第39話 羽化④

『グルアアアアアァァ――ッ!』


 身が竦むほどの轟音。


 ニーアスを弾き飛ばした龍形の堕神おちがみが次の獲物を見つけて吼え、空気が震えたのだ。


 その黒々とした闇色の双眸は確かにロルカを捉え、狙いを定めている。


 ロルカは傷付いた腕をなんとか動かし、せめてもの抵抗にと上半身を起こす。


 足を動かすには――まだもう少し時間が必要だった。


「早く、シャルロ! ここから離れて!」


 必死で急かすけれど、その言葉にシャルロが首を縦に振ることはない。


 彼女は迫る蜥蜴とかげ形の虚無ヴァニタスを斬り払うと……ゆっくりと右足を踏み出す。


「ロルカ…………ごめんなさい。謝って済むことじゃない……だけど、ごめんなさい。あのね……やっぱりあなたは生きなくちゃ駄目。だって……あの村の人たち、皆……あなたを思ってた。あなたに生きてほしかったんだよ。赤髪の女性もそう――きっとね、あの人が最期に呼んだのは――あなたの名前だった」


「……え?」


「わ、私……ずっと……神繭カムンマユラを狩ってきた……。も、もしかしたら……あなたみたいに……人間を護ろうとしてくれていた、かも、しれないのに……。そのひとが……堕ちてしまっていたら、わ、私のせいなのに……。だから私、私が……護るから――」


 振り返る彼女の薄紫色の双眸からこぼれた涙がとても美しくて――哀しくて。


 ロルカは息を呑み胸が締め付けられる思いで彼女を見詰めた。


 シャルロは涙で濡れた頬を引き攣らせながら――懸命に微笑んでみせる。


「あなたは生きて、ロルカ――」


「シャルロ!」


 伸ばした手が届くはずもない。


 ひらりと身を翻したシャルロは蜥蜴形の虚無を引き付けながら龍形の堕神へと向かっていく。


「駄目だ! シャルロ……シャルロッ!」


 薄紫色の髪が駆ける彼女の動きに合わせて弾む。


 白銀の双剣が閃くたびに蜥蜴形の虚無が溶け消えていく。


「動けッ……早く、早く治れ――!」


 必死で足を動かそうと叫び藻掻くロルカから、彼女はどんどん遠ざかる。



 そして――龍形の堕神は彼女を獲物と定め……その首を大きく振った。



「はあぁ――ッ!」


 渾身の一撃をその鼻先に見舞い、彼女はなりふり構わず戦った。


 爪を躱し、振り抜かれる尾の下を地面を這うようにして潜り抜け――少しでも長く。



 ――ロルカの足が治癒するまでは……!



 その思いだけが背中を押す。


 彼女は幾度となく攻撃を避け、隙を突こうとする蜥蜴形の虚無を屠り、それでも龍形の堕神が己を狙うよう挑発を繰り返した。


 ……けれど息が上がり動きが鈍るのは気力だけではどうしようもない。


「はぁ、はぁ……はぁっ……あぐっ⁉」


 蹌踉めきながら少しでもロルカから離れようと走る彼女の背中に蜥蜴形の虚無が突進する。


 地面を転げ土にまみれた彼女はそれでも諦めずに体を起こし、数歩進んだところで再度攻撃を受けて地面に突っ伏すと――視線を走らせた。


 思ったよりも離れることはできなかったけれど――彼女の瞳にロルカが立ち上がるのが映る。


 自然と笑みがこぼれた。



 もう涙は出ない。



 これでいいのだ。



 その頭上から――大きく開かれた顎が迫る。



「――――よかった」



 呟いた彼女を、闇――いや、なにもない虚無ヴァニタスが包み込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る