第2話 空音 2017年 初夏

 葉を茂らせたこずえの隙間に群青色の空が帯の形に延びていた。その真ん中あたりで太陽が帯留めのように輝いている。立ち止まって空を見上げ、その太陽の眩しさに手をかざした私の横で

「よかったね。晴れて」

ノンコも足を止めて空を見上げ、頭上で手をひらひらと振った。

「梅雨のど真ん中だってのにねぇ。私の日頃の行いの賜物たまものですかね」

後ろからスキップをしながら近づいて来たミキが陽気な声で話に加わって来た。

「ミキの日頃の行い?・・」

いぶかしげに目を細めたノンコをミキが腰に手を当ててにらむと、ノンコはこそこそと私の後ろに隠れた。

「ノンコ、そこ突っ込む所じゃないでしょう?」

 ミキの鋭い口調に

「いやあ、マジで言っているのかと思って・・・」

 気圧けおされたようにノンコは呟いた。

「マジって何よ」

広い参道の真ん中で言い合いをしている私たちをもの珍しいものを見るような眼をして観光客たちが振り返る。と言っても残念ながら私たちの誰かが目を引くほどの美少女という訳ではない。

 でもたぶんひたすら目立つのだ、この格好は。白長袖、白手袋、白い帽子、お揃いで捕虫網を持ってる女の子なんて、ね。


私たち?

京都洛北女子学園昆虫生物部。

部員と言えばたったの四人きり。名実とも洛女一の弱小部だ。

 でも、と私は心の中で胸を張る。部には御園先輩がいるし、ミキとノンコという楽しい友達もできたし・・・。十分、幸せ。

 二年生部長の御園先輩は肌が白くスリムで一見するとはかなげだが実はとっても芯の強い人だ。3年生部員が一挙に卒業した今年の春、ひとり取り残された御園先輩を終業式の日に部の顧問の先生が呼びだして

 「悪いなあ。たぶん廃部になっちゃうよ。きょう朝礼の後、教頭に呼ばれちゃってさ、そう言われちゃった」

 と申し訳なそうに言ったのだ。

「君たちが卒業しても御園が残っている。決して廃部なんかにはしないから安心して卒業して行ってくれ」

卒部式の時には先輩たちにそう言っていた癖に、と御園先輩はその話をする時いつも頬を膨らませる。先輩にそう指摘された当時の顧問は、顔を顰めると、

「だって、みんなに気持ち良く卒業してもらいたいじゃないか。分かってくれよ」

と反論した。・・・という事は、いずれそうなると知っていて私にも隠したまま先輩たちに嘘をついたんだ、と御園先輩は呆れたそうだ。

「部員は最低4人必要なんだよ。校則にも書いてある。それに部室があんなだろう?取り壊して新島先生の銅像を建てたいらしいんだ」

新島先生と言うのは学校の創立者で校門の脇に既に立派な銅像が一つ立っている。部員の件については校則にそう書かれていることくらい御園先輩も知っていたがそれは「創部」の基準であって「廃部」の基準ではない、と顧問は言ったのだ。確かに読む限りではそう取れる。だが実質的には廃部の基準でもあったのだ。

 それを知ると、頼りない顧問や煩そうな教頭先生をすっ飛ばして御園先輩は校長先生に直談判し、新入生を3人以上部員にしたらと言う条件付きながらも部の存続を認めさせたのだ。

「だってねぇ、先輩たちに申し訳ないもの。少なくても抵抗はしておかなきゃ・・・」

 御園先輩自身も最後の抵抗だと考えていたらしい。まして、

「いまどき女の子が虫なんて」

 許可した校長先生もそう思っていたに違いない。まさか、そんな奇特な新入生が揃って三人も入って来る筈はないだろう。そう高を括っていた先生達の思惑を思いきりひっくり返したのが今ここに集まっている騒々しい三人組だった。

私自身は初めから昆虫生物部に入る積りだった。というか、洛女に進学した大きな理由の一つは「昆虫生物部」があるからだった。幼い頃の私は夏になると祖父の家に行き男の子たちと虫網を担いで近くの山や野原に虫を取りに行った。そのせいか虫を一度も怖いと思ったことはない。そして一番数多く、一番珍しい虫を捕えるのはいつも私だった。戦国武将を彷彿ほうふつとさせる勇ましい姿のミヤマクワガタやカブトムシは男の子たちに人気があったから譲ってあげた。タマムシは上品なお公家さん。カミキリムシたちを従えてちょっと偉そうだ。

 そんな虫たちの中で私の一番のお気に入りは昆虫界の御姫様たち。昆虫網鱗翅目ロパロセラ。

 つまり・・・蝶。

花畑に優雅に集う黄蝶きちょう紋白蝶もんしろちょう、夏の向日葵ひまわりを飾る黒揚羽くろあげは青筋揚羽あおすじあげは、林の中を孤独に散策する赤立羽あかたては豹紋擬ひょうもんもどき。どのお姫様もほれぼれするほど美しく可憐だ。

 母は蝶を追っかけまわす幼い頃の私を怪訝そうな眼で見ていた。なぜこの子はバレエとかピアノとか、せめて人形遊びとか普通の女の子が好きなものに興味がないだろうか?と思っていたらしい。母は虫全体がどうも好きになれない性質たちの女性だった。それでも一応、昆虫の生態については知っていて、

「だって毛虫だっていつか蛹になるし、蝶々になるんでしょ。あなたにだっていつかおんなじことが起こるんじゃないかって」

 と思っていたんだ、と後で教えてくれた。だが、母が期待していた変態メタモルフォシスはいつまでたっても起こらず、やがて母の眼の色は大いなる懸念に彩られていった。小学校の高学年になってもナガサキアゲハの孵化うかの話を嬉しそうにしている娘は彼女の理解の範疇を越えていたのだ。

 父は・・・。父は娘が虫を追いかけ回しているのをさして気にしているようではなかった。

 小学校四年だったある秋の土曜日、私が部屋にカブトムシの幼虫を十匹ほど隠し持っているのを見つけ、ヒステリーを起こした母をなだめてくれたのは父だった。すぐに捨てて来なさいと金切り声をあげている母を

「そんなことしたらみんな死んでしまうよ。命は大切にしなけりゃ」

 静かに諭し、郊外にあるDIYで幼虫の数だけの容器と培養土を買うと、父はカブトムシの育て方を私に丁寧に教えてくれた。

「懐かしいなあ」

車を停めた広い駐車場の隅で熱心に土をほぐし終えると、外した眼鏡の曇りを拭きながら父はぼそりと呟いた。

「僕も昔育てたもんだよ」

 きっと私はお父さんに似たんだ・・・、そう思ったら鼻の中で甘酸っぱい匂いがした。

 地質学の教授である父は鷹揚おうようで型にはまったような考えを持つ人間ではなかった。女の子が「虫が好き」という位ならば十分彼の規格内に入っていたのだろう。そんな父の血を引いた私はいったいどんな大人になるんだろう、とその夜ベッドの中で考えた。娘から見ても変人かな、と思える父だからその娘はきっと変女。「へんじょ」、と呟くと響きがなんだかおかしくて、くすくす笑いながら私は寝入ったのだった。


