第32話 虚無⑥

 ニーアスはちらとロルカを見たあとで彼には見えないように右手をぎゅっと握る。



 ――虚無ヴァニタスの群れ……ね。まさか近くに堕神おちがみがいるのか? ロルカにはああ言ったが繭狩りの前で羽化することになるだろうから俺にも覚悟が必要か……。



 堕神や虚無と戦うと決めたものの、実のところニーアスは繭狩り相手に戦うつもりはあまりなかった。


 繭狩りと戦って負けた一族を弔うことはあっても、仇を討とうとは思わなかったからだ。


 戦神せんしんたる彼にとって戦いに敗れることは命を落とすことである。


 つまり勝たなければ意味がない――負けたら終わりなのだ。


 そのために幼い頃から戦い方を覚え、必死で鍛えてきた戦神の神繭カムンマユラたちは……戦いに散ることを恐れない。


 だから――なのかもしれない。


 彼らが繭狩りによって狩られるそのときも堕ちなかったのは。


 戦わずに逃げることを選んだニーアスには、ずっとどこかに焦燥感があった。


 戦わなければならないと頭のなかで繰り返し声がするような奇妙な感覚に苛まれていた。



 ――こんなときに虚無ヴァニタスが活発化しているってのも皮肉なもんだぜ。どうものろま亀だけのせいじゃねぇな。……ロルカは羽化できねぇし、なんの神かもわからねぇし。また堕神がいたとしても俺がなんとかしないとならない――逃げてきた罰……なのかもな。



 ニーアスは握った拳を緩めると、さて、と息を付く。


 ――考えろ、最大限有利な状況が作り出せるように。


 この先は狡猾で用意周到な獣であることを活かす場だ……と。


 ニーアスは口角を吊り上げて――笑った。



******



 薄紫色をした髪が朝靄に溶け込むように揺らぐ。


 シャルロは息をひそめ、地を這うようにしてゆっくりと前進した。


 地に伏せる彼女の頭を悠に越す草が広範囲に茂っており、隠れるにはもってこいの場所だ。


 右腕を伸ばし、左足を引き寄せ、次は左腕を――。


 慎重に歩を進める彼女の先にいたのは朝靄のなかでも夜のような黒を纏う蜥蜴とかげ形の虚無ヴァニタス


 町で馬を借り王都付近まで飛ばしてきた彼女が見たのは――平原をゆっくりと進む信じられない数の虚無だった。


 見つかってしまう危険もあって馬を放し、もっと近くで確認するために身を伏せて進む。


 整然と並び前進するその姿は鍛え上げられた騎士の行進のようでもあり、シャルロは知らず戦慄に震える。


 ――なんなの、これは。


 この数の虚無がもしも王都を襲ったとしたら――いま王都にいるはずの繭狩りだけでは到底抑えきれない。それだけの数である。


 町を襲った堕神おちがみといい、なにかがおかしい。


 そもそも繭狩りとなってから神繭カムンマユラ虚無ヴァニタスを狩ることはあれど、堕神おちがみなど見たこともなかった。


 けれど繭狩りとして戦わなければならないことは明白だ、とシャルロは思う。


 彼女たちは神繭や虚無……つまり王国を脅かす脅威と戦う異種族狩り専門の遊撃部隊なのだから。


 ――そう、脅威。脅威と戦うの、私は。


 脅威という言葉に一瞬だけロルカともうひとりの神繭の姿が脳裏に過ぎったが……シャルロはかぶりを振って深呼吸を挟む。


 温もりある土と青い草の香りは本来ならば清々しいはずだが、ずっと胸が苦しいのは己が矛盾を抱えているからか。


 狩らなければならない神繭ロルカを――彼女は見逃したのだから。


 あのときロルカたちは堕神から町を護ろうとしていた。


 それが彼女の感情を掻き乱したのは確かだ。


 ――私の家族のときは……護られはしなかったもの。神繭はそうやって人間を巻き込む。堕ちて虚無を生み出す。私が戦うのは人間を護るため……。


 けれど、それならば。


 人間を護ろうとしていた神繭は本当に――脅威なのか。


 神繭を護ろうとしたからといって、本来護るべき人間を狩るのは――正しいのか。


 シャルロはそこで大きく頭を振って――堕ちていくような感覚を振り払う。


 ――きっとこの先におさたちがいる。合流しなきゃ……。


 次いでひとり頷くと、彼女は草地を這って大きく迂回したあとで王都へ向けて走り出した。


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