かすと女の子は口に手を当てたまま器用に片手で新しい白い着物を着せ始めた。どうやらそれが下着兼寝巻らしい。その時、物干しのような物に掛けた古い方の着物から重たげな音と共に何かが転げ落ちた。女の子は驚いたように眼を見開くと転げ落ちた物を拾い上げ私に差し出した。小さな掌には二つの光る物がちょこんと乗っていた。
龍と虎の銀細工だった。繋いであった鎖はどこかで千切れたのか消えている。どうしてこれだけが私と一緒に?
呆然と掌に乗せられた二つの銀細工を眺めているうちに体が冷えたのだろう、鼻の奥がむずむずとしてくしゃみが出た。
その瞬間、激しい違和感が私を襲った。
女の子は次々に私に着物を着せ始めた。淡い緑、桃の花のような鮮やかなもの。色とりどりの衣装を彼女が私の体に重ねていくのを見ながら私はさっき感じた違和感の意味を理解しようと懸命だった。
くしゃみには人それぞれの個性がある。私の場合は突然顔の真ん中に目や口が集まってくるような感じが襲って来て、くしゃん、と結構勢いの良い音を出す。でもさっきしたくしゃみは咳の近い親戚のようなとても上品なくしゃみだった。大きな疑問符が頭のてっぺんにむくりと現れた。この体は本当に私のものなの?
最後に銀糸と薄い紅の糸で織られた綺麗な綾織を着せられ、女の子が丁寧にお辞儀をすると私の手を取って座らせた。肩にずしんと着物の重みを感じる。その重みは確かに私自身が感じているのだけれど・・・
手をついてお辞儀をすると女の子は私の横に座って
「参りませ」
と言った。その意味が分からず私は彼女を見つめた。たぶん、向こうも思っていたに違いない。
「は?どういう事でございますか?」
とか・・・。
良く分からないまま立ち上がろうとした私を見て彼女は慌てて、
「おひぃさま、xxxx」
xxxxの部分は良く分からなかったけど、彼女の仕草から判断するとどうやら立ちあがってはいけないらしい。仕方なく私が座り直すと、女の子はこうするのですよ、とでもいうように床に手をつき体を前の方にずり動かした。
えっ、なんで?せっかく足があるのに立っちゃいけないの?でも真似をすると体はその動作を覚えているかのようにスムースに前へ進む。私の疑いはますます深まった。
連れて行かれたのは妙な場所だった。建物に継いで外に足して作ったような小ぶりの部屋には四方に仏像が置かれていて木の壁にはたくさんのお札が貼ってある。
その真ん中に座らせられ、私の横に正座した彼女は手を合わせると私を見た。どうやらまたお祈りをしなければならないらしい。
「早くこの悪夢が終わりますように」
祈りは・・・全く通じなかった。祈り終えると女の子はすっと息を吐き、急に不安そうな表情をして私に尋ねた。
「おひぃさま。xxxxx」
「おひぃさま」の後がやっぱり聞き取ない。すると彼女は私の袖を引き、私に向かって自分の口を指しながら左右に首を振った。喋れないの?と聞く仕草はどの時代でも変わらないみたい。ふるふると首を振ると女の子は彼女なりに事態を理解したのか、ここでお待ち下さいと掌を下に向けて伝えると、優雅に首を傾げ静かにその場を後にした。
十分ほどして彼女は綺麗な
「わたしは誰」
と書いた。筆から墨が零れ落ち、紙の面を
女の子は僅かに眉を
今度はだいぶ待たされた。私は待っている間中自分の体を検めてみた。
指の太さや肌の色は良く似てはいる。でも手首の血管の浮き具合とか手の甲にある陰とか微妙な所が記憶と異なっていた。確か、右手の甲には黒子が一つあった筈なんだけど・・・ふと思い出して右の肘の裏を見てみる。小さい時に道で転んだ時にできた傷の痕がある筈。母親が蒼褪めるほどの怪我で救急車に乗ったのは後にも先にもその一回しかない。何枚も重ねた袖を
どうやら魂だけがこの時代にやって来たらしい。体ごと時代を遡るのと魂だけが遡って誰かの体に乗り移ると言うのは意味がまるで違う。これは私が誰かの体を乗っ取ったって事じゃない?突如後ろめたい気分になった私の耳に再び衣擦れの音が聞こえてきた。
戻ってきた彼女は私の前ですっと姿勢を正すと
「たちなばのおひぃさま」
と言って私を真正面から見据えると深々と頭を下げた。そして
「ききょうと申します」
と名乗る。私はできるだけ優雅に見えるように頷いた。
「大殿が参られます」