だが、今私の隣で騒いでいるミキとノンコはごく普通の女の子たち。持っている網は私のお古だし。虫だって実は好きなわけじゃない。それどころかノンコは本当は虫なんて大っ嫌い。マクドで会って話をする時なんかお気に入りのドラマやお化粧やファッションの話題ばかりで、お蔭で私もそっち方面の知識を得ることが出来つつある。地面すれすれを飛ぶ燕の姿に

「明日はまた雨かなぁ」

誰にともなく呟くと私は二か月前、初めて二人と出会った日の事を思い出していた。


「洛女の絶滅危惧種に救いを。ぜひとも入部を。ご検討よろしくっ!」

春の日がぽかぽかと古びたプレファブの建物を照らし出している。入口には「昆虫生物部」と青いペンキで書かれた木の看板がぶらぶらと揺れていた。穏当おんとうに言って「やや古びた」、普通に言えば「スクラップ寸前の」建物の壁に貼られたポスターに丸字で書かれている勧誘文句は内容が必死な割に、画鋲がびょうが外れてのほほんと風に膨らんでいた。

 おんぼろの建物の前で、カマキリを模した黒服の男に襲われている女の子の顔をした蝶のイラストのポスターを見ながら、くすくす笑いあっていたのがミキとノンコだった。

「このカマキリ、教頭先生に似せて描いたんだよね、きっと」

「結構似てる。うけるぅ」

「女子高で昆虫生物部なんて、そりゃ絶滅危惧種になりますよ。てか虫って世界に必要?」

昆虫愛好家の神経を逆なでするような会話を交わしている二人の横をそっとすり抜け私はすり足で部室の入り口へ向かって行った。

 「虫ごと絶滅」みたいな話にいちいち目くじらを立てても仕方ない。同い年の女の子たちに本音を聞けば百人の内九十九人は同じ意見だろう。近頃は男の子だって似たようなもんだ。私たちの世代の殆どの子供は野山で遊んで虫と触れ合うような機会を持てなかったのだ。心がおとなになっちゃってから虫と向き合ってもどうしても好きになれないみたい。この子たちもきっとそうなんだろうな、と考えながら通り過ぎがてにポスターに描かれていた蝶を見て

「あっ、キマダラルリツバメだっ」

頭の中で呟くつもりが思わず声に出てしまった。その声は女の子たちの耳にも届いたらしく、二人は同時に奇妙なものを見つけたような眼差しで私の方を振り向いた。

「へえ、この蝶、そう言う名前なんだ」

片方の女の子が良く通る声で言った。すらっとした手足をした、切れ長の目をした女の子。浅黒い肌がエキゾティックな雰囲気を醸し出している。万人受けするというよりある種の男の子に抜群に人気がありそうなタイプだ。

 ねえ、ちょっと、と言いながらその子はプレファブの土台からぴょんと飛び降りて近づいてきた。私はジョロウグモに睨まれたカゲロウのように逃げ場を求めてあたりを見回した。でも、その子はかまわず笑いながら尋ねてきた。

「部員なの?」

「いいえ、新入生です」

微笑みがニコッとなのかニヤッとなのか判別がつかずに警戒を解かないでいる私を見て、その女の子はクスリと笑うと

「あたしたちも新入生。京極ミキっていうの。よろしくね。この子は川島伸子」

どうも、と小声で答えるとノブコと呼ばれた子も黙って頷いた。色白のぽっちゃりとした子だ。新入生が一学期の間だけは校内でつけなければならないネームプレートはどちらの襟元えりもとにもついていない。校則を破るの、早過ぎません?

「宇部空音って言います」

私が頭を下げると、京極ミキと名乗った女の子は真っ白な歯を見せて笑った。

「宇部さん、礼儀正しいんだね。この部に入部するの?」

「はい、その積りですけど」

「虫、詳しそうだものね」

女の子なのに変ですよね、と曖昧に笑うと京極さんは、ううん、別にと首を振って悪戯っぽい表情をした。

「じゃあ、私たちも一緒に覗いてみよう」

ポケットに忍ばせていたらしいネームプレートを制服に付け直した京極さんに向かって川島さんは手を体の前で激しく振った。

「ミキ、ムリだよ。私、虫だいっ嫌いだもん」

「いいじゃん、別に。部室に入ったからって入部しなきゃいけないって訳じゃないし。こちらが入部するんだったら、私たちにはそんなに激しく勧誘してこないよ」

「でもぉ」

嫌がっている川島さんを扉から京極さんが押し込んだものだから、中にいた人が最初に目撃したのは引きった顔の川島さんだった。それでも部室の真ん中のテーブルでぽつんと座っていたその人は、パッと輝くような表情になった。

