第37話 羽化②

「……なに……⁉」


 眼帯の男が残る片目だけを見開くと、ニーアスは両手剣を右肩の上に構えて地面を蹴った。


 その背に広がっていく金色の羽根が――巨大で強大な堕神おちがみ虚無ヴァニタスを照らし出す。


 繭狩りたちがざわめいて得物を構えたときには……ニーアスはすでに踏み切っていた。


 背中の羽根が羽ばたきのように揺らぐと、およそ人には不可能なまでの跳躍で一気に龍形の堕神の前へと躍り出る。


「おおおぉぉぉッ!」


 吐き出す気合に蜥蜴とかげ形の虚無ヴァニタスたちが狙いを定めるが、ニーアスはそれに構わずもう一度踏み切ると到達した頂点から剣を振り下ろす。


 ズダァァンッ


 強烈な一撃は龍形の堕神の鼻先捉え、しかし斬り裂くことができずに傾がせた。


『グルルゥ……グアァッ!』


 強襲に怒りをあらわにした堕神が右前脚をニーアスへと振るう。


 彼は後ろに跳んで回避すると蜥蜴形の虚無の頭を踏みつけてさらに後退し、その場で両手剣を振り抜いて二体を仕留め――流れるような動作で剣を引き寄せる。


 猛々たけだけしく。


 荒れ狂う嵐のような力強さ。


 ロルカは彼の姿に奮起し――腹の底に力を入れて目の前にいた蜥蜴形の虚無を剣で突き通すと、呆然と突っ立ったままのシャルロをに言った。


「シャルロッ! ニーアスを援護する、手伝って!」


「……、は、はい……!」


 思わず返答したシャルロが双剣を構え直したとき――眼帯の男が動いた。


「待て、シャルロ。後退だ」


 男の大きな手がシャルロの肩を掴む。


 美しい双眸を見開いたシャルロはびくりと体を竦ませてその険しい表情を見上げた。


「――おさ、しかし……あの堕神おちがみを倒さないと王都が――」


「黙れ。お前の長はこの俺だ。……あの堕神と虚無は神繭カムンマユラどもに任せておけばいい。それともお前は繭狩りではないのか?」


「……っ、いえ……そ、そんなことは……」


「ならば従え。潰し合いとは素晴らしいではないか。俺たちが堕神と戦ってやる義理もなかろう……あんなやつにこのまま挑んで勝てるわけがない」


「…………え」


「どちらも弱ったところを狩れば我々繭狩りにも勝機がある。なに、倒したあとの話などいくらでも盛れるものだ。神繭どもの邪魔にあっても龍を屠った英雄――いい物語だろう? 堕ちた挙げ句、復讐のために人間の都を襲うなど……やはり神繭カムンマユラは根絶やしにせねばな」


 信じられない思いが彼女の表情に如実に描き出されるのを……眼帯の男は嘲笑とともに見下ろす。



 ――なんと愚かな小娘だろうか。あんなものに立ち向かおうなどと考える無能め。



 繭狩りの長は心の底から彼女を見下し、どう躾けてやろうかと一瞬だけ思案した。


 美しい髪と眼を持つ操り人形――繭狩りが法的に許された殺人を行うために利用すべき駒。


 彼女が焦ったように視線を走らせた先を見た眼帯の男は、あぁ、と頷いた。


「あの黒髪と翠眼……粛清した村から逃げた神繭だな? 北に逃げたろうと思って追手を放ったが……まさかこんなところにいるとはな」


「……あ……」


「お前が見つけてきたのだなシャルロ? 逃げた神繭の発見――素晴らしい。お前の功績に見合った褒美を与えようではないか。繭狩りとして・・・・・・の褒美を」


 柔らかな口調でそう言い募った眼帯の男が彼女に見たのは――絶望……とでも言おうか。


 シャルロの瞳が歪められ、口元がなにか言いたげに震える。


 眼帯の男は声音を落とし、静かに問いかけた。


「お前が繭狩りでいられるのは何故だ? 我らのためにできることはなんだ?」


「わ、私が……繭狩りでいられるのは――」


 美しい色の瞳が意志を失うさまは何度見ても気分がいいものだ――眼帯の男の唇が醜悪しゅうあくに歪む。


 そのあいだもロルカは歯を食い縛って虚無ヴァニタスを屠り続けており、その向こうでは巨大な龍形の堕神おちがみ相手に金色の羽根を背負う戦神せんしんが凄まじい一撃を放つ。


 蜥蜴形の虚無たちは歌うことをやめず、咆哮を続けながら濁流のごとく狂ったように駆け巡っていた。


 その濁流のなかに取り残されていた繭狩りがひとり、またひとり――絶望の断末魔を響かせて呑み込まれていく。


 シャルロはゆるゆると首を振り――眼帯の男が言い放った指示に今度こそ悲鳴を上げた。


「王都が多少壊れようとも構わんさ。いまは後退する」

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