第34話 虚無⑧

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 虚無ヴァニタスの連なる黒い川が押し寄せる。


 ロルカは瞼を下ろし大きく深呼吸をした。



「来いッ……相手してやる!」



 カッと見開かれた翠色の瞳に映る虚無の群れは、平原を斬り裂くロルカの咆哮に気付くと向きを変えて速度を上げる。


 それを確認したロルカは踵を返すと、丘に穴が突き通された地形へ向かって全力で走った。


 日は傾いているが空にはまだ青さが色濃く残っており、大きな白い雲が地平線から膨れ上がっている。


 視界が悪くなる前に――つまり日没までには決着をつけねばならない。


 

 ――走れ、走れ、走れッ!



 ロルカは己を鼓舞し、土を蹴り飛ばして平原を駆け抜ける。


 飛び込んだ大きな穴はひっそりとして……どこか苔臭く湿った空気が停滞しているようだ。


 日の光が遮られ、奥へ奥へと駆け抜けるロルカを薄い闇が包み込む。


 正面に見える出口は遠く、けれど確実に存在することを告げていた。


「は、……はぁっ……はぁ、は……ッ」


 息が上がる。


 後方に大量の虚無の気配。


 その足音が自分の呼吸音と混ざってロルカの耳にうるさいほどに響く。


 感じるのは足下を覚束なくさせる奇妙な揺らぎ。


 自分と世界の境界が曖昧になるような心許なさが濃厚に纏わり付いて離れない。


 それでも、不快感を払い退けてロルカは駆ける――駆け抜ける。


 彼は長い洞窟のようなその場所を歯を食い縛って走りきり、日の光に照らされた「外」へと再度飛び出した。


 目に染みる眩しさに双眸を眇め――ロルカは喘ぎながらありったけの声を張り上げる。



「――はっ……はぁッ……ニーアスッ!」



「おうよ、任せろ。巻き込まれんなよ!」


 太陽に照らされた蜂蜜色の髪を揺らして出口を見下ろしていたニーアスは場違いなほど飄々と応えると――火種を落とし斜面を滑るように駆け下った。


 油の染みた紐を炎が走り――そして。



 ドゴオオオォォォォンッ!



 轟音が空気と地面を揺るがし、噴き上がる炎とともに丘が――崩壊していく。


「う……わああぁッ⁉」


 爆風に体が浮き上がり、そのまま吹き飛ばされたロルカは地面を跳ねるように転げ、もんどり打ってうつ伏せで停止した。


「げほっ……どこが強くないんだよ……」


 口の中に入った土を唾液ごと吐き出し、両腕を突いて体を起こしたロルカが不快感をあらわに思わず呟くと――ざっ、と土を掻く音がしてすぐ横に人が立った。


「特製の火薬を使ったからな。半分はさすがにいかないだろうがある程度は巻き込めたはずだ。……ここからは肉弾戦だぜ、ロルカ」


 腰に手を当て、土煙で見えなくなった丘を眺めるニーアスは飄々と言ってのける。


「わかってる。作戦はある?」


 立ち上がり――どうせ汚れるとわかっていても土を払ったロルカは頷きを返した。


堕神おちがみでもいりゃあそいつを潰すんだけどな。見た感じ全部虚無だから持久力の勝負だろうぜ。炸裂玉がもう少し残っているから渡しておく。思いっ切り投げ付けりゃ破裂するはずだ。囲まれたときに使え」


「うん。……さっきの威力は出せないのか?」


「あれは俺の特製火薬の威力だ。扱い間違えると自分が飛ぶぜ?」


「……やめておく」


「はは。……んじゃあやるとするか」


 巻き上がる土煙の向こう、黒い影が見えてくる。


 ロルカは頷くと――右の拳をニーアスに突き出した。


「……ニーアス、ありがとう。勝とう、必ず」


「ばぁか。礼なら後払い分を払ってからにしろよな。――この程度、楽勝だぜ?」


 ニーアスの拳が思いのほか勢いよく打ち合わされる。


 ロルカはふふと笑うと剣を抜いた。



 ……そして。



 崩壊した丘を回り込み、ときに踏み越えて進んでくる虚無の群れがふたりに迫ってくる。


「――はぁーッ!」


「おおぉッ!」


 ロルカとニーアスが同時に踏み出して迎え撃ち、先頭の虚無が瞬時に屠られた。


 前へ出すぎるのはまずいと判断したロルカはその場で腰を落とし、己の右肩付近から鋭い突きを繰り出す。


 ……狙うは頭。貫けば虚無とて一撃のもとに仕留めることができる。


 そこを左側から狙ってきた次の一体に、突き出した腕を引くのと同時に左足も引き寄せ、左半身を返すようにして今度は右上から左下へと剣を振り切る。


 深々と斬られた虚無が消えるのを確認する間もなく、すぐさま切っ先を地面と水平に戻して己の左側からの強烈な突き。


 流れるような剣技はここ数日のあいだにニーアスから徹底的に叩き込まれたものだ。


 ……そこから少し離れた場所、当のニーアスはロルカを視界の端に捉えたままでさらに洗練された動きを披露していた。


 大きな両手剣はそれなりに重く、振り抜けば切っ先がぶれるような代物だが――鍛えられたニーアスのしなやかな体がそれを許さない。


 突き抜かれた虚無が己の状態を理解するより早く、引き戻された切っ先が繰り出されて次の一体を屠っている。


 素早く正確な一撃は鮮やかで、彼が戦神せんしんたる存在であることを物語っていた。

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