「あ、きっとこの人すごくいい人だな」

ひと目見ただけで分かるまっさらの笑顔。

「こんにちわ。いらっしゃい」

声も明るくて爽やかだった。

「ふぇい」

相手が飛び切りの笑顔で迎えてくれたのに川島さんは思いっきり情けない声を出した。

「お邪魔します」

私は精一杯可愛い声を出して頭を下げた。

「嬉しいわ。いらしてくれて。それも三人なんて。さあ、座って」

テーブルの上に乗っていた紙や本をささっと片づけるとその人は私たちを手で招いた。

「どうも」

京極さんが川島さんの手を引いて座らせ、私はその横に座った。

「部長の御園です。入部希望なのかしら?」

「お話を聞きに来たんです」

姿勢を正して座った京極さんが軽やかに言うと、その横で川島さんは勢いよく首を縦に振って喉に何かが詰まっているような声で

「お話を聞きに来ただけなんです」

と続けた。

「私は入部希望です」

そう言った私を、先輩は少し眼を上げて眩しそうに見た。

「嬉しいわ。話を聞いてくれるだけでも」

京極さんはにっこりと笑い返したけれど、川島さんは曖昧に笑って視線を膝に落とした。なんだかちょっと可哀想。

ざっと部の歴史や、活動内容、年間スケジュールを話すと、

 「他に何か聞きたいことはある?」

と御園先輩が尋ねた。

「あの」

京極さんが手を上げた。

「ポスターに描いてあったカマキリ、教頭先生に似せて描いたんですよね?」

そんな質問が来るとは予期していなかったのだろう。一瞬、ポカンとした御園先輩は部室にも貼ってあったポスターに目を遣るとくすくすと笑い出した。

「そう?似てるかしら。そんなつもりはなかったんだけど」

「横に描いてあった蝶、キマダルリツバメですよね」

私の質問に、

「あら、分かった?その積りで描いたんだ」

御園先輩は薄いそばかすの浮いている顔を綻ばせた。

「私の好きな蝶ですから。ところで絶滅危惧種って書いてありますけど・・・」

その質問にそれまで溌剌はつらつとしていた御園先輩が急にしおれた様子になった。

「ああ、あれね・・・うちの部、ちょっとやばいのよ。今、部員が私しかいないの。もし新入部員のリクルートに失敗すると廃部だって教頭先生に言われているんだ」

それでカマキリが教頭先生に似ちゃったのかな、と呟いた先輩に私が

「リクルートって・・・新入部員は一人でもいいんですか?」

尋ねると、御園先輩はうーんと唸った。

「校則で決まっているの。部員が四名以上いないと部活動としては認められないって」

思わず、先輩の向かい側に座っていた私たちは目を見合わせた。ちょうど不足分の人数が揃っている。川島さんもそれに気が付いたのだろう、慌てて目を伏せた。

「だからね、宇部さん」

先輩は私の方を見ると、

「もし入部してくれるのがあなただけだったら、やっぱり部は廃止になっちゃう。そうなっちゃったらごめんなさいね」

いえいえ、と私は小さく手を振った。内心は残念だったけど、もし廃部になったとしててもこの先輩とお友達になろう。きっといろいろ教えてくれるに違いないし、もしかしたら二人でまた部を復活できるかもしれない。

「じゃあ、今の所、他に入部希望者はいないんですね」

問いかけた私に

「入部希望者どころか・・・今までで尋ねて来てくれたのは、あなたたちだけなの」

そう答えた御園先輩の真ん前に座っていた川島さんが急にガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。

「ごめんなさい。私、虫あんまり好きじゃないんです。だから・・・」

驚いて椅子ごと体を引いた御園先輩は頭を下げている川島さんをまじまじと見詰めてからにっこりすると優しく語りかけた。

「お付き合いで来たのよね。気にしないで。無理に入部してなんて言わないから」

「本当にごめんなさい」

深々と頭を下げたままの川島さんに

「三年間あるクラブ活動なんだから、行きたいところに入らないとダメだよ」

そう言うと、御園先輩は私を振り向いて

「あなたはその気があったら明後日までに入部届を出してね。教頭先生に報告しなくちゃならないの。もしかしたらまだ入部してくれるっていう子もいるかもしれないし」

御園先輩は立ち上がって私たちに頭を下げた。

「話を聞いてくれてありがとう」

いぇいぇ、と京極さんがひらひらと手を振る。ちょっと、先輩に対して失礼じゃない?

「私、今すぐ入部届出します」

私は鞄から入部届を出して御園先輩に手渡した。

「いいの?他の部も見てきた方が良いんじゃない」

気遣わしげに尋ねる御園先輩に、

「いえ、もしも廃部になっちゃたら、帰宅部になります。それと、新入生のリクルート、私にも手伝わせてください」

あら、ありがとう、そう言ってにっこりと御園先輩は微笑んだのだった。

翌朝、私は普段より早起きして校門の脇で勧誘ビラを配っていた。二人の女の子が帰って行ったあと居残った私に、「せっかくビラを作ったのに・・・」と言いながら御園先輩は小さく舌を出してビラの束を机の上に置いた。部室で入部希望者を待つためにビラを配る方には手が回らなかったのだと恥ずかしそうに言う。

「馬鹿よねぇ、私。そんな事にも気が付かなかったんだ。でも宇部さんのお蔭で無駄にならなくてよかった。じゃあ、お願いね」

そう言いながら御園先輩はプリントしたビラを私に手渡した。そこにも蝶とカマキリのイラストもしっかり描かれていた。

登校してくる生徒が新入生かどうかは様子や服装を見ればだいたい分かる。新入生ってまだしっくりと学校の景色に馴染んでいないんだ。それに洛女では新入生は一学期の間だけ制服の胸にネームプレートをつけさせられる。互いの名前を憶えましょうという訳だ。ミキたちも教師の眼の届く所ではネームプレートをつけている。

 弱小の部のビラでもたいていの新入生は

「ありがとうございます」

と丁寧に受け取ってくれる。

「お願いします。あと二人入部すれば部が存続できるんです」

そう呼びかけながらビラを配っていた私の前にぬっと立った人影は新入生にしてはずいぶんと大きかった。眼を上げると私を見下ろしていたのはカマキリ・・・じゃなくて噂の教頭先生だった。逆三角形の顎の細い顔、ちょっと長い首、眼鏡の掛けた眼はやや離れ気味で確かにカマキリに似ている。

「あなたは新入生ではないですか?」

日に焼けた細い手足は灰色の地味なスーツと全然似合っていない。瞬時に心の中で「オオカレエダカマキリ」に同定した。東南アジアにいるこのカマキリは手足が貧弱なのに胴が長く太く、名前通り枯れた木の枝の擬態をしている。でもナナフシのように身を守るための擬態ではなくて、獲物を騙すための擬態だ。他の虫を捕食するカマキリに対しても寛容な私でもなんとなく気に食わない虫の一つだ。まさに蝶を狙っているカマキリのような表情でビラを見た薄い色の瞳にはカマキリのイラストも映っていたに違いない。けれどそれが自分に似ているとは思わなかったのだろう、すぐに目を上げると

「正式の部員以外は入部の勧誘をしてはならないのですよ」

厳しい顔で私に注意をした。

「でも、私、もう入部届を出しましたから。昆虫生物部は他に部長一人しかいないんで、ビラを配る人がいないんです」

そう答えつつ傍を通った新入生にビラを渡した私をぎらりと睨んだ教頭先生は、私の手を抑えると

「あなたは教師に反抗するのですか」

と叱りつけてきた。その頭ごなしの言い方にカチンときた。

「校則にそう書いてあるんですか、それともダメだって最初に言ってあるんですか?」

腰に手を当て教頭先生に向かって私は言い返した・・・というとなんだか格好が良いけど、本当は、思った事が口を突いて出てしまっただけ。なんていうか、勢いで・・・

教頭先生は険しい眼つきで私を睨みつけた。生徒、それも新入生が公然と逆らうなんて思っていなかったに違いない。だけど、「校則」やら「会議の結果、決まった」というような確固たる物もなかったらしく、ふっと目を宙に泳がすと、

「よろしい。あなたの言う事も分からないではない。では後で先生たちと協議します。今日は仕方ありませんが、明日からはその結果に従っていただきますよ」

そう言って私の胸のネームプレートをじろりと睨むとさっさと校舎の方へ歩き去って行った。

さっそく教頭先生に目をつけられるなんて・・・内心落ち込みながら教室に戻った私の眼に映ったのは、回収箱の一番上に乗っている配ったばかりのビラだった。それを見てますます滅入ったのは言うまでもない。