えっ?心の準備も整わないうちに足早にこちらへ近づいて来た足音の方を恐るおそる見遣ると現れたのは頭の上にちょこんと小さな帽子のような物をつけ、びしっと決まった和服姿の中年の男性だった。この人が「たちばなのおひぃさまの「父上」なんだ。白髪の混じった頭の下から見つめる眼光は鋭く、整った口髭が威厳を醸し出している。父とは似ても似つかぬ
ききょうは少し上擦った声で「父上」に何かを説明し始めた。
話を聞き終えると落ち着いたバリトンで「父上」がききょうに何かを尋ね返した。やり取りが何度か続いた後、「父上」は心の中まで見透かしそうな眼で私を見詰め、その間中私は身動ぎ一つできなかった。やがて扇をぱちりと鳴らすとそれが合図かのように「父上」は静かに立ち去って行った。ききょうは沈んだ様子だったが、心配そうな私の目線に気付くと、大丈夫ですよとでもいうように微笑んだ。
それからようやく朝御飯になった。緊張したのと空きすぎたお腹のせいで食欲はどこかへ消し飛んでいたのだけど・・・
立派な朱塗りの掛盤の上に
「こうじもございますゆえ」
とききょうは自慢げに言った。食欲はわいてこなかったが、それでも食べなければ心が折れてしまいそうで箸をつけてみる。
御飯は表面がパサパサだが噛むと妙にもちもちした食感がして赤飯に似ていた。少し匂いが鼻につくけど、まあ食べられる。
匂いのきつい酢に浸したひじきはちょっと無理。青菜は茹でてあるので青臭さはないけど・・・どの料理も色合いと同じように味が薄い。
時間を掛けて良く噛み、ひじきを残して私はこの時代にやって来てからの初めての食事をなんとか終えた。
「こうじをまいらせたまえ」
台盤の上で唯一彩りを添えていた「こうじ」も決して美味しそうに見えなかった。何だか八百屋さんで最後まで売れ残ってしまった可哀想な蜜柑っていう感じ?
ききょうが熱心に見守っているので私は蜜柑の皮を剥くと白い筋をとって、綺麗に剥きあげた。ききょうは物珍しそうにその様子を眺めている。口に入れた一袋の蜜柑は・・・見た目よりはずっと美味しかった。酸っぱいし硬い口触りだったけど、味が濃い。
すぐにもう一袋を口に入れるとききょうは嬉しそうに笑った。その笑顔にふとミキとノンコを思い出す。
二人は今、どうしているんだろう。私がここに居る以上、本当の私は死んでしまったのか意識を失っているかに違いない。きっと辛い思いをしているだろう。ごめんね、ミキ、ごめんね、ノンコ・・・不意に涙が零れた。
その涙を見たききょうがそばに寄って来て私の手を優しく撫でた。そしてふと何かを思いついたように顔を輝かせると
「お待ちくだされ」
と言うと出て行った。
しばらくしてききょうが籠を手に戻ってきた。籠の中には、焦げた所と白い生地のままの箇所が入り混じった揚げパンみたいなものが入っていてほんのりと甘い香りが漂ってきた。
「参らせ給え」
台盤の上に置かれた籠から一つを手に取って見る。まだ温かい。なんだかチューロを揚げてみたけど失敗しちゃいました、みたいな感じ。でも一口食べてみると素朴な味で意外と美味しい。
「かくなわにござりますよ。さ、たんと」
ききょうが嬉しそうに笑った。
それから後、私の食卓にはだいたい同じような物が並ぶようになった。
平べったい丸い御餅、これは夕食の時に出て来たもので、御飯よりずっと食べ易い。菜っ葉に吸い物。時折出る干魚は貴重な蛋白源だ。蜜柑は貴重らしく、滅多にお目に掛かれなかったが庭に生っているヤマモモが暫くの間食卓に乗った。昆虫採集の時、ときどき見かけたけことがあるけど食べられるなんて思っていなかった。ほんのり甘酸っぱくてまあまあ美味しい。
そうは言っても、ほとんど毎日同じような物。その上一日二回しか御飯がない。その事実を知った時、学校帰りにミキたちと食べた塩ラーメンがまざまざとフラッシュバックした。
後で猛特訓を受けさせられる事になった和歌風に言えば、
知らざれば耐えもこそすれラーメンの
つゆにうきにしチャーシューの味
おそまつさま・・・。
でもまだ食事はいい方だった。
トイレとお風呂、それに洗髪の事は・・・書きたくない・・・というか今でも思い出したくもない。一つだけ言えるのは私がそれまで生きてきた世界がなんと快適で清潔であったかという事だ。
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