第38話 羽化③

「――そんな――ッ、長……きゃあッ!」


 そのとき。


 なにを思ったか眼帯の男はシャルロの頬を打って地面に転がすと、ゆらりと踏み出す。


「お前は従えばいい。その憂い――断ち切ってやろう」


 醜悪な笑みがシャルロの瞳に映り――彼女は声にならない声で叫んだ。


 ――駄目、駄目――ッ やめて!


 左手に持っていた剣を右手に持ち替えた男が向かう先にいるのは虚無ヴァニタスではない。


 蒼く艶めく黒髪を振り乱し、必死に剣を振るう――神繭カムンマユラの青年だ。


 ……震えるシャルロの目の前で。


 眼帯の男が閃かせた鈍色の切っ先が弧を描き、問答無用でロルカの右足――膝の裏を深々と斬り裂いた。


「あ……がっ⁉ ……う、あああぁぁ――ッ⁉」


 ロルカの頭の奥を沸騰させるような激痛だった。


 絶叫して転げたロルカがなんとか足を引き寄せ、なにが起きたのかを確認するよりも先。


 眼帯の男はロルカの右腕を――その剣で地面に縫い止めた。



「ああああああぁッ!」



「――ロルカッ! ……ぐっ……は!」


 さらなる激痛に叫んだロルカにニーアスの気が逸れた瞬間、その隙を見逃さなかった龍形の堕神おちがみの太い爪が振り抜かれる。


 ニーアスは咄嗟に両手剣を体の左に滑らせて受け止め、直撃を免れたが――大きく吹っ飛ばされて蜥蜴形の虚無ヴァニタスの濁流のなかへと落下した。


「あ……ぐぅ……ニーアス……ッ!」


「こっちはなんとかする! 待ってろロルカ!」


 思わず絞り出したロルカに虚無のなかから応える声が聞こえる。


 そのあいだも眼帯の男はひとつだけ残った黒い右目を逸らすことはなく、ロルカの腕に突き通した剣をぐり、と捻った。


「う、ぐうぅぅッ」


「精々我らの役に立て神繭。粛清された屑どものところへ旅立つ前にな」


「…………ッ!」


「はは、いい眼をする」


 ロルカの翠色の瞳が怒りに燃え上がるのを見届けると、眼帯の男は剣を引き抜いて彼の腹に強烈な蹴りを見舞い、周りの虚無を牽制しながら下がる。


 彼は膝を突いたまま震えているシャルロに一瞥をくれると、ローブをはためかせる繭狩りたちに向けて剣を持つ腕を振り抜いた。


 切っ先を濡らしていたロルカの鮮血が茂る草を赤く染め上げる。


神繭カムンマユラを餌にしていったん後退だ! ……シャルロ、どうやらお前もここまでだな。もう少し利用してやるつもりだったが神繭とともに散るがいい。なに、美しい物語に仕立ててやろう。……くく。お前の師匠のように・・・・・・・・・な!」


「――!」


 彼が駆け出すと同時、瞳に絶望を宿して見上げたシャルロを放置したまま繭狩りたちが一斉に踵を返す。


 虚無の濁流から抜け出せなかった繭狩りはすでにひとりも見当たらず、取り残されたシャルロは自分の視界が熱い液体で揺らぐのを見た。


「……シャルロ、君も逃げるんだ……」


 額に脂汗を浮かべたロルカの声が……彼女の耳朶を打つ。


 震えながら双剣を握り絞めたシャルロは……歪んだ視界のなかでロルカが憂いを帯びた哀しげな表情を浮かべるのを見た。


「……俺は神繭だから……多少の傷じゃ死なない。だから……大丈夫」


 そう言うロルカの周りにじわじわと蜥蜴形の虚無が集まってくる。


「――馬鹿言わないで……」


 シャルロはその瞬間、ぼろりとこぼれた大粒の涙を乱暴に拭って立ち上がった。


 いくら傷の治癒が異常な速度だったとしても……神繭カムンマユラが死なないわけではない。


 ましていまのロルカは膝の裏を斬られ立ち上がることもできなければ、突き抜かれた腕で剣を振るうことすら怪しいだろう。


 彼女は地面を蹴るとロルカに飛び掛かろうとしていた虚無の首を容赦なく斬り裂いた。


 泣きそうな己を必死で……鼓舞して。


「本当に正しいのかって私に聞いたよねロルカ。あなたの村にいた赤髪の女性が――私に同じことを聞いたの。正しいと思っていた、そのはずだったのに――私……ずっと苦しかった」


 言わなければならない。


 伝えなければならない。その思いがシャルロを突き動かす。


「! ――赤髪って……ミラ……姉さん――?」


 彼女の言葉にロルカは呟いて息を呑んだ。


 ロルカにとって姉のような存在、アルミラ。


 彼女は繭狩りを前に――最期までロルカの知る強く優しい女性だった。


 それがわかって……胸の奥に熱いものが込み上げてくる。


「私……繭狩りは堕神おちがみやその眷属である虚無……そして神繭という脅威から人間を護るもの……そう思っていたの。でも違う、違ったの――間違っていたの、私」


 ロルカの目の前で声を震わせる……美しい紫水晶の色彩を持つ少女。


 アルミラはシャルロがなにかを取り戻すきっかけになってくれたのだと――ロルカは唇を噛んだ。


 いまも手足が疼き、灼熱に焼かれるような激痛は耐えることがない。


 それでもロルカは脂汗を浮かべたまま――口角を小さく持ち上げた。



 ――ミラ姉さん……ごめん。繭狩りを糾弾することはもう……できそうにないや……。だけど俺も――姉さんみたいに誰かのために最期まで強くありたい。それでいいかな……?



 それはロルカにとって諦めと同じことだ。


 けれど……意味がないわけではない。


 ロルカはシャルロのお陰でそう思うことができた。


「――シャルロ。君は逃げて。……ありがとう、それを教えてくれて」


 だからロルカはそう口にして――瞬間。


 はっと双眸を見開いた。

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