放課後、憂鬱な気分のまま部室に向かった。他の文化部がみんな校舎の中にあるのに、昆虫生物部だけが古いプレファブに取り残されたのは他の部の部員たちから「虫」が気味悪がられたかららしい。

「まあ、気楽なんだけどね。ただ、冬はちょっと寒いのよ」

 昨日、冗談めかしてそう言った御園先輩は部室にひとりぽっちで座っていた。冬、陽だまりの枯葉にぽつんと留まっているナナツボシテントウみたいに可愛くて、ちょっと孤独に見える。

 ドアを開けて入っていくと、私に向かって顔を上げにこりと笑った先輩に朝の出来事を報告するのは何だか気が引けた。

「そう・・・だから教頭先生から呼び出しがあったのね」

思い切って話した私に向かってそう呟くと御園先輩は

「無理はしないでね、空音さん」

と優しく言ったのだった。。

呼ばれた時間に教務室へ向かった御園先輩は戻ってくると、

「新入生は勧誘や届の受理みたいな活動はしちゃいけないと決まったの。明日の朝、朝礼で発表をするけど、うちだけには先に言っておくそうよ。明日は私がビラを配るわ」

先輩はちょっと疲れたような表情だった。勧誘ばかりでなく入部届の受けとりも禁止するなんてうちの部だけを狙った嫌がらせじゃない?だって他の部ではそんなこと悩む必要はないんだから。

「じゃあ、先輩がビラを配っている間は私が部室にいます」

「でも、入部届は受け取れないのよ」

御園先輩は言ったけど、私は依怙地いこじになっていた。

「誰か来たら引きとめておきますから、先輩は時どき戻って来てください。本当は携帯を使えるといいんだけど」

学校内では携帯電話を使えない。それは確かに規則に載っているし、仕方ない事かなって思う。御園先輩は暫く考えてから、うん、と頷いてにっこりと笑った。

「じゃあ、そうしてくれる?でも無理に引き止めちゃ駄目だけど・・・もしできたら、その人に待ってもらって私の所に来てちょうだい」

こんど教頭先生に見つかったらどんな嫌がらせをされるか分からない。私は黙って頷いた。でも、その日は結局誰も部室にはやって来なかった。

「残念だけど、まだ明日もあるよ」

気持ちだけが空回りして落ち込んでいる私を慰めると御園先輩は

「ねぇ、宇部さんはどうしてこの部に入ろうと思ったの?」

テーブルの上の空白の入部届を片づけながら、私に尋ねた。

「私、片利共生へんりきょうせいについて研究したいんです」

そう答えると、御園先輩はぽんと手を叩いた。

「ああ。キマダラルリツバメとハシブトシリアゲアリみたいな一方だけが得をする共生関係ね。だからあの絵が分かったのね」

「ええ。わたし、片利共生なんて自然界では成立しないと思っているんです。自然は人間社会よりずっと競争が厳しいから。だから一見片利共生に見えても必ずもう片方、つまりハシブトシリアゲアリの方にも共生する合理的な理由があるはずです。その理由の研究をしたいなあって」

「面白い視点ね。一年生なのにあなたには明確な目標があるのね」

御園先輩の感心したような眼にちょっと気恥ずかしくなる。

「そうでもないです。そういう先輩は何を研究なさっているんですか?」

「私はレッドブックデータに載っている昆虫の保護をしているの」

御園先輩も自分の事を話し始めた。休耕田の持ち主と話をして、田んぼの一部を借り無農薬栽培をしながら、昔、普通に田んぼに居た虫たちの保護活動をしているらしい。

「もちろん、一人じゃできないから、おんなじ考えを持っている人たちとグループを作ってやっているの。学生や社会人もいれば引退した学校の先生なんかもいるのよ」

「すごいですね。立派な活動だと思います」

「そうねぇ。田んぼを作って藁を上げて・・・もう見なくなっちゃったんだけどハザ木に住みつく虫やニオを作らないといなくなちゃう虫もいるの。一方で保護するっていっても大量発生しないように管理しなければならないし、ちゃんと稲が育って収穫するっていうルールもあるから結構大変ね」

「無農薬農業って難しいんですよね」

「そうね、若い人がいないとね。それでも機械があるから昔よりずっと楽なんでしょうけど。この間、ズイムシハナカメムシが見つかったの。絶滅危惧種の2類なんだけど、どっかで細々と生きていたのね。でも彼らがいるという事は稲の害虫のニカメイガがいるという事だからおおっぴらに喜べないのよ。今はそのニカメイガの方を探しているの」

私とはアプローチが違うけど、とっても興味深い話だった。御園先輩もそんな話ができる相手が欲しかったのだろう。いつもきらきらとした目が一層輝いている。

「いろいろな意見があるの。里山の自然って言っても、そもそも里山って人の手が入っているじゃない?だから極端な事を言えば里山を維持する事が本物の自然を維持するっていう事にはならないという人もいる」

「そうですね」

「私たち、人間の目線でしか物事を見ないでしょう?カモシカを守ろうって言っても、ちょっと数が増えて農作物を荒らすととたんに害獣扱いになっちゃう。それと同じ事。自然保護って薄っぺらい板に乗って海の上を漕いでいるようなものなの。すぐにひっくり返っちゃう」

「確かに虫の被害を受ける人たちがいますからね」

「そうね。でも、もしも何もせずに放置したらどんどん種は減っていってしまう。そもそも全ての土地に人間の所有者がいるっていう事が事態を複雑にしているんだけどね。土地の所有者は当然、自分の物だから迷惑な生き物がいては困るって主張するでしょう?でもその土地には昔から色々な生物が住んでいるし、虫や蛙や蛇にだって生存する権利がある筈なのに」

御園先輩は小さくため息をついた。

「私はやっぱり虫でも命を絶やさないようにしなければいけないって思っているの。人間と言う種が圧勝しちゃいけないんだって・・・それが良い事なのかどうなのかはきっと未来の人たちが判断してくれるわ」

誰かがそういう風に考え、小さな命を未来に託そうとする努力をしなければきっと次々に生物が滅びてしまうんだ。私は御園先輩の言葉に深く頷いていた。

翌日が部員募集の最終日だった。誰も来なければ昆虫生物部は自動的に解散。私はあっというまに部活浪人だ。

 でもいくら待ってもドアを叩く生徒は一人もやって来なかった。一度ビラを取りに戻ってきた先輩は、

「やっぱり、誰も来ない?」

と尋ね、無言で首を振った私を元気づけるように肩を叩くと

「最後のひとふんばりをしてくるわ」

明るい声を出して部室を出て行った。

 四時。あと一時間半で募集活動は終わり。私はひとり敗戦モードに浸りつつあった。短くも充実した部活だった・・・のかなぁ?でも、まあ先輩とお友達になれたし、いいか。そう自分を慰めつつ何度も見遣ったドアの脇の窓にもう一度目を遣った時だった。人影が窓に映り、話し声が近づいて来る。ドキリと胸が鳴った。

 思わず背筋を伸ばし、ガラリとドアを開けて入ってきた人を縋るような眼で見たのだけど・・・

「元気ぃ?」

暢気な声で私に向かって手を上げた京極さんを見た途端、膨らんだ希望はプシューっという音と共に萎んでいった。川島さんが「こんちわ」と京極さんの肩越しに顔を覗かせる。私は思わず机に突っ伏した。

「なあんだ、がっかり、てか?」

京極さんが笑った。

「そうじゃないけど」

わざわざ会いに来たのに見た途端がっかりなんて表情をされたらやっぱり気分が悪いだろう、机に突っ伏したまま顔を上げた私は無理やり微笑んだ。

「どうなの、誰か入部した?」

 ぶんぶんと頭を横に振る。

「まあ、さっきの様子を見りゃわかるけど・・・じゃあ、私たちが入部して進ぜよう」

「えっ?」

思いも依らぬ申し出に思わず私は座り直した。そっと川島さんの方を見る。川島さんは私の視線に慌てたように俯いてから小さく頷いた。

「でも、どうして?」

京極さんはにやりと笑った。

「会った次の朝、校門で教頭とやりあっていたでしょう?私たち、見ていたんだよ」

「あ、うん」

全然気が付かなかった。というか、あの時は辺りを見回している余裕がなかったんだ。

「なんかカッコよかったよ。あたしも虫が好きな訳じゃないけど、まあ大丈夫だし。あの感じの悪い教頭に一泡吹かせてやろう」

うわっ、そんな入部動機?それってどうなのかしら・・・でも部が生き残る事が出来るなら・・・

「川島さん、大丈夫なの?」

川島さんに尋ねると川島さんは小さな声で答えた。

「うん。部のスケジュールを作るとか、文化祭の手伝いとかそういう事は出来るだろうし。これも縁だってミキが言うしさ。ミキがそうするんだったら私も一緒に入部する」

川島さんはきっと京極さんのことが大好きなんだ。

御園先輩も戻って来た時、部室から声が聞こえて来たので、

「もしかしたら?・・・でもまさか・・・」

と思いながら入って来たそうだ。扉を開ける音がいつもよりせっかちだったのを覚えている。そして、私と話をしているのが京極さんとと川島さんだと分かるとやっぱり微妙な表情になった。

「入部希望でーす」

と京極さんが明るい声を出しても、

「でも・・・」

先輩は困った顔でドアの所で立ったまま私たち三人を見詰めていた。

「無理はいけないわ」

「無理じゃないっす。それに志望動機もしっかりあるし」

感じの悪い教頭先生に一泡吹かせてやりたいのだと説明する京極さんの話に、御園先輩はますます困ったような顔になっていった。

「それにいろいろな部を回ったんだけど、今一つピンと来るものがなくって。このまま部活なしにしようかってノンコと話していたんだけど、じゃあせっかくだから昆虫生物部に入ろうかって」

「本当に・・・それでいいの?」

躊躇うように御園先輩が尋ねた。

「もちろんです。良く考えたんだけど入れば部も存続できるし、私たちもOA入試の面接に部活の説明ができるし、ウィンウィンじゃないですか」

いやぁ、なかなか計算高いこと。

「でも教頭先生が、入部希望者がいたなら連れて来いって。私が幽霊部員を引き込むんじゃないかって疑っているみたい。私が直接校長先生にねじ込んたから嫌われているのよ」

京極さんと川島さんはちょっと怯んだ顔をして互いを見交わしたけど、一瞬の事だった。

「だいじょうぶっす。任せてください。それと私のことはミキ、ノブコの事はノンコと呼んでくださいねっ」

ミキの明るい声に今度は私と御園先輩が顔を見合わせた。


「あなたたち、三人とも真面目に活動する気はあるのですか?」

教頭先生は三人の顔をぐるりと見回した。御園先輩は教頭先生の脇で小さな肩を竦めながら私たちを見ている。

「部活には学校から活動費が出ます。活動実態の伴なわない部に貴重なお金を出すわけにはいかないですから・・・分かりますね」

「ちゃんと活動します」

私はきっぱりと答えた。

「ねぇ、みんな」

ミキとノンコが頷いた。

「そうですか。なら宜しいでしょう。今の所は信用しておきます。但し、あなたたちのうち誰かが部活動に参加していないと分かったり欠員が出たらその時点で昆虫生物部は廃部という事にします。あと秋の文化祭での発表内容によっては協議して存廃を決める事にします。その時は猶予はしませんからね」

厳しい声を出すなり教頭先生は

 「もう結構ですよ」

 そう言うと、後は私たちにまるで関心を失ったように机の上の書類を読み始めた。

「残念だなぁ、せっかく練習してきたのに」

なに?あの偉そうな態度、とふつふつ湧き上がってきた私の怒りとは別の意味でミキは不満そうだった。

 ミキもノンコも志望動機とか研究テーマを尋ねられた時の練習をみっちりさせられたのだ。そうでもしなければミキは教頭先生に向かって

「あんたに一泡吹かせるためだよ」

と言い出しかねない。先輩と私で二人の志望動機を考えた。

 ミキはナミハンミョウの、ノンコはウスバカゲロウの生態の研究にした。ミチシルベと言う異称を持つナミハンミョウは滅多に見られない絶滅危惧種で、もう一方のウスバカゲロウはどこでも見られる虫・・・だが、ウスバカゲロウの変貌ぶりには眼を瞠ってしまう。だって幼虫の時はアリジゴクなんだものね。バリバリのヤンキーが清楚な女優さんに大変身するようなもんだ。

 違うタイプの研究テーマを選んだのは難癖をつけられた時にどちらかが

「でもこっちはすごく珍しい虫ですから、分布を調べれば有意義だと思います」

とか、

「ウスバカゲロウは現実的な研究対象だと思います。餌の量を変える事によって成長の変化を見たいと思ってます」

とか答えて、一回でも教頭先生を頷かせさせる戦術だった。御園先輩によれば先生と言うのはなんだかんだと言っても生徒の言い分を肯定したいと心の底で思っているそうだ。だから一回頷かさせてしまえば、後はなんとかなる・・・そういう事らしい。

 一方が頷かせることが出来たなら後はもう一人の方が、

「じゃあ、私も研究対象を見直します」

と言って否定しがたい雰囲気を作り上げる作戦。

さすが、策士。でもあの教頭先生に通じるのかしら?ちょっと心配だったし、現実的にはこの二人分の研究課題は先輩と私で分担しなければならなそうだ。

 でも相手もさるもの、一旦受け入れて置いて実態がないことが分かったら有無を言わせず廃部に追い込む作戦に転じたらしい。少なくとも御園先輩と私は当面息が抜けそうにない。というか、来年御園先輩が卒業したらどうなっちゃうんだろう・・・。


「空音って彼氏いるの?」

捕虫網をくるりと空中で回したミキが突然私に尋ねてきた。不意を突かれてずっこけそうになる。

「ううん」

きっぱりと私は否定する。妙な所できっぱりとするのは私の悪い癖。

「空音の彼氏って虫じゃない、虫。何とかっていう蝶々」

ノンコが言う。

「いやだ、虫と一生暮らして行くつもりはないよ」

「空音の好みはセカンドチョイスのヒロなんだよ」

ミキが余計な事を口にする。

「えー。そうなんだ。セカンドチョイスだったらわたしはジュンの方が良いな」

ノンコはアイドルにやたら詳しい。その気になればアイドル図鑑を作れるくらい。

 セカンドチョイスとは最近ストリートからメジャー入りを果たしたバンドだ。ノンコが推すジュンがリーダーでボーカル、私のヒロ君はベースであんまり目立たないし、未だにストリートミュージシャン感が抜けていない。テレビのインタビューでも朴訥で、返しも下手だ。でもベースは超上手だし、何より浮わついていない感じが私の好みだった。

彼氏かぁ・・・

きゃっきゃっと騒がしく言い合っている二人の横で私はふと、おととい出会った不思議な人を思い浮かべた。


一昨日の夕方の事だった。

 夕食の買い物へ出かけようとしていた母を父が突然、

 「あ、そうだ。忘れていたよ。今夜は久しぶりに外で食べよう。いい店があるんだ」

 と引き止めた。母と私は顔を見合わせた。

 「たまには外に連れて行ってよ」

 せがむとしぶしぶ近くの蕎麦屋に行く事はあっても父が自分から家族を外食に誘うなんて、今まで一度もなかったのだ。

「お母さんの作った料理が世界で一番おいしいよ」

と、父は事も無げに言う。そりゃあそうかもしれないけど・・・でもねぇ。

 蕎麦屋じゃおしゃれ感覚はゼロだけどフレンチとかイタリアンじゃなきゃ嫌だなんてごねると父のお尻は上がらなくなる。仕方なしに今までは蕎麦屋で我慢していたんだけど。

 父の発言に躊躇なく母と私は、お化粧を始めたり服を選びはじめた。やっぱり母だってたまには外食したいんだ。そんな私たちの様子を見て父は苦笑した。

「大丈夫。予約してあるから。予約は七時だから時間はだいぶあるし、外は雨が降っているじゃないか」

そう言われても動き出した歯車は止まらない。私たちは苦笑いしたままの父を無理やり外に連れ出したのだった。地下鉄を河原町で降り、鴨川沿いを三人並んで傘をさしてしばらく歩いていると雨は止んで薄く日が差してきた。川面に白鷺しろさぎが哲学者のように静かに立っている。どこからともなく恋人たちが現れ、雲の隙間に顔を覗かせた夕日に長い影を作りながらゆっくりと歩きだす。京都はやっぱり哲学と静かな恋の街なんだ。

「こんな風に家族で一緒に歩くなんて、久しぶりね」

母が遥か昔を懐かしむような眼つきになる。

「そうか?」

心外と言うように母を振り向いた父に母は微笑んで頷いた。

駅前へ戻り先斗町ぽんとちょう通の店先を覗いたりしながら突き当りを左に曲がった少し先にその店はあった。扉を開けるとそこにはカウンター席と小さなテーブル席が二つあるきりだった。

「え?ここ」

振り返って父の顔を見た私に微笑むと父はカウンターの中にいるがっちりとした体型の色黒の男の人に小さく手を上げた。

「そうさ。マスター、お久しぶり」

「でも、ここってバーじゃない」

私が口を尖らせるとマスターが柔らかなバリトンで答えた。

「そうですよ、御嬢さん」

「わたし未成年だもの。お酒なんて・・・」

父はにやにやしながら私たちを見詰めている。

「バーは9時半からなんです。それまでは御予約頂ければ、お食事をお出ししているので」

「あ、そうなんですか」

変なの、と私は思った。家族連れと言うのは一つのテーブルを囲んでわいわいと話しながら食事するものじゃない?私のそんな思いを余所に父はカウンターに腰を掛ける。母が一つ間を置いて「よいしょ」といいながら座った。まあ、でも蕎麦屋よりはましか、と思いながら真ん中の席に腰かける。

「椅子の高さは大丈夫ですか。食事用に少し下げてありますが」

「ええ、大丈夫です」

背もたれがあるし、座席もゆったりとしているので食べにくいと言うほどではない。

「このマスターはね」

父は私が座ると、

「ほんとうはイタリア料理の有名なシェフなんだよ」

マスターは否定するでもなく、黙ったまま小さく頭を下げた。

「神戸で評判の店だったんだけど、そこを閉めて京都に来てバーをやりながら一日一組だけお客を取っているんだ」

「あら、素敵ね」

母が目を輝かせた。大人ってこういう隠れ家的な話には弱いんだ。特に女性は・・・

「どうしてお店を閉められたの?」

母は思いっきり餌に食らいついている。

「どうしたんでしょうかね。お客さんも付いて頂いていたんですけど、いつの間にか料理を作るのが楽しくなくなってしまったんです。バカだと言われたんですけど、つまらないと思いながら作った料理をお出しするのが心苦しくて。心機一転するために思い切って閉じて今は一から勉強中です」

そう言ってから、マスターが

「今日のお品でございます」

差し出した手書きのメニューを私たちは頭を寄せて覗き込んだ。

 その時、スィングドアが勢いよく開き私たち一家は一斉にそっちを振り向いた。母と私は危うく頭をぶつける所だった。肩を竦めながら入ってきた青年が眼を上げ、私たちの視線にたじろぐようにして立ち止まる。

「安倍君。今日は早いね」

マスターが青年に声を掛けた。

「どうも。今日はお客さんいらっしゃるんですね」

「今日も、だよ」

マスターがにやりと笑うと私たちを振り向いた。

「すいません。バーの時間に少し彼に手伝ってもらっているんですよ。安倍君、早く着いた時も裏手から入ってね」

注意された青年は被っていた帽子を手に取り素直に

「すいません」

 と謝まり、私たちにも軽く会釈した。私たちはたがいに目を見合わせ、微妙に揃わないまま頭を下げた。

食事は素敵だった。

天蚕豆のビシソワーズ・・・ふんわりと空豆独特ののいい香り。

京野菜のマリネと子羊のテリーヌ・・・食べた事のない食感!子羊さんごめんなさい。あなたがこんなにおいしかったなんて知らなかった。

若鮎の香草焼きにはオリーブオイルと岩塩がさり気なく添えてある。そして最後に但馬牛のローストビーフ。美味しいっ。

どれもこれも文句の付けようがない。しっかりと素材に馴染ませた味付けは、野菜や魚の香りを際立たせ、一皿ごと食べ終える直前に満足感が頂点に達するように仕立ててある。

 音量が少し低いオーケストラの出だしに、うん?と耳を欹てさせられ、やがて耳が捉え始めた音色にうっとりとなり、終曲に向かって高まっていく旋律に心が溶けだして行くようなそんな感じ・・・

デザートの小さなリンゴのパイは口の中を洗い流すような酸味とほのかな甘さが溢れだす。

 す・て・き。

父の味覚に関する評価は一挙に跳ね上がった。

私は紅茶を飲みながらカウンターの天板に目を彷徨わせていた。お腹がいっぱいでほんわりとした気分。天板の所どころにある節が磨き上げられて輝いている。

「素敵なカウンターですね」

人差し指で硬い節を丸くなぞりながら言った私にマスターはにっこりと笑みを浮かべた。

「そうでしょう。この店を譲ってもらう気になったのも、このカウンターがあったからなんです」

「何の木ですか?」

けやきですよ。千年近く生きてきた木だそうです。そういう木には精霊が宿るそうですよ」

真顔で言うマスターの言葉を聞きながら私は掌をカウンターに当ててみる。

「いろんなものを見て来たんでしょうね、綺麗な朝や夕焼けや・・・」

「そうですね。様々な人の栄枯盛衰えいこせいすいを眺めて来たんでしょう。京都は寺や神社が多くて森がいっぱい残っていますが、一方で本殿や塔を建てるために大木の消費量も多かったんで、意外と古い木は少ないようですよ」

「せっかく残ったのに・・・どうして切られてしまったのですか」

「雷が落ちて・・・でも燃えずにこうして立派に残ったんだそうです。その時の新聞記事を図書館でコピーをしてきたものですが」

私たちはその記事を覗き込んだ。

「京都最古の欅に落雷」

古ぼけた、ちょっと見だけでは何が写っているのか分からない写真が添えてある。

「ほう、昭和三十二年八月二十八日か。僕の産まれた日だ」

マスターがびっくりしたような眼をしてファイルを逆さまにすると父の前に置いた。

「そうなんですか?すごい偶然ですね」

父は黙って頷くと、老眼鏡をジャケットのポケットから取り出し熱心に記事を読み始めた。

またドアが開く音がして、私と母は振り向いた。一組しか客を取らない割には良く開くドアだ。舞妓さんが一人立っていた。私たちを見て眼を瞠っている。

「あら、えろうすんまへん」

「おや、ぽんたさん。おひさしぶりですね。どうしたんですか」

知り合いのようでマスターが気軽そうに尋ねた。

「菊乃姐さんから言い遣って、十時からお客さんと来はりますって伝えにきたんですけど、もうお客さんがいらはるなんて知らなかったもんですから」

「細々とレストランもやっているんですよ。お客さんは一組しかとれないんですけどね」

「いやぁ、すてきやわ。私もいちど寄らせて貰いましょ」

あ、ここにも食いついた人がいる。でも食いついて正解です。

「ぜひともご贔屓ひいきに」

じゃあ席の方宜しくお願いしますね、と舞妓さんは頭を下げ、私たちにも一礼をすると出て行った。

「綺麗よね、舞妓さん」

私がそう言うと、母は

「憧れている?」

と尋ねた。

「昔は憧れていたけれど、生物部と舞妓さんは両立しないだろうし。しつけとかすごく厳しいんでしょう?」

「でも舞妓さんになりたいって言う方がまだ応援できるんだけどね、私としては」

溜息をついた母に

「それは言いっこなしだよ」

答えた私に母はわざとらしくもう一度小さな溜息をついてみせた。

ふと見るとさっき入ってきた若い男の人はカウンターの向こう側の奥で何かを真剣にいじっていた。スマホかな、それにしても愛想なしの人だなあ。マスターの手伝いをする訳でもないし、いったい何をするためにここにいるんだろ、と咎めるような視線を送ったけどこっちを見向きもしない。

「でも着物はちゃんと着てみたいな」

 彼から目を逸らし母に向かってそう言うと

「振袖だったら昔私が使ったのを仕立て直せばいいじゃない」

「あれは成人式に着ることに決めたじゃない。まだ背も伸びるかも知れないし」

「太るかもしれないものね」

そう言う母の手の甲を抓る真似をして

「ほらあの平安時代の人たちが着ていたっていう豪華なの・・・あれはどうかしら。本当に誰かが着ているのを見た事ない」

十二単じゅうにひとえですね。素敵ですよ。平安時代の人は季節ごと色を合わせたらしいですよ。かさねの色目っていうんですよね」

マスターの言葉にカウンターの奥で座っていたさっきの人が眼を上げぼそりと

「嵯峨さん。十二単なんていう物は存在しないんですよ。襲の色目というのも平安時代の言葉じゃない。江戸時代の言葉だ」

と言った。

「へえお詳しいんですね」

母が言うと若者はいやあ、と照れくさそうに手を振ってから私を真正面から見た。

「なんで、あんな面倒くさい物を着てみたいんですか?重いし大変ですよ」

問い掛けたその眼に私は一瞬たじろいだ。青みがかった背景にくっきりと映える黒い瞳に吸い込まれてしまいそうな気がしたのだ。

「だって素敵じゃないですか。華やかだし」

あやふやに答えると

「ふうん」

微かに表情を和らげ、その人は悪戯っ子のような眼つきをした。

「きっとそのうちに着る機会があるんじゃないかな」

「まさかねぇ」

と笑ったのは母だった。

「とんでもないお金がかかるわ。それに、季節ごとに使い分けするなんて高級外車を何台ももっているようなものじゃあない」

「本当ですね。着たままじゃ外出できないでしょうから、実用性もないし」

マスターは母の言葉に頷くと、その若者に声を掛けた。

「どうだい、安倍くん。せっかくだから皆様に手品を披露したら」

「え、手品をなさるんですか?見てみたいっ」

テレビなんかで見る手品はみんなどこか胡散臭くて、騙される側もギャラの為なら嘘くらいつきそう。本当に騙されるものなのか実際に間近で手品を見てみたいとずっと思っていたのだ。

「彼は一流の手品師ですよ。大会に出てみればいいじゃないかって言っているんだけど、本人は興味がないんですよね」

残念そうにそう零したマスターに向かってふっと笑みを浮かべ、軽く礼をすると安倍くんは私たちを見た。

「じゃあ、せっかくだから簡単なのを幾つかお見せしましょう」

そう言うとカウンターの向かい側でカードを捌き始めた。

最初はわくわくしながら見ていたのだけど、だんだんと腹が立ってくる。カードの下においた筈の五百円玉が掛け声を掛けただけで消えるのはなぜ?私が引いたカードがいつの間にか私の定期入れの中に入っているのはなぜ?中央の穴を人差し指と親指の間でしっかり押さえていた筈の五円玉がどうして何とか通宝という古銭に替わっているの?

「まあ、こんなもんです」

手品を終えると恥ずかしそうに安倍さんは頭を下げた。わたしたちは揃って盛大な拍手をした。

「ところで、君は珍しい古銭を君は持っているんだね」

父がしげしげとテーブルの上の古銭を見詰めた。「君」って、お父さんの大学の学生でもないのに・・・

寛平大宝かんおようたいほうじゃないか。皇朝十二銭の一つだろう?」

君と呼ばれた事を気にする風でもなく安倍さんはあっさりと答えた。

「ああ。これはレプリカですよ。見た目が新しいでしょう?」

「なるほどねぇ」

青年から渡された古銭をためす眇めつ眺めながら、

「良くできているね。本物の古代銭のようにわざわざ粗雑に作ってあるんだな」

「ええ、手作りだから結構高いんですよ。手品用に買ったんですけどね」

寛平大宝なんてよく御存じですね、と言う安倍さんの褒め言葉に父は相好を崩している。父は本当に色々な事を知っているけどそのほとんどは人生には役に立っていなさそう。

「さて、時間もこんなんだしそろそろお暇しなくちゃな」

 そう言った父は渡された勘定書きを見て驚いたようにマスターを見上げた。

「ずいぶんとお安いんだね」

「まだ、修業中ですから」

「いやあ、修業中とは思えないよ、なあ」

と言った父の言葉に母と私は頷いた。父のお尻はまだカウンター席にひっついたままだ。それを見て母は

「ちょっとお化粧を直して来るわ」

とトイレに立った。その時ふと安倍さんと眼が合った。すると安倍さんはするりと立ち上がりカウンター越しに私の前に立ったのだった。

「お会いできて嬉しいです、空音さん」

 ・・・そうか、さっきジョーカーを定期入れに仕舞った時に盗み見たのに違いない。でも勝手に人の名前を盗み見するなんて失礼な人。でも「空音さん」と名前を呼ばれた時、心がひくっと震えたことに私は動揺していた。えっ、何。この気持ちは。目を逸らして心を整える。何か手品を掛けられてしまっているのだろうか?

安倍さんはにやりと笑うと、ほら差し上げますと、両手を広げた。そこに小さな銀色の釦のようなものが二つ乗っていた。

「何ですか、これ」

「見てごらんなさい」

右手の上に乗っていた物を手に取ってしげしげと眺めると、動物の形が彫ってある。

「虎?」

「その通り」

安倍さんは微笑むと、左手を閉じて尋ねる。

「じゃあ、こっちは何でしょう?」

虎と言えば・・・。

「龍ですか」

「大当たりですね。さすが京都の人は四神の事をご存じだ」

そう言って私の手に龍の銀細工を乗せた。

「お守りにして下さい。僕が作ったものです。ほら、H・Aって中に小さく彫ってあるでしょう。僕のイニシャルです」

確かに空洞の中を覗くと小さく文字が彫ってある。

「はあ」

でも龍と虎って・・・。女の子へのプレゼントとしては何かごつすぎない?そう思いながらも頬を緩めた私に安倍さんは急に生真面目な顔をして、

「必ず身につけておいて下さい。あなたの身を守る物ですからね。どちらか一つは必ず身につけておいて下さい」

そう耳元で囁いた。

「はい・・・」

何だか頬に血が昇った。安倍さんは得体のしれない微笑みを浮かべていた。

「この竜虎のペアはどんなに長い時間、長い距離を隔てていても必ず再び出会うのですよ」


その銀細工は今、私の胸にペンダントヘッドとなって仲良く鎖に繋がれてぶら下がっていた。そっと掌で押えてみる。

「なに、ぼーっとしてるのよ、空音?」

ミキがいきなり私の眼を覗き込む。ミキは恐ろしく勘がいい。

「え、あ、ああ」

私はミキににっこりと笑いかけた。

「もしかして、本当に彼氏できた?」

「ううん、そんなんじゃないよ」

「怪しいなあ。採集網を手にした空音がぼーっとしているなんて」

「そうよね。変」

「変じゃないって。まだ彼氏なんかいないよ」

そう言いながら私はペンダントから手を離した。

出町柳でまちやなぎから叡山電車に乗り比叡山口で下りケーブルの駅と逆の山の方へ入っていくと、あっという間に人通りが少なくなる。そして京都は山に囲まれた街だという事を実感する。相変わらず騒々しく喋りながら歩いていたノンコとミキだったが、ミキが何かを見つけたのか急に立ち止まって手を翳すと一本の高い木の梢を見遣った。

「あの枝にいるの蝶じゃない?」

目を凝らして見上げると高い木の真ん中程の細い枝に一頭の蝶が止まっていた。余程目敏くないと見つけられない。ミキの眼の良さに感心する。タテハチョウの仲間なのか一定の間隔で翅を開いたり閉じたりしている。アゲハが日の当たる場所で羽ばたく女優ならタテハは木陰を好む詩人だ。でも本当に美しいのはタテハなのかもしれない。オオムラサキもギフチョウも遠く旅することで有名なアサギマダラもみんなタテハの仲間だ。

「ほんとだ」

「何の蝶?」

「うーん、タテハだろうけど、ここから見ただけじゃ種類までは分からない」

「珍しい奴かなあ?」

「私、ちょっと登ってみる」

「え、大丈夫?」

「このくらい何でもない」

私はリュックを地面に置くと、蝶の止まっている枝を確かめつつ木に登り始めた。

「すごいね、空音ちゃん。アニマルプラネットみたい」

ノンコが囃し立てたのをミキが、

「うるさい。蝶が逃げちゃうじゃない」

と制する。私は静かに木を昇って行った。

 蝶はのんびりと翅を広げたり閉じたりしている。近づけば近づくほど、見覚えのない蝶に思えてきた。全体的に赤っぽいのでエルタテハかもしれないと最初は思ったが下翅に見慣れない紋様がある。エルタテハだとしても、京都で見たと言う話は聞いた事がない。ドキドキしながら近づいてもっとつぶさに見ようと思った時だった。

 スニーカーでしっかり踏みしめた筈の枝の皮が、長雨で腐り始めてていたのだろう、突然ずるっと剥けて私はバランスを崩した。眼の端で蝶がふっと飛び立ったのが見えたのと同時に、私は落下して行った。

 あ、事故起こしたら、部が活動停止になっちゃう・・・廃部になっちゃうかも。やばいっ。

 それが「この世」における私の最後の意識だった